新訳:歌う丘

白河雛千代

第1話

音のない、静かな朝だった。

 切り立った崖の前のこんもりと緑がゆる丘の上には小さな石碑せきひがあり、周りは深い木々に囲まれている。その円の隙間から坂を下っていくと、大きな屋敷やしきが見えた。

 そこから一人の少年がやってくる。

 朝の木漏こもの下を、葉の影の下を潜り抜けるようにして、一歩、一歩と坂を登り、石碑を中心とする広場まで来たとき、少年は一度、空を……まさしく宙を見据えるように……目を閉じたまま、香りや湿度を感じ分け、手繰たぐるように、確かにじっと捉えた。

 えているのだ。少年には。

 この世の全てが見えない代わりに。

 そして迷うことなく、その足や爪を、硬いうろこで覆われた背や尻尾を巧みによけて、広場の中央、石碑の前に腰を下ろした。

 寄りかかった。

 何もないはずの空間に対し、けれど少年は、いたって安らかなる顔で語りかけるように、口を開いた。

 言葉もなく。


 ◇


 昼過ぎになると、少年の屋敷から更に坂を下っていったふもとの集落で、おそろしい事態が起きた。

 その村は緑豊かな山の中腹ちゅうふくに位置しているのだが、最近近くの渓谷に住み着いた半身を鳥類、半身を人間という鳥の化け物、ハルピュイアの襲撃しゅうげきを受けたのである。

 一団の目的は若き男たちであった。彼女らはそうして人間の集落をおそい、男をさらっては巣につれ帰り、交配を繰り返してきたのである。

 彼女らは腕の大きな両翼を広げて村人たちの頭上を羽ばたき、たかのような鋭い足の爪や羽根で巻き起こした暴風を武器にして村の用心棒を容易たやすく退けると、今度はその爪で若き男たちをつかんで連れ去っていく。

 訳もわからず掴まれた子供は泣き叫び、足元の母は空に両手を掲げて降りかかった不幸をなげいた。

「ああ! どうか、どうか許してくださいまし! 私の子だけは! 連れて行かないで! どうか!」

 ハルピュイアの一団の、若きリーダー格が、声だけは世界的オペラ歌手にも負けない美しい響きで言った。

「おほほほほ、どうかどうか。それはこちらのセリフですことよ、人間のお母様方。どうか、ご理解なさってくださいまし。わたくしたちは何もあなた方の息子たちを取って食おうなどとは言っていないのだから。少しの間、お借りするだけなのだから。むしろ、お返しする頃には、感謝さえなさることと思いますわ」

「そんなことを言って、いつになるか分からないのでしょう? 風の噂によれば、そうして子供の頃に攫われた子たちが、お爺さんの代になってようやく釈放されたと聞きます。それはもう、私たち人間にとっては死別も同義どうぎなのです」

「そうですわね。わたくしども、魔族の寿命はあなた方とは大分違うみたいですわ。でもご心配なさらないで。たった数十年のこと。歌でも歌って、お酒でも飲んでいれば、あっという間じゃないかしら? あなたも歌いなさいよ。歌って、享楽きょうらくに全てを忘れてしまえばいい!」

 そう言うとリーダー格の娘は仲間たちに合図して歌い出した。

 それはまさしく天使の歌声。

 耳をくすぐるようなさわやかさでありながら、時に甘く、うっとりとさせてしまう美麗びれいな声色だった。

 ハルピュイアの歌声には、そうして人間を脱力させてしまう魔力があるのだ。

 捕まっていた子供も青年たちもたちまち泣き止み、母親たちもその歌を聞くだに全身の力が抜け、眠りをいざなわれ、広場の真ん中で足元からくずれ落ちてしまう。その寝しなにも、涙を流しながら。

「ああ、力無き母を許して……どうか我が息子よ」

「おほほほ、わたくしたちの歌に酔いしれてしまいなさい。その方が楽になれるわ、お母様」

 その時、ふいに丘の上から少年が下りてきた。

 あまりにも静かな振る舞いだったから、ハルピュイアの娘もすぐそばに来るまでその存在に気づかなかった。

 目を閉じた少年は村の中央広場まで来ると、また鼻をすんすんと鳴らして異様いような事態を悟ったように見えたが、尚鳥人ちょうじんの娘らを恐れることなく近づいた。

 リーダーの娘が地べたまで舞い降りて、少年を見下ろすと、その脇で先ほどの母親がうめいた。

「待って……その子はいけません。その子は男爵だんしゃく様の忘れ形見がたみ。どうか……」

「どうしたことかしら。この子、私たちの歌が効かないとでもいうの?」

 少年は周囲の物体を確かめるように腕を中空で彷徨さまよわせ、指先で辺りを探った。丘の上から屋敷の女中メイドがあわてて駆けつけるも、遅かった。

 娘の、翼の先で一体化した手がそれを素早く捕まえると、少年はわざとらしいまでににっこりと破顔はがんして、娘の顔があるだろう方向に笑いかけた。そして、掴まれていない方の手をまるでアンテナのように伸ばして、ハルピュイアの娘の顔に触れるのだった。

無礼者ぶれいもの! いったい、いきなり何を——」

 娘は間もなくその手を払いけたが、これまたすぐにかんづいて、いわくありげに目を細めた。

「——あぁ……そういうこと。なるほど。この子……目が。そして耳も聞こえないのね。どれ、少し試してやるわ」

 娘はこう言うと、さっきまでとは更に比べ物にならないほどの、もはやこの世のものとは思えない歌声で広場をとどろかせた。

 ハルピュイアの魔力を全開にして発声に込めれば、そうして人間のたましいだって吸い出してしまうことができる。だからいつもは加減して歌っているのだが、この時はそのくらいに本気だった。

 村人たちは先ほどとは打って変わって、今度は苦しみに悲鳴をあげた。眼を見開き、血走らせ、己の生命が細胞の一つ一つから引っこ抜かれていく地獄の苦しみにもだえたのだ。

 しかし少年は何にも気づかない。

 目の前でどれだけ悲惨な光景が広がっていようと、絶望的な響きが大気に波紋を広げていようと、やなぎに風、暖簾のれんに腕押しというように、少年は目を閉じたまま顔を揺らし、相手の顔の位置さえ探るので精一杯なのだ。

 歌唱が終わると、ハルピュイアの娘のうるわしい両の目が、この村に現れてから初めて興味深げに物を見た。

「なんてにくたらしい。そして哀れなの! わたくしたちのこの美貌びぼうも美声もお前にはわからないなんて。お前みたいなのは、いらないわ! 子孫に傷をつけるわけにもいかないもの」

 娘は表情をみにくゆがませてもうろうの少年を厳しくめつけると、口惜しげにこう言い、気を取り直して仲間たちに帰還きかんを合図した。

「人間のお母様方。あなた方の可愛い息子たちはわたくしどもが責任を持って大切にお預かりいたしますわ、それではごきげんよう。おほほほほ」

 そうして草原の青い空を渡り、子らを連れ、渓谷の奥地へと飛び去っていくのだった。


 ◇


 その晩、村人たちはなげきの杯を掲げて、涙に酔いしれた。

 男たちが総出そうでで渓谷に子供たちを取り返しに行くことも考えたが、魔性の歌声の前ではどれだけ屈強くっきょうでもどうしようもない。考えれば考えるほどあきらめざるを得ないのである。

 一方で渓谷のハルピュイアの巣では連れ帰ったばかりの人間の若き男たちを中心にしてうたげもよおされていた。しかし、リーダーの娘は乗り切れなかった。

 酒に男に酔いしれる同胞どうほうの輪の外から、それら一連の行為を侮蔑ぶべつさえするような目つきで見下みくだし、彼女は一人、ぼやいた。

「いつもならお酒を飲んで歌って酔いしれる楽しみを味わえるのに、今はまったくそんな気にならない。それら全てがバカみたいに見えて仕方ないわ……あの小僧のために……まさか私の歌声を無視するなんて、そんなこと、許されていいはずがないのに」

 そうして数日が過ぎ、ふもとの村人たちが子らの失われた傷はいやせずとも、表面上は生きるための日々の作業に再び従事じゅうじできるようになってきた頃、少年はいつものように丘の上で何もない宙に向かい、語らっていた。

 女中たちは心配しているものの、その長を筆頭ひっとうにいつしか少年のこの不思議な日課に口を出すものはいなくなっていた。

 静かな昼下がり。丘を囲む森林にこっそりとい降りたリーダーのハルピュイアは、間もなく仰天ぎょうてんして、木陰こかげに身を隠しながら警戒を強めた。

 人間の目にはその者の魔力によって何も見えていないのだが、魔族である娘の目にははっきりと見えている。

 それはハルピュイアなど及びもつかないほどの恐ろしい怪物——ドラゴンだ。

 それが丘の周囲の木々に沿って、中央の石碑までぐるりと取り囲むように羽根をやすめて横たわっているではないか。

 かなりの老竜だった。さぞかし名のある者だろうと、ハルピュイアの娘は改めて息を潜めた。

 そしておそらく、どんな魔法を使っているかは判らないが、少年にも見えているのだ。

 この世の他の一切が見られない代わりに、ドラゴンの姿や息吹をはっきりと感じ取って、語らっている。

 けれどもその少年の声は、娘の魔力を持ってしても何ら耳に入ってくるものではないのだった。


 ◇


 夕暮れが過ぎて、迎えにあがった女中に連れられ、少年が屋敷に帰っていくのを見送ると、ハルピュイアは警戒しながら広場に出てきて、老竜と相対した。

 その巨大な体躯たいくからすると、人間大のハルピュイアなど小動物にひとしく、自身の身の丈ほどもある大きな爬虫類はちゅうるいの眼が、娘をしかと捉えている。しかし、強者きょうしゃの必然か、威圧感いあつかんや恐怖などは微塵みじんもなかった。

 おだやかな老竜はずっとその存在にも気付いていて、ハルピュイアの娘が出てくるや、待ちかねたように先に言った。

「人間の子供に、そこまで興味があるのかね。歌と享楽だけが生きがいの野蛮やばんな鳥人の娘が、珍しいこともあるものだ」

「珍しいとは、あの子とあなた様の方ですわよ。いったいどんな魔法をお使いになっていますの。先ほどのやりとりはいったい……わたくしには何も聞こえなかった」

 娘が愚痴ぐちらすように話すと、老竜はにべもなく返した。

「それはそうだろう。なにせあれは魔法でも何でもない。あの子が自然とやっていることなのだから」

「魔法ではない?」

「左様。鳥人の娘よ、其方そなたはまだ若い。自身の先天的な資質ししつおぼれるだけで、実際のところを視えておらんのだ。聴けてもおらぬ」

「どういうことかしら。わたくしは見えているわ。聞けてもいる。それが出来ていないのはあの子の方じゃなくて?」

「彼はいつもここに来ては歌っておるよ。話してもおる。観てもいる。私はそれをつぶさに聴いている。其方にはまだ聴けておらんのだろうがね」

むずかしいことをおっしゃらないで。けれど……でもそう、確かに。わたくしにはあの子の声は聞こえない。あの時、あの子は、わたくしに何かを言っていたの? だとしたら、なんて……?」

「巣にお戻り。鳥人の娘よ。そして自らの未熟さを思い知るがいい」

「老竜よ。なら、あなた様はなぜここにおりますの? なぜあの子に構ってらっしゃるの?」

「古き友との盟約めいやくがゆえに」

 老竜はそれだけ言うと、もう話を止め、かたひとみを閉ざした。ハルピュイアの娘は、胸に芽生めばえた想いを抱えながら、渓谷の巣に飛び立っていった。

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