羊と尼と井の中の蛙(光)
白河雛千代
第1話
乃子ちゃん宅で一夜を過ごした次の朝。僕らは互いに目のクマを深く刻んだ、いたく不健康な顔を見合わせて、
「おはよう……」
「うぇい……」
共に一回の洗面所を借りて、歯を磨いた。
「やっぱ眠れなかったんだ……」
僕がまだ磨き中に言うと、友人の陽菜さんはコップを片手にうがいをしたところで、返した。
「うん……どうしても山羊のやつがきになって……」
「山羊……?」
「山羊……」
陽菜さんはまるで地獄の使者を想定するように重々しくその名を口にしながら、コップをゆすぐと、そのままこちらに差し出した。
「ん」
「え」
僕の寝ぼけた視界が思考とともに、その一瞬でぴたりと止まり、速やかに解読を試み始める。最大公約数とか最小公倍数とか……しかし、それら一切を遮って真実を示すように、陽菜さんは続けて言った。
「洗ったから大丈夫。……嫌ならいいけど」
「う、うん……あ、いや、ぜひ使いたいって意味……あ、いや、ぜひ使いたいって、そういう意味ではなく……」
「ふふ……なにそれ。言語野バグってる」
僕は正直、ハグしたくなるくらい嬉々として、されどそれを表面化しないよう苦心しながら、とたんに可愛らしく見えてくるなんの変哲もないピンク色の陽菜さんのコップを受け取り、自身も口をゆすぐのだった。
実は朝からそんなことがあったのだった。
「おはようございまぁす……ふぁああ」
僕があくびを漏らしつつ、キッチンに赴くと、もう朝食の準備ができているようで、少し申し訳なくもなったが……。
「おはよう。あら、どうしたの? お二人とも。もしかして、寝付けなかった?」
「いいえ、そんなことは……ないんですが」
「……あらあらまぁまぁ。お若いものねぇ、おほほ」
すぐに撤回した。
奥さんが何やら白々しく言うと、旦那さんが珍しくふぉっふぉっと笑って、
「元気があっていいことだ」
「爆発しろ爆発しろ爆発……」
他方の乃子ちゃんは何かおぞましいものでも見るようにこちらを見ていた。
座敷童子が当たり前のように食卓を囲む風景にも慣れたものだが、この大らかさというかツッコミ不在の感覚はきっとこの夫妻が原因だと思い至った。
だからちげえっつの。と鋭く突っ込みそうになって、僕は昨日、正論でボコボコにされたことを思い出して、口をつぐんだ。
その日、僕らは垣原 大輔少年宅を尋ねるのだけど、平日であって少年は学校のはずであった。
朝から夕方近くまで手をこまねいているのももったいなく、またお世話になっている夫妻に他にも何かできないかという気持ちがあって、申し出てみると、
「そういえば、このところ池田さんが妙なことを言ってたかしらね……」
「妙なこと?」
「何でも……古井戸から声が聞こえてくるとかなんとか」
友人は目を輝かせた。
一方で旦那さんも、
「ほれ、この家の前をずーっと行ったところに山が見えんだろ。今は寒いからあんまり寄ってくもんもねえが、春とか夏になるとそりゃ大勢の人が来る。お
「名所なんですね」
「昔から霊験あらたかな場所でな。古い社や祠なんかもある。肝試しにゃうってつけなんじゃねえか」
「肝試し……」と、これは僕が呟いた。
旦那さんはおそらく僕らのことを修学旅行に来た学生かなんかに思ってるに違いない。
(——まぁ)
「社……祠……」
ちらっと隣を覗くと、これにも友人は食いついているようだった。
(……そう、違いはないか)
「そうだな……あとあの山に行くなら、握り飯を持っていけ」
「山頂で、食べるんですね?」
「そうだが。曰くあってな……」
旦那さんは少し声を低めて、言った。
「飯を持たねえではいると、途中でお腹が空くだろ。そうするとだ……見定めたかのように天から握り飯が降ってくるのよ。しかし、それは神の飯だ。絶対に手をつけちゃあなんねえ。手をつけると——」
「つけると——」
「より食いたくなる。もっと、もっと、ほしくなるのよ。そうすると今度は連れが邪魔になる。コイツがいなけりゃもっと食べられる……そう思っちまうんだな。ちょうどそこは山頂に近い崖の上。話に聞く尼さんも最初は仲睦まじい三人連れだったそうな。しかし、"そうして"一人、また一人と減り、最後の一人になると、また見定めたかのように握り飯は降ってこなくなった……残った一人はついに一つの握り飯にさえありつけず、山姥のようになってしまった——という話だ」
僕は畏敬の念で、友人はきっと期待で、それぞれ生唾を飲んだ。僕らのそんな様子を見て、旦那さんは豪快に喉を鳴らして笑った。
「言い伝えだよ。山道で食べる握り飯は美味いからな」
「なるほど。おにぎり界の良いプロパガンダになるな、これ。しかし、私的には持っていかない方が美味しそうなのだが……」
「おにぎり界のプロパガンダってなに」
「第二の恵方巻き路線。どうですかキラッ」
「キラッて……」
僕が突っ込むようにそういうと、友人は細い顎を触りながら、
「しかし、あいにく素人が一緒か……仕方ない。ここはイージーモードでいくとしよう」
「もう何の話かも分からないよ」
僕は呆れて、そういうのだった。
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