不屈の硝子細工職人:4 カルボ

白河雛千代

第1話

"えっさ、ほいさ、ほいさ、えっさ"

 職人たちの朝は一部、早くなりました。

 幾人かの職人の間で毎朝、工房の外周を周るのが習慣となったのです。

 隣町からやってきた空前絶後の風雲児、鬼軍曹ペスカの来訪とともに。

 "俺たち不屈のガーラスっ!"

 並走するペスカの掛け声に続いて、幼き二人の姉妹も続きます。

 "俺たち不屈のガーラスっ!"

 "細工職人って言おうとしたけど、ガーラスっ!"

 "細工職人って言おうとしたけど、ガーラスっ!"

 "で止めたから、もうよく分かんないよ、ガーラスっ!"

 "で止めたから、もうよく分かんないよ、ガーラスっ!"

 "細工職人って、ちょっと語呂悪いよ、ガーラスっ!"

 "細工職人って、ちょっと語呂……"

 ノリと付き合いのいいロッソはともかく、ロゼはやや高度な羞恥プレイに遭っている気分。

 "なんだこの歌……"

 内心そう思って顔を伏せながらあとに続くのでした。

 "ぜんたーい、止まれ! ぴっ、ぴ"

 ランニングが終わると、迷彩のベレー帽をかぶったペスカ軍曹の鳴らす笛の音にあわせて玄関前に整列。姉妹のどちらもまだ息を整えるのに精一杯ですが、ペスカは背筋をそりかえらせ、休みなく声を張り上げます。

 "点呼!"

 "いち!"

 "にっ"

 "わんっ!"

 "おや……おかしいな。もう一度。点呼!"

 "いち!

 "にっ"

 "わんっ!"

 "ん……これは我輩としたことが不覚である。一が二人いるような気がしてならない……"

 しかし、そうして首を傾げて間もなく、ペスカは再度声を張り上げます。

 "誰が座っていいと言った! このクズども!"

 鬼軍曹の叱咤が飛びました。

 ランニングの疲労感から座り込もうとした二人でしたが、慌てて立ち上がります。

 ペスカは一人一人の顔を睨み、さらに喝を入れていきます。

 "貴様はなんだ?"

 "はっ、ガラス細工職人ロッソです!"

 "違う! 貴様はただの守銭奴だ! 街の保安官に色目を使ってお駄賃を巻きあげるホア活女子だ! 年端もゆかないATMを丸め込んで食うアイスの実はうまいか?!"

 "正直、最高のおやつです! 隊長は出前奢ってもらって美味いですか?!"

 "余計なことは言わなくていい! 見下しているはずの男に甘え、糧を得ておきながら、アイスを舐め上げた同じ口で相手を嘲笑、罵倒する。そんな生き方が恥ずかしくないのか!"

 "隊長こそ保安官の名前、覚えてますか?! 覚えられないんですか! 恥ずかしくないんですか! マイケルですよ、マイケル!"

 "よし、次! 貴様はなんだ?"

 "よしじゃねーよ! 無視すんなー"

 "はっ、ガラス職人ロゼです!"

 "違う! ガラス"細工"職人だ! ガラス職人っていうと本当に工芸品を作って売る職人になるだろ! すぐにあれが違う、これが違うとお仕事警察が飛んでくるぞ! 奴らの相手はめんどくさい! 我々は絶対にしない! むしろ現れたらコケにするぞ、ネタにするぞ! 我々はガラス"細工"職人なのだから! 復唱しろ!"

 "奴らの相手はめんどくさいっ! 絶対にしない!"

 "お前がきちんと仕事するのめんどくさいだけだろー!"

 "そうだ! マスク警察は実在した! めんどくさいことの裏には必ず奴ら◯◯警察の暗躍がある! 言いがかりのきっかけすら与えるな! 汚職を許すな!"

 "ズブズブでボロボロやんけ! 隊長が既に!"

 三人目はいないはずでしたが、ペスカはロゼの隣の、胴体ひとつぶんくらい低い位置に鈴を見つけます。何やら犬くさくはあるものの、膝をつき、鳴らしながら続けることにしました。

 "わんわんっ!"

 ちりんっ、ちりんっ……。

 "点呼はもういい。いいか。もうどうしようもなく辛くて脱退したくなったときはこの鐘を鳴らすんだ。すぐにもおふくろさんの元に戻してやる。だが、世界を変えたいなら、決して、決して鳴らさないことだ——よし、休憩"

 ペスカが満足げな、とにかくいい顔をして、どこかで聞いたような訓示を垂れおえると、二人の姉妹はまだ肩で息をしながら、力を抜きます。

 "ふぅー……朝からいい野次飛ばしたなー今日も"

 "ペスカ、明日は私の番だからね。隊長役……そしたら、貴様はただの双極だって罵倒してやる……"

 "そんな明日は永遠に来ない"

 "自分の番になったら逃げんのかー!"

 そうして皆、体力トレーニングあがりのソフトテニス部員のように玄関先に座り込んでいると、その大扉からビアンゴが顔を出し、目をこすりながら言いました。

 "朝からすごいね……"

 "おはようございます! マリ……ビアンゴ嬢"

 ペスカが立ち所にしゃちほこばった敬礼をし、二人の姉妹も続きます。

 "おはようございます!"

 "ざいます!"

 "わんっ!"

 "このあとはブルガリアンスクワットが両脚合わせて四十秒。フロント、バッグ、サイドランジを二十秒ごとで太ももの前後ろ、股関節まわりを徹底的に追い込んだのち、朝バナナのメニューとなっております! ご見学されていきますか"

 "あははは。ううん、もう面白いの見れたから私はいいや。今日は特に予定もないし、もうちょっと寝てこようかな……"

 "左様でございますか……!"

 笑顔で返しながら、その裏、けれどもペスカには少々気がかりなことがありました。

 というのも先日ペスカが着任して次女ロッソ三女ロゼの二人を預かり、長女ビアンゴのストレスを緩和させたまではよかったのです。

 しかしその一方、ビアンゴ本人は完全に気が抜けてしまったようで、今や朝寝坊や二度寝三度寝はデフォ、その日の気分でご主人様のせわを焼いたり焼かなかったり、ごろごろしながら大好きな恋愛漫画を読んでおせんべいを食べたりと退廃した生活スタイルを謳歌し、さらにはペスカの食べさせが高じて一日の摂取カロリーも増しました……その結果……。

 "——我が隊の女神は本日も平穏無事、つつがなくお過ごしのようだ……だがしかし、このように毎日くっちゃねくっちゃねとしていては彼女は、ぶっちゃけ太ってしまわれないか心配だ——"

 肉の溝が余計な輪っかを描いてでっぷりと重たくなった両脚、ぱつんぱつんに肥えて袖からハミ出し、テカリ輝くたくましい二の腕ハム。頬肉に持ち上げられ細くなった目つき、顎には二つ目のふくらみが。

 ペスカはガラス細工職人ゆえの優しさから慎重に言葉を選んでそう思いましたが、そうです、妹たちの世話に追われた以前の薄幸的な印象はどこへやら、ビアンゴは確実に肥満の域に達していました。

 太ってしまうのではなく、もう太っているのです。

 "——はっ、いかんいかん。貴様……ペスカ、ペスカっ! 越権行為であるぞ、ペスカ! マリア様はなぁ……っはぁ……マリア様は、健康体なのである!"

 語るも地獄、語らぬも地獄。ペスカは脳内で激論を交わしつつ、吹き出す汗でだくだくになりながら健気に笑いかけました。

 "すーぐ極端から極端へとはしるー。もうそんなコントみたいなことしてー、ビアンゴったらおっちょこちょいさんっ"

 "あはははーもうペスカったらー冗談が上手いんだからー"

 二人の少女の笑い声が木霊する爽やかな朝の一幕——。ロッソ、ロゼの二人もつられて笑いかけた次の瞬間、ふとビアンゴが続けました。

 "……本当に冗談かな"

 普段の慈しみに溢れた聖母のそれとかけ離れた、マグマのほとりで彷徨う亡者の呻きのように低い声でした。

 笑いかけた二人の姉妹は即座に自分の頬を平手打ちして緩んだ表情を誤魔化します。

 "違うよね、今の間違いなく本音だった……よね? やっぱり? そんな風に思ってたんだ……? でも仕方ないよね、私がだらしないからいけないんだし、うん、大丈夫! 解ってるから! 休んでも休まなくてもペスカに気を使わせちゃって……"

 空を仰ぐと、ビアンゴは哀しみが瞼から溢れないようにと、ふるえる下唇を噛むようにして続けました。

 "ほんと。何やってもダメなやつだなぁ、私って……"

 ロッソはチラ見でペスカを突き刺し、ロゼも焦ったようにその背をせっつきます。

 "お、おい。失言だ! ビアンゴ姉ちゃんを泣かせたら貴様はお茶碗を三本の指で支えるようになる! すなわち小指、薬指、親指だ!"

 "ええと、ええと……大丈夫! ビアンゴ!"

 懸命な呼びかけにビアンゴが虚な眼差しを返すと、続けざまペスカは言いました。

 "今週の木曜、病院の予約とってあるから! お薬もらってこよ?"

 "こわ……"

 ビアンゴは扉の影に隠れながら言いました。

 "準備がよすぎて、こわいよペスカ。それに病院ってさぁ……"

 "——ペスカァッ! ビアンゴ姉ちゃんになんてことを!"

 間髪入れずロゼが胸ぐらを持ち上げ、ペスカの胃袋は硫酸をそそいだようにぶくぶくと沸騰しておりました。

 "じ、じゃあ、いったいどうすれば……"

 "それにしたって病院はないと思う"とロッソ。

 頚椎をロゼに締め上げられ、口から泡を吹きながらペスカは白く霞む意識の狭間に思いますが、しかししかしこの状況。もうすでに詰んでいました。ペスカは100%勝てません。

 なぜなら、全てを無にす終末魔法にしてメンヘラ最終奥義"こわい"が出てしまっています。

 それは一線を超えてしまった証拠であり、どう返そうとも言われた側が加害者になってしまう禁忌にして最強の魔法——"こわい"がでた時点でその人との関係はもうなにもかも終わりです。

 これは意訳すると、私は悪くない。あなたが全て悪い。——以上のことを理解し、私の友達にタコ殴りにされた上でボロ雑巾のような姿をさらし、私の人生から消え、独りぼっちでみじめに寂しく生きてゆけぇ! ざまあみろ! 女王である私に楯突くからこうなるのだーっ! ヒャーハッハッハッ! という詠唱を省略したコミュニケーションの断絶嘆願になります。

 自らの不徳に不誠実、都合の良さに慢心etcと向き合うことから逃げ、責任を丸ごと相手に押し着せ、弱者を装うことで味方を呼び寄せ、さらには他虐の正当化まで成し遂げる。終末魔法"こわい"の一言。これは彼我ひがの使用者こそ限られるものの攻撃、防御共に一見隙のない完璧な魔法です。

 ですがペスカは不屈のガラス細工職人。

 常人なら逆蛙化を起こしても何ら不思議ではないこの瀬戸際においても、まだギリ大丈夫。

 五臓六腑がまるっとただれおちようとも、それしきのことでマリア様の御心を諦めるようなやわい神経などはなから持ち合わせていません。ある意味キチ……いえ、ご主人様ゆずりの鋼鉄の魂をその芯に宿していたのでした。

 "一旦全て、マリア様に言いたいことは一回全部、横に置いて……そうだ。ミスドはどうかな? 機嫌の悪いときはとりあえず寿司、肉、甘いもの、とにかく高いものを食わせておけば……あぁ、はは、それではまた太ってしまうじゃないか。これ以上醜く堕ちゆくマリア様は見たくないのが本音だというのに何言ってんだ私。しかし、なら……い、いったいどうすれば——"

 それはまさに天啓でございました。

 ふと舞い降りた神のひらめきにペスカは澱みかけた瞳に光を取り戻し、煌めかせます。

 "——これだ……! もう……これしかない!"

 百術千慮の果て、ペスカはいい加減にロゼの腕をタップして下ろしてもらい、息を整えながらすっ——と真正面を向くと、そのまま押し黙るのでした。

 "…………"

 秘密の工房の玄関先。

 三姉妹にペスカと散歩紐を垂らした柴犬、それから遅れて散歩から帰ってきた飼い主カルボを加えて五人と一匹。

 互いに見つめ合ったまま、沈黙が、流れます。

 "…………"

 "…………"

 "……ってなんかいえや!"

 "いや、なんか言うとそっからこじれる気すっからさー、あーしはもういっそ黙ってようかと。何も喋らない方がいいかと……でもたぶん駄目だろうなあ"

 ビアンゴは大扉の陰にさらに一歩あとずさり、身を潜めて言いました。もはやおでこの生え際しか見えません。

 "なんで黙っちゃうの……なに考えてるか分からなくてこわいよ……ペスカ"

 "ほらね。逆に分かってきた気もする。うん、悪くないね(フランス語では良いという意味)。楽しくなってきた"

 "私をいじめるのがそんなに楽しいんだ……"

 "いや今のは不安がらせないようにっていうか、ほら、つられて一緒に笑ってくれるかな? って。はは、本当に楽しいとかそういうことじゃなくて……"

 "いま笑う場面じゃないよね……"

 "そうでした。ごめんなさい"

 ペスカは鼻の奥に血の匂いを覚えながら、次から次へと言い訳(笑)を考えますが、同時にこうも思います。

 語るも曲解、語らぬも曲解。反論一つも疑義の元。

 こうなったビアンゴメンヘラは胸先三寸、どれだけ積んでも吹き飛ばされる賽の河原も同然。違う意味で無敵の人。さしものペスカも手のつけようがありませんでした。

 "そうか、あの……顔は出てくるけれども名前の出てこない保安官もこんな気持ちだったのかもしれない。ロッソにもキツいこと言われちゃったしな。マ——まで出てるんだけどな。はは、なんでこんなことも覚えらんないんだろ、私……"

 "……なんで何もいわないの。なんか言ってよ"

 気づけば彼女ヅラでのたまうビアンゴを前に、ペスカもいよいよ覚悟を決めます。

 "やれやれ……こうなったらもう、しかたないなぁ"

 ペスカは言いながら、ばっ、と上着を脱ぐと、朝日の下、サラシ巻きの上体とぷるぷるの白い腹筋をさらけ出し、地べたに膝をついて言いました。

 "かくなる上は腹を切ってお詫び致す——!"

 ペスカがどこからか取り出した刃のひっこむ短刀のおもちゃを逆手に握りしめると、そこでようやくとカルボが口を出しますが気付かれません。

 "……はぁ、みんな……朝から元気でいいねぇ"

 "左様! 元気でなければ自決もできぬ! イチ! ニ! サン! ヤーっ! ……で、刺す! メンヘラにはよりヤバいメンヘラ! ……本当に刺すよ?"

 切腹のポーズを決め込んだままペスカがちらっと伺うと、ビアンゴはいつの間にか扉から姿を現し、近くにしゃがみこんでペスカを見下ろしていました。

 そして漆のごとき光の通わない瞳で言いました。

 "いいよ。見ててあげる"

 "え……"

 "そうか。ぼくも散歩じゃなくて朝練したら、いさぎよく逝けるようになるかな……筋トレやってみようかな。このぼくの見えないクソみたいな世界にお別れを告げるために"

 "ペスカの最期、私が見ててあげるから"

 "……ほ、本当に刺すよ? 私……"

 "うん、いいよ。私が見届けてあげる。そうしてペスカは私の心の中で生きていくの"

 "っはぁ……はぁ……"

 "さ、はやく"

 ペスカは大きく咳払いをして一度間を置くことにしました。が、ペスカが握っているのは刃の引っ込む玩具。狂言がバレたらどうなるでしょうか。過呼吸に喘ぐ脳内でペスカは思います。

 "や、やややりきってみせるしかない……! 例え玩具でも、マリア様がそれに気付いた上で煽ってるのだとしても——! らばこれが私の天寿なのである! グッバイ、ご主人様——"

 ペスカが"うおおおおお"と雄叫びをあげると、

 "わんわんっ!"

 いい加減にしなさい、とでも言うようにアンチがペスカに飛びかかり、ついでにカルボの存在をも周知します。

 いつから立っていたのでしょうか……。朝靄の中、そうしてたたずむ影の薄い職人の、手入れの行きとどいていない白くてちりちりの長髪はぷんと漂う一抹の犬くささを伴い、ともすれば雪山にひそみ、迷い込んだ旅人を喰らうため、夜な夜な包丁を研ぎ澄ませる白髪の老婆のようで——ペスカは先日同様小さな悲鳴をあげました。

 "ひっ——"

 "え、あ、アンチ、だめだよ。ペスカは犬怖いんだ"

 しかしアンチはもう止まりません。ペスカの顔をぺろぺろぺろぺろ、どこか慰めるかのようにして目の辺りを余計に多く舐め回していきます。

 "わんっわんっ!"

 "ご、ごめんね? アンチのやつ、君たちに混ざるのがよっぽど楽しかったみたい……"

 "あ、ううん、それは……いいんだけど"

 実際ペスカが怖かったのはカルボの能面のような顔のアップだったのですが、それはさておき気掛かりなのはビアンゴでした。

 ビアンゴはアンチに迫られ尻餅をついたペスカを見ながら、なんと機嫌を取り戻し、無邪気な幼児のようにお腹を抱えて笑っていました。

 "あれ? あれれ……ペスカぁ。アンチがそんなに怖いのぉー?"

 "あ、あれ……?"

 それは堕ちた聖女のごとく邪気に満ちたまがまがしい微笑みでしたが、ペスカはホッとするとともに、なぜかしら芽生えだした感情にためらい、疑問符を浮かべます。

 "いじめられてるはずなのに、哀しいはずなのに。この感覚……なんで、私……"

 一方でそれはビアンゴも同様でした。

 "おかしいな……こんなこと、いけないはずなのに憎まれ口が止まらないよぉ……"

 二人は戸惑い、まるで同じことを思います。

 "こんなマリア様も悪くない……"

 "ペスカをいじめるのってなんだか、楽しい……"

 トゥンク……と高鳴ってしまう胸の鼓動。二人、朝から病んだ境地にまた一歩足を踏み入れるのでした。

 "トゥンクじゃねえし。なんだ、この二人……"

 ロゼは内心呆れて思い、そして二人の視界にやっぱりカルボは少しも入っていないのでした。

 今回はそんな人生やる気ナッスィンガー。存在感ダイラタンシー、実体クールビズ、いたことを認知されてなくて後日お土産話を聞かされる、けどコワモテ。カルボのおはなしです。

 少々重めの場面もありますが、どうぞ肩の力をぬいてお楽しみください。



 いつも心にガラス細工職人。

 ご主人様と異体同心。不思議なつながりを持つ職人たちの秘密の工房では、今日も朝早くからガラスの割れる音と悲痛な嘆き声が響きます。

 ぱりーん、がしゃがしゃ。

 "あぁ〜またかぁ……"

 一階、作業場奥のかまどの前で一人の職人が顔面を覆い隠し、膝をついていました。

 "また一からやりなおしかぁ……"

 カルボです。今日もちりちりの白髪をモップのように床に広げながら絶望しています。

 なぜ働くのか、なぜ生きるのか。なぜ誰かを求めなければならないのか。人は一人では生きられないのか。寂しくなってしまうのか。目が覚めたとき、ふと人肌恋しくなって泣いてるあれなあに? わかんなーい。日々と輪廻をかけた名句に毎日歩く道でも見える景色は違う云々とあって、確かに違うけれども、周囲の人間を吹っ飛ばしてリムジンに乗ってくる奴がいる。時には電車やレーシングカーに乗ってる奴もいる。何なら別に歩いていかなくても向こうから寄ってくる奴までいる始末じゃないか。それが歩いてる奴からするとムカつくんだ。みんな乗せるか、さもなくば歩かせろ。どっちかだ。

 と、日頃そんなことをつらつらと考えては頬杖をつく天才文豪のような側面も垣間見せるものの、実際はやっぱりただの頭でっかちなメンヘラ駄々っ子です。

 ここはそんなガラス細工の心を持ったご主人様たちに仕える、職人たちの秘密の工房なのですから。

 なので、カルボは今日も短い腕をいっぱいに伸ばして、解すにもしきれない茫漠な宇宙の広がる頭を抱え込んで嘆くのでした。

 "うぅ……ご主人様……どうしてぇ……"

 カルボにとって口先から出てくる文句というのは氷山の一角にすぎません。目の前の一つの失敗から、過去の様々な、つもりつもった不幸や失敗が呼び起こされ数珠のように連鎖して、今、重たく膝をつく五月病のごとき症状となって顕れるのです。

 学習性無力。燃え尽き。諸行無常にふてくされ。

 あの時こうしていたら。自分のあの言動がよくなかったかもしれない。傷つけてしまったかもしれない。

 そんな風に考えて、どんなに時間が経とうとも、傍からみると一見関係のないように見えても、頭の中でつながって切り離せないのです。

 どうしたらいいでしょうか。

 どうにもできません。

 本人が過去の失敗を克服し、それでもと、強くムキムキな心のマッチョになる以外には……。

 "おお、今日も今日とて割れとるねぇ。今度は何があった?"

 こういうとき率先してフォローに入るのはロンチでした。おせっかい焼きでおしゃべり好きな褐色太ももパツキンレディ。次点がジェノべ。すらっと細身にクールで詩的な探偵型職人です。けれど彼女は身体が弱く、ときどき調子が悪くなることがあります。

 カルボは受験に敗北した生徒のごとく涙ながらに言いました。

 "うぅ……げ、玄関までは行ったみたいなんだ……"

 "玄関とな"

 "そう……それでお靴も履いてね。今度こそ行くぞ。俺はやるぞ。やるぞーって意気込んでいったんだけど……そこからが遠くて……どうしてもそこから一歩、腰があがらなくなっちゃって……"

 "あー……ま、そういう日もあるよ"

 "そうそう。落ち込むことはないよって励ましたんだけど意気込んだ分、「ああ! やっぱりできなかった! 何や(↗︎)ってんだよオレ! こんなだから彼女もいないし、仕事もこなせないし、大も小ももらすんだよ!」って閉じこもっちゃった……"

 カルボは悔しげに地面を叩きつけながら、

 "あぁっ! あのときすでにストッパを知っていればなぁ……人間はなんて愚かなんだ……"

 "あー、よしよし。清掃のおばちゃんに言わせると春の風物詩らしいよ。ま、今日はおいしいご飯作ってやるからさ……元気だしなよ"

 "無出生主義は否定できない……ぼくらはもう何も産まないほうが幸せなんだ……"

 "排便からすごい結論とこいった!"

 ロンチがその背をなでる他方、ペスカは入口の方からボンゴレ姉妹とその様子を覗き……ビアンゴがこっそり耳打ちします。

 "カルボはね、てかあくまでカルボのご主人様はね、大きな失敗をしてから自信がなくなっちゃったんだ"

 "小さな失敗もあったみたいだね"

 "うん。それで社交に不安があるようになってね……一つ一つ、普通にできなくなっていったの"

 "ふむ……"

 ペスカが腕を組んで熟考すると、またそこでは縦横無尽に奇々怪界、奇妙奇天烈な星々飛び交う別のややこしい宇宙が広がりますが、その果て、彼女は何気なく言いました。

 "玄関が苦手なら窓から出ればいいんじゃない?"

 ペスカの、パンがなければお菓子を食べればいいんじゃない? 提案に一同ふりかえると、作業場はしずまりかえるのでした。

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