新訳:歌う丘
白河雛千代
第1話
音のない、静かな朝だった。
切り立った崖の前のこんもりと緑が
そこから一人の少年がやってくる。
朝の
この世の全てが見えない代わりに。
そして迷うことなく、その足や爪を、硬い
寄りかかった。
何もないはずの空間に対し、けれど少年は、いたって安らかなる顔で語りかけるように、口を開いた。
言葉もなく。
◇
昼過ぎになると、少年の屋敷から更に坂を下っていった
その村は緑豊かな山の
一団の目的は若き男たちであった。彼女らはそうして人間の集落を
彼女らは腕の大きな両翼を広げて村人たちの頭上を羽ばたき、
訳もわからず掴まれた子供は泣き叫び、足元の母は空に両手を掲げて降りかかった不幸を
「ああ! どうか、どうか許してくださいまし! 私の子だけは! 連れて行かないで! どうか!」
ハルピュイアの一団の、若きリーダー格が、声だけは世界的オペラ歌手にも負けない美しい響きで言った。
「おほほほほ、どうかどうか。それはこちらのセリフですことよ、人間のお母様方。どうか、ご理解なさってくださいまし。わたくしたちは何もあなた方の息子たちを取って食おうなどとは言っていないのだから。少しの間、お借りするだけなのだから。むしろ、お返しする頃には、感謝さえなさることと思いますわ」
「そんなことを言って、いつになるか分からないのでしょう? 風の噂によれば、そうして子供の頃に攫われた子たちが、お爺さんの代になってようやく釈放されたと聞きます。それはもう、私たち人間にとっては死別も
「そうですわね。わたくしども、魔族の寿命はあなた方とは大分違うみたいですわ。でもご心配なさらないで。たった数十年のこと。歌でも歌って、お酒でも飲んでいれば、あっという間じゃないかしら? あなたも歌いなさいよ。歌って、
そう言うとリーダー格の娘は仲間たちに合図して歌い出した。
それはまさしく天使の歌声。
耳をくすぐるような
ハルピュイアの歌声には、そうして人間を脱力させてしまう魔力があるのだ。
捕まっていた子供も青年たちも
「ああ、力無き母を許して……どうか我が息子よ」
「おほほほ、わたくしたちの歌に酔いしれてしまいなさい。その方が楽になれるわ、お母様」
その時、ふいに丘の上から少年が下りてきた。
あまりにも静かな振る舞いだったから、ハルピュイアの娘もすぐ
目を閉じた少年は村の中央広場まで来ると、また鼻をすんすんと鳴らして
リーダーの娘が地べたまで舞い降りて、少年を見下ろすと、その脇で先ほどの母親が
「待って……その子はいけません。その子は
「どうしたことかしら。この子、私たちの歌が効かないとでもいうの?」
少年は周囲の物体を確かめるように腕を中空で
娘の、翼の先で一体化した手がそれを素早く捕まえると、少年はわざとらしいまでににっこりと
「
娘は間もなくその手を払い
「——あぁ……そういうこと。なるほど。この子……目が。そして耳も聞こえないのね。どれ、少し試してやるわ」
娘はこう言うと、さっきまでとは更に比べ物にならないほどの、もはやこの世のものとは思えない歌声で広場を
ハルピュイアの魔力を全開にして発声に込めれば、そうして人間の
村人たちは先ほどとは打って変わって、今度は苦しみに悲鳴をあげた。眼を見開き、血走らせ、己の生命が細胞の一つ一つから引っこ抜かれていく地獄の苦しみに
しかし少年は何にも気づかない。
目の前でどれだけ悲惨な光景が広がっていようと、絶望的な響きが大気に波紋を広げていようと、
歌唱が終わると、ハルピュイアの娘の
「なんて
娘は表情を
「人間のお母様方。あなた方の可愛い息子たちはわたくしどもが責任を持って大切にお預かりいたしますわ、それではごきげんよう。おほほほほ」
そうして草原の青い空を渡り、子らを連れ、渓谷の奥地へと飛び去っていくのだった。
◇
その晩、村人たちは
男たちが
一方で渓谷のハルピュイアの巣では連れ帰ったばかりの人間の若き男たちを中心にして
酒に男に酔いしれる
「いつもならお酒を飲んで歌って酔いしれる楽しみを味わえるのに、今はまったくそんな気にならない。それら全てがバカみたいに見えて仕方ないわ……あの小僧のために……まさか私の歌声を無視するなんて、そんなこと、許されていいはずがないのに」
そうして数日が過ぎ、
女中たちは心配しているものの、その長を
静かな昼下がり。丘を囲む森林にこっそりと
人間の目にはその者の魔力によって何も見えていないのだが、魔族である娘の目にははっきりと見えている。
それはハルピュイアなど及びもつかないほどの恐ろしい怪物——ドラゴンだ。
それが丘の周囲の木々に沿って、中央の石碑までぐるりと取り囲むように羽根をやすめて横たわっているではないか。
かなりの老竜だった。さぞかし名のある者だろうと、ハルピュイアの娘は改めて息を潜めた。
そしておそらく、どんな魔法を使っているかは判らないが、少年にも見えているのだ。
この世の他の一切が見られない代わりに、ドラゴンの姿や息吹をはっきりと感じ取って、語らっている。
けれどもその少年の声は、娘の魔力を持ってしても何ら耳に入ってくるものではないのだった。
◇
夕暮れが過ぎて、迎えにあがった女中に連れられ、少年が屋敷に帰っていくのを見送ると、ハルピュイアは警戒しながら広場に出てきて、老竜と相対した。
その巨大な
「人間の子供に、そこまで興味があるのかね。歌と享楽だけが生きがいの
「珍しいとは、あの子とあなた様の方ですわよ。いったいどんな魔法をお使いになっていますの。先ほどのやりとりはいったい……わたくしには何も聞こえなかった」
娘が
「それはそうだろう。なにせあれは魔法でも何でもない。あの子が自然とやっていることなのだから」
「魔法ではない?」
「左様。鳥人の娘よ、
「どういうことかしら。わたくしは見えているわ。聞けてもいる。それが出来ていないのはあの子の方じゃなくて?」
「彼はいつもここに来ては歌っておるよ。話してもおる。観てもいる。私はそれを
「
「巣にお戻り。鳥人の娘よ。そして自らの未熟さを思い知るがいい」
「老竜よ。なら、あなた様はなぜここにおりますの? なぜあの子に構ってらっしゃるの?」
「古き友との
老竜はそれだけ言うと、もう話を止め、
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