第10話 『月時計の宿』
山の奥深く、静寂とともにその宿はひっそりと佇んでいた。
澄み切った夜空に浮かぶ月が、白く輝く丸窓に映り込む。
窓はまるで夜の鏡のように、月の光を柔らかに室内に誘う。
入口には苔むした古びた木製の看板が掛かっており、時の流れを刻み込むようにその文字が朽ちかけていた。
『月時計の宿——この扉をくぐる者、一夜にして“時間”を取り戻す』
旅の途中、偶然その宿を見つけた僕の足は、なぜか引き寄せられるようにその扉の前で止まった。
どこか懐かしくも不思議な雰囲気に包まれ、理屈では説明できない胸のざわめきが、心を揺さぶる。
扉を押し開けると、ほのかなランプの灯りが温かく僕を迎えた。
古い木の香りとともに、落ち着いた空気が流れ込む。その空間は、時の流れすら忘れてしまいそうな静けさだった。
「いらっしゃいませ。」
受付には、一人の女性が立っていた。
柔らかな光を背に受けた彼女は、どこか儚げな笑みを浮かべ、声もまた静かな音楽のようだった。
「こちらの宿では、一晩の間だけ“人生の時間”を巻き戻せます。」
冗談だろう——そう思った。だが、その言葉には奇妙な説得力があった。
彼女の瞳の奥に宿る静寂が、ただの戯言ではないことを物語っているようだった。
「もし、戻れるなら——」
ふと、彼女が問いかける。
「あの日に戻れたら、あなたは何をしますか?」
その言葉は胸の奥に鋭く響いた。
思い浮かぶのは、後悔に彩られた瞬間たち。
言葉にできなかった想い。手を伸ばせば届いたはずの未来。それらが形を成し、心を締め付ける。
「……試してみたい。」
案内された部屋は、しんと静まり返り、中央には一つの大きな時計が鎮座していた。
重厚なその時計は、まるで宿全体の魂を担っているかのようだ。
やがて長針がゆっくりと逆回転を始めた。
その動きに合わせて、視界が歪み、鼓動が速くなる。目の前の空間が揺れ、世界が溶けていくようだった。
次に目を開けた時、僕は立っていた。
そこは過去——懐かしく、でもどこか切ない街並みが広がっている。肌に感じる風も、耳に届く音も、すべてが鮮やかで心を締めつける。
そして——。
あの日の自分が見える。
言えなかった言葉が、今は口元に浮かんでいる。
あの時はただ、伝える勇気がなかった。
けれど今なら、伝えられる。
でも、ふと心を過ぎる不安——もし過去を変えたら、今の自分はどうなってしまうのか?
そう考えた瞬間、全てが静止したように感じた。
結局、僕は何も変えなかった。ただ、あの時間をもう一度静かに味わい尽くしただけだった。
目を覚ますと、僕は宿の部屋に戻っていた。時計は既に元通りになっている。
「どうでしたか?」
受付の女性が静かに尋ねる。
彼女の声はどこか優しさに満ちていた。
「……あのままで、よかったと思う。」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「後悔は消えましたか?」
「いや……でも、受け入れることはできた。」
それでいい。
そう思った。
宿を後にした僕を迎えたのは、変わらぬ夜空の月だった。
白く輝くその姿は、どこか新たな旅立ちの象徴のように感じられた——。
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