百万年漂流
井上 様方
第1話 拾われた落ち武者
海底の東西に走る深い谷で、一匹の赤メバルが腹を下ろし眠っていた。体内で孵化させた数千匹もの稚魚を海中に産み放った後、好物の玉筋魚を盛んに食べて体力を回復させている。例年より早く解禁されたイカナゴ漁は既に終了しており、漁船やそのおこぼれに与る海鳥に邪魔されることも無く、この春告げ魚は瀬戸内海の恵みを思う存分堪能していた。
「お姐さん、ちょっと退いてんか」
水を掻きながら遣って来たカムロがその休息中のメバルに対して慇懃に退去を求めた。そこはカムロが頭に戴いている獣の頭蓋骨を見つけた場所で、この日もコレクションを増やそうと大いに意気込んでいた。
「ダボよ」
赤メバルは大きな目玉をいっそう大きくひん剥き悪態ついて、仲間たちのいる藻場へと去って行った。
「口の悪い姐さんや。さて、今日は何か出るかな」
カムロは水かきの付いた手で化石床をかじくように弄っていると、程無くしてそこから巨大な臼歯を摘まみ出した。その獲物を大きな目玉であらゆる方向からまじまじと見つめたが求めているものとは違うらしく、背後へ放り投げてしまった。続けて取り出したのも同じような平たい歯の化石で、やはりポイと捨ててしまう。
「ワシが欲しいのは角の付いとるシャレコウベなんや」
カムロは被っている獣の落角する前の頭骨を欲していた。落ちた角は幾度か拾い上げており、それをお気に入りの頭蓋骨にくっ付けることが出来ないかと腐心したこともあったが、上手くゆかなかった。
カムロが化石の収集に興味を持ったのはそれ程昔の事ではない。ほんの九十年程前に屛風ヶ浦で見かけた青年の影響を受けての事である。前夜の嵐の影響で崩落した崖の土の中から拾い上げた古い骨を、その男は宝物の様に戴き喜悦の表情を浮かべていた。そして明石の夕日が彼とその何者かの骨を祝福するように赤々と照らしていた。カムロはその光景を海面に頭半分を出した状態で眺めていた。古い骨ならこの播磨灘の海底でも見かけることはある。これまでじっくりと観察したことは無かったが、そんなに人を魅了する何かがあれらにあるのかと不思議に思い、幾つかの化石化した骨を収集してみた。どれくらいの歳月を経ているのかは分からないが、茶褐色に変色したそれらに命の名残を感じ、親しみに似た感情を持った。もっとも、どの箇所のものでもそうかというとそうではなく、それは頭蓋骨に限られた。あの青年が手にしていたのはおそらく人間の腰の骨であろう。カムロにはそれほど面白い形状とは思われなかった。爾来幾つかある化石床を巡回するのが日課となっており、播磨灘に棲息する者たちはカムロのその奇癖に少々迷惑していた。
「なんどいや、これ」
化石床の中からたったいま掘り出した獲物を見て、思わずそう言った。何だとは言い条、古い人類の頭蓋骨であることは明らかだった。下顎は残っていないが、それ以外は非常に良い状態であった。そしてその後カムロが本当に驚き声を失ってしまったのは、その上顎しかない、勿論声帯もない頭蓋骨がカムロに向かって喋りかけたことであった。
「私は百万年前の落ち武者で、只今道に迷って困っております。私の行先を教えて下さい」
どこから発しているのか、か細い声で切々と訴えかける。
訴えかけられたところで、カムロは戸惑うばかりであった。百万年前とはどのくらいの昔であろうか。落ち武者というからには、甲冑を着た者同士が須磨の辺りで戦をしていた頃の人間であろうか。カムロは記憶を遡ることができるだけ遡ろうとしたが、獣の頭骨で隠れている頭のてっぺんの皿が割れそうなくらいに痛み、それ以上は考えるのを止めた。
「ちょっと待ってな、落ち武者さん。ワシより古いことを知ってる奴が来とるから、そいつに訊いたって」
カムロはその百万年前の落ち武者を抱き、岩礁を蹴って浮上した。
東の空から上った満月の光が煌々と陸を海を照らしている。明石は畿内の入り口に位置し、夜に西の方角から見ると明るい土地なので「あかし」と呼ばれるようになったという謂われがある。その月下の沖合で小山のように盛り上がった海面があり、そこに付いた二つの大きな目玉が望月を見上げている。小山からニョキッと一本の腕が突き出して、手にした柄杓で海水をざんぶりと汲み上げ滝のように開いた大きな口に流し込んだ。
「蛸壺や はかなき夢を 夏の月」
飲み干してしまうと、俳聖松尾芭蕉の句を詠じた。三百三十年前の貞享五年(一六八八年)三月二十日に芭蕉は明石の地を訪れ、この句を詠んだ。
「今宵は格別旨く感じる。どれ、もう一杯いくか」
海水を汲もうと柄杓を海面に浸すと、眼下に偶蹄類の頭蓋骨が浮かび上がって来るのが見えた。
「もう酔いが回ったか」
その草食動物の骨が飛沫を上げて海面から覗くと、呑海は思わず手にしている柄杓でひっぱたいた。その衝撃で骨には亀裂が縦に走り、そしてそれは間もなく左右へ分かれて海中に没した。その下から顕れたのは知己のカムロの見慣れた頭頂部の皿であった。窪みに海水をなみなみと湛えている。
「ワレ、どないしょんど、いちばん気に入っとる骨をめんでまいよってからに!」
カムロは声を荒げた。大切なコレクションを破壊されたことに加え、下手をするとその下にある命ともいうべき皿まで割れていたかもしれないのだ。
「いやあ、すまん。身の程知らずの亡霊が喧嘩を売りに来たのかと思ってな」
呑海は凶器となった柄杓で己の頭を掻いた。もっともこの海坊主、どこからどこまでが頭と言って良いのかは分からないが。
「アンタ、いちおう海のヌシなんやろ。そんなモン相手にせんでええやんけ」
カムロは憮然として言った。
「世界中の海を回っておるとな、離れていた間に幅を利かす輩が出てくることも珍しくはないのだ」
「そういうもんかいな。とりあえず、こちらの落ち武者さんの声を聴いたって」
カムロは胸に抱いていたシャレコウベを突き出した。飛沫が呑海にかかり、忽ち同化した。
「私は百万年前の落ち武者で、只今道に迷って困っております。私の行先を教えて下さい」
太古の人類のむくろは先程カムロに訴えたのと同じ言葉を口にした。
「流石のワシでも百万年も前の事は分からんな。その頃この辺りは海ではなかったのではないか」
「瀬戸内海はまだ無くて、明石から淡路島の辺りにかけて広がる大きな湖の周辺は草原でした。メタセコイヤやオオバタグルミ、ノグルミ、エゴノキ、コナンキンハゼ、シキシマハマナツメなどが生茂り、そこをシカマシフゾウという大型の鹿が駆けまわっていました。今し方まで河童のアナタが頭に被っていた骨はそのシカマシフゾウのものです」
シャレコウベは往時を懐かしむように語った。
「あれ、そんな名前やったんか」
カムロはその化石を台無しにした呑海を睨みつけた。呑海は浮き球のような目玉を北の空の北斗七星へ向けた。
シフゾウは中国語で「四不像」と書き、蹄は牛に似て牛でなく、頭は馬に似て馬でなく、角は鹿に似て鹿でなく、体は驢馬に似て驢馬でなく、四つの動物に似ていてどれでもないことからこの名前が付いた。シカマは姫路市の飾磨ではなく、発見者である鹿間時夫博士の名前に由来する。
「海のモンではない骨がここいらの海底でよう見つかるんは大昔に陸やったからなんやな」
カムロは長年の謎に合点がいって、手挟んだ骸骨を夜空に掲げた。
「我々の仲間は、石を用いた武器でそれらを狩りました」
骸骨が少し自慢げに云った。
「ごっついな。そやけど大昔とは様子が変わってしもとったら、落ち武者さんの行先いうんも探せへんのとちゃう?」
カムロは防波堤の並ぶ西八木海岸を眺めた。そこはかつて護岸工事されるまで浸食が進み続け、海岸線は一年間に一メートルから一・五メートルも後退していた。
「ここから見えるところだけでも随分変わってしまった。カムロはたまに陸にも上がるだろう。やはりそちらも変わったか?」
カムロは好物の胡瓜を入手するために、人間の子供に変装して明石の町や郊外の畑をうろつくことがある。その際は頭の皿に水を貯めて帽子で隠して乾燥を防ぐ。帽子や衣服や靴は沿岸の民家で洗って干している物から拝借し、海へ帰る際に返却した。律儀なことだがそれら衣類には胡瓜のような、また魚のような臭いが付着するため、哀れな被害者はもう一度洗い直すか、また捨てるかの選択をせねばならなかった。
「こないだの戦争で焼けたこともあるけど、新しい建てもんでいっぱいやわ。あ、お城の櫓はまだ残っとる」
明石城の天守閣は戦災で焼けたわけではなく、築城当初から無かった。第二次世界大戦時には明石への空襲は六回に及び、標的は当初林崎村和崎に作られた川崎航空機工場周辺であったが、やがて市街地にも爆撃の狙いは拡げられ、そのほとんどが焼失した。
「ワシ、ギオンさんのお供えもんをシッケイしに行った時にえらい目に遭うたんや。深夜やったのに突然明るうなって、爆弾が空からようさん降って来てな。その衝撃で体ごと跳ね上げられて地面に強う打ち付けられたんや。被っとった防空頭巾はどっかに飛ばされてしもて、辺りを見渡したら一面火の海や。ギオンさんも隣の岩屋神社も焼けとった。ワシはおとろしゅうなって、一目散に海へ向こうて走り出した。波門崎燈籠堂が目に入るまでの時間がえらく長う感じたわ。人間はホンマどくしょいことをする。あれは地獄やった」
現在の明石岩屋神社の西に牛頭天王を祀る祇園社が在った。牛頭天王は明石浦に垂迹し、姫路の廣峯神社から京都八坂の祇園に移ったとされている。お供え物は切り口が祇園社の神紋「五瓜の唐花」に似ていることから胡瓜が一般的であるが、そもそもはマクワウリであった。
「胡瓜どころやなかったな」
「瓜の品評会の時は毎回この話をすることにしとるんや」
カムロは夏になって瓜が穫れるシーズンになると普段は中々顔を合わせることの無い仲間たちと各々お気に入りの品種の瓜を持ち寄り、品評会という名の懇親会を行う。福崎市川の河太郎河次郎兄弟、本郷川の尻引マントが熱心な参加者である。福崎の河太郎河次郎兄弟は胡瓜をこよなく愛しており、尻引マントは加古川や明石で栽培されているぺっちん瓜を至高の物としている。カムロもぺっちん瓜を長く推してきたのだが、近年は網干メロンに夢中である。一口齧ると口中に爽やかな甘みが拡がる。明石から姫路の西の端に位置する網干までは結構な距離があるのだが、そんなことは問題ではない。西隣の御津の青瓜の評判も良く、そこまで足を延ばすことにしている。
「落ち武者というからには戦に敗れたお方なのでしょうが、百万年前などという大昔にもやはり戦争があったのでしょうか?」
その途方もない時間をこのシャレコウベが経験しているとは俄かには信じがたく、呑海は試すことにした。
暫し間があった。
「私はB29爆撃機の落とした二百五十キロ爆弾によって焼失したのです」
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