第5話

その山はなだらかな登り坂から、中腹は開拓され、公園になっており、登山というよりは単純に散歩の延長だと旦那さんは言っていた。

 実際近づいてみると、入り口は葉の散った木々に囲まれており、見た目の上では山というより寒々しい雑木林である。

 周囲の道路は舗装されつつも、入り口の付近は手付かずで、足元にはコンクリートのない自然が見えている。

「よっしゃ、タイガー特派員。おにぎりは持ったかー」

「普通に今、食べたいよ。先にこっち来ればよかったね」

「それがね、その公園までもそんなかかんないんだって。だから、昼時にいって丁度いいくらいって聞いてさ」

 陽菜さんはコンビニのポリ袋を片手にそう言うと、一歩山道に足を踏み出した。

「ふーん。まぁ、じゃなきゃそもそもこの時期には勧めない——」

 僕もそんな風に言いながら後に続いて、間もなくのことだった。

「——か」

 と続けたまさにその刹那である。

 その空白の、間にすらなっていない合間に、陽菜さんの姿が影も形もなく消えていた。

「は——? え?」

 僕は当然、周囲に視界を巡らせて陽菜さんの姿を探した。が、どこにもいない。

 すぐに旦那さんの話を思い出した。

 ——それは神の飯だ。絶対に手をつけちゃなんねえ。

 神? 神様……?

 思い当たるのは、飯云々ではなくシンプルにその部分。世界的に有名なあのアニメーション映画のタイトルにもなった単語。

 僕の足元は山道に踏み入れたところである。

 彼女が消え失せたのも、ほぼ同じポイントである。

「神隠し? うそでしょ……山入って三秒で神隠しに遭うやついる?! ——つか、神隠しってそういうことじゃねぇよなあ!」

 僕はあまりの急転直下に思いっきり声を出して突っ込んでしまい、すぐさま反省した。

 胸に手を当てて、深呼吸する。この二日で熟練度が一気に上がり、たちまち冷静さを取り戻した僕だったが、一旦森の外に出ようとして振り返り——さらに仰天させられることになった。

 今度は腰が抜けるかと思った。

 気がつけば、そこもまた森林なのである。

 入り口であり、自然と人居住域との境であり、舗装されたコンクリートの道路に通じていたはずの坂が、 気付けば180°どこを切り取っても、鋭い枝の伸びた木々が立ち並ぶ山間の景色になっているのだ。

 しかし、この事実は僕の脳髄に一つの真実を確固たるものとして示していた。

 ということは、つまり。

「隠されたの、僕のほうじゃん……」

 僕は一人恥を忍んで呟くと、とぼとぼ歩き出した。



 山で遭難した時は必ずその場でじっとしていましょう、という話を聞いてはいたのだが、相手はおそらく神様であるからして、定石がそのまま通ずるとは限らない。

 それに中を進むと公園になっているという旦那さんから聞いた話も重ねて、僕は辛抱できない言い訳にし、山を登り始めてしまったのだった。

 ちなみに絶対にやってはいけないことは、下ることだそうである。

 なぜなら、山というのは多くの人が想像しがちな円錐状をしているわけではない。むしろそんな形通りの山など滅多になく、大概は多くの地形が重なり合って産まれているものだから。

 登ったり、下りたり、そこにはたくさんの地図上では想像しにくいような勾配がひしめきあっている。そこで一番怖いのが、下れたけれど、登り返せないという状況なのだ。

 滑落してしまったり、かろうじて下りれたはいいが、周りが崖のような坂に囲まれていた、というような場合を想像してみよう。詰みである。

 基本的に、自然とはめちゃくちゃなのだ。

 人間の世界のように規則正しく、理路整然としているものなどない。

 ある意味ではそんな杓子定規という観念こそ、人間の最たる特徴なのかもしれない。

 しかし、登れど登れど休息所らしき風景は見えてこなかった。

 もう何時間が経ったものかも僕には分からない。

 この状況になって間もなくスマホを確認したところ、奇妙に機能しなくなっていた。時計は止まり、電波もなく、当然Googleマップも陽菜さんと連絡をとることもできなかった。

 まさに五里霧中。

 僕はなぜこんなことになってしまったんだろう? とか、それでもなぜ進んでいるのか、とかひたすら考え続けながら、山を登った。

 そのうち不毛なことをしているような気にもなってくる。登れど、見える景色は変わらない。それなのに体温は徐々に、徐々に失われていく。ジリ貧感。ここで一歌。

 あるけども、あるけどもなお、我が景色。豊かにならざり、ぢっと足を見、なおあるく。はいはい啄木啄木。

 だからそんなふうに、絶望してしまわないようにひたすら僕は考え続けた。

 くだらないことでも、野心的なことでも、厭世的なことでも、とにかく思考を止めないようにした。僕は何度となく講義中に乱入してきたテロリストを華麗に対処して一躍大学のヒーローとなったし、時には朝に突然毒虫になって陽菜さんに介護されたこともあった。ついぞ虎になったことはなかった。けれども、夢の中では何者にでもなれる。それが一人の時間を支えた。

 悲観的な考えが入ってこないように、時にはかぶりをふり、頬を叩いて、思考を楽観的に努めた。

 次第に、一人のことだけを想うようになった。

 たった一人だ。

 不安も大いに生まれたけど、その人との楽しい思い出を考えるときだけ、僕は深呼吸するみたいに心の底から安堵もした。

(陽菜さん……)

 陽菜さんはどこにいる?

 会いたい。会ったらこれはもうダメだ。僕は全霊をもって感情の本流に従い、全てを打ち明けてしまうだろう。そうしたい。心から想う。むしろなぜ今までそうしてこなかったのか、悔やまれてならない。

 もしかしたら、もう会えないのか。

 無駄な問いかけだ。答えは分からん。

 いつもそうだ。

 行いに対して、光が差す保証なんかない。

 これが正解? あれが間違い? そんなことは結局どっちを選択したって付きまとって、僕らには確かめようがない。現実が無慈悲に静寂をもたらして反響してくるだけだ。

 でも、だから、進むのかもしれない。

 足が棒になって、もう力を感じられないようになっても、とりあえず進まなければ答えさえ得られないから。

 それが静寂であっても、混沌であっても。

 でもできれば、光のある、温かなものであればいい。

 そして明日も良い日になりますように。

 それだけ。

 それだけ、考えて——。

 けれど二月の冷たい外気に晒され続けた肉体には限界がある。冷気というのは奪う力である。そうして奪われ続けた僕の身体は次第に熱を発せなくなり、機能しなくなっていく。

 そこは坂の途中。

 地べたの剥き出しになって、冷気にさらされ、湿気を帯びた泥土の際に生えた一本の木の根元。

 そこに僕はついに腰を下ろしてしまった。

 スニーカーの底がめくれていた。

 足の裏の皮もめくれていた。

 全身がもう痛い。

 立ち上がれなさそうだ。

 それでも暖を取らねばと、肌をすり寄せるように縮こまり、体温の回復に努めた。

 まだやれるって、立ち上がるときを考えてるみたいに。

 しばらく目を閉じていると、——しゃん、しゃん。と音がした。

 なんと言えばいいだろう。軽い、金属が幾重にも連なって、それらが擦りあうような音——。

 しゃん、しゃん。

 まさに神の導きかと思った。

 これは——僕の想像が正しければ、きっとあれだ。

 しゃん、しゃん。

 錫杖の音だ。

 しゃん——。

 音が鳴り止んだ。

 僕が薄く瞼をあけて見上げると、そこに、一人の尼さんがいた。

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