随想のスワンプマン(心屋の追想編)

白河雛千代

第1話

今、通りがかった男子が私の方を見て、あからさまに顔を逸らした。隣に並ぶ別の男子とこそこそ何かを言いながら、横を通り過ぎていく。

 私は別にミサンドリストなどではないから、性別に偏った言い方はやめておいて、改めると、

 バカって、なんでああもバカなんだろう。

 それが例え気遣いであったとしても、こうも態度に出されれば人の気を損ねるということも想像できないのか。

 つまりそれは、はなから気遣いなんかじゃない。

 気遣いという薄っぺらいお為ごかしで繕った連帯表明。自分たちではない、その他の誰かを差別することで自分の立場を守り、かつ隣のものへ圧力をかける、極めて陰湿で醜い、自己満足マスターベーション、同調示唆しさ

 だから、私は心の中で、あるいはぼそっと聞こえるように口に出して、

「死ねばいいのに」

 と、せめて言葉に換えて応答する。そんな呟きでは、相手に届くはずもないと分かっていながらも。

「気にしない方がいいよ」

 同じようにはっきりと言葉に換えて、訴えてくる子もいた。それが三村みむら 凜子りんこだった。

「あんなのさー、すぐ流れてっちゃうもんだって。構うだけ時間の無駄。楽しいこと考えよ? ね?」

「ありがとう。三村さん」

「凜子でいいよ。呼びやすいでしょ?」

「うん。凜子。じゃあ、私も法子で」

 彼女との付き合いは中学に入ってから、日々のそんな積み重ねで培われたもの。

 とはいえ、私の気は晴れなかった。だって、もうそれは消すことができない、勝手に私の人生に刻まれてしまったタトゥーのようなものなのだから。

 私の盗撮動画が同校の生徒の間で出回っている。

 という噂が浮上して、間もなく全校集会で、あるいは朝、下校のホームルームで、頼りにならない教師たちは、犯人たちの名前を述べない実にふんわりとした説教で事を済ませた。

 人の身体を不条理かつ身勝手に想像して弄んだ歴とした犯罪行為への処罰は、しかし、少年院に送られるわけでもなく、たったそれだけのことで終わったのだ。

 全校生徒のスマホや自宅のPC諸々を隅々まで調べあげて、私の体育の時間の姿が映った動画をしらみ潰しに消していくこともできないし、例えそうしたところで、出回ったデータの全てがこの世から完全に消えたという実証にもならないのだから、他にはしようもないのだろう。だろうが、こんなのは普通に警察の仕事だろ。

 突き出せよ。犯人だって分かってんだろ。

 未成年だからなんだ。親が偉かったらなんだ。そいつのこれからの人生がなんだって言うんだ。

 他人の人生に消しようのないタトゥーを勝手気ままに刻んどいて、なんでそいつらは当たり前のように同じ空気を吸い、同じ教室に通ってんだ。

 人も世も保護者も教師も、この国を育む全ての空気が。

 気持ち悪い。

 キモい。キモい。

 キモいキモいキモいキモいキモいキモいキモい!

 その頃の私はいつだって、そんな、爆発しそうな気持ちを抱えながら過ごしていた。

 そんな時だった。

 声が聞こえたのだ。

 周囲の全てを嘲笑うかのような冷たい声だった。

 そんな、当たり前に満ちているこの国の空気の全てを、笑い飛ばすかのような、少年の乾いた声が——。

「……で?」

「でって……戌井、お前……いらないの? 大丈夫だよ。皆やってるし、先生だって結局見て見ぬ振りだったし、何なら……」

「いやあのさ……そういうことじゃなくて。マジでくだらねぇっつってんの」

 お昼休み。いつものように男子たちが教室の窓際、ベランダに通じる出入り口を塞いで屯しているところ、その男の子の声は、まるで連中の恥部を衆目に晒そうとするかのように、はっきりと教室内に響いた。

 にわかにざわつきだすクラスメイトに混じるように、私もさりげなく、振り向くともない角度で振り向き、目線だけでその声の主を捉える。

 中学に入ってそうそう暴力事件は起こすわ、髪は脱色するわ、ピアスは空けるわで、教師からも目をつけられ、先輩からもよく絡まれている、生粋のアウトサイダー。

 それが戌井いぬい 真理まことだった。

「これ見てシコってんの? 触れもしねぇのに? だっせ……つか本人、そこにいんじゃん。頼んでみたらいいじゃん、見せてくださいー! って。俺が代わりに聞いてきてやるよ」

「え——ちょ!!」

 戌井くんはそういうが早いか、教室内に向けて「心屋ー!」と声変わりしかけの変調の声で呼びかけた。

 心屋こころや 法子のりこが私のフルネームだ。それで私と目があって間もなく、戌井くんは席まで一足飛びで寄ってくるや、一欠片の躊躇も遠慮もなく机の上に手をついて、

「ちょっといい? つか、聞こえてた?」

「う、うん……」

「アイツら、お前のことが好きなんだってさ。どう思う?」

「え……」

 試すように、同じ質問を繰り返した。

「どう思う?」

 死んだ魚のような、その頃の虚な眼差しを、今でもよく覚えている。

 それは戌井くんの鞘当てだ。私がどういう人間なのかを、次の一挙手一投足で見定めようとしているかのような、怖い目つき。

 私は、その時、まだその視線を受け止められなくて、目線を逸らしながら……けれど。

「……っ」

 ——けれど小さく答えた。

「いや、かな……き……きもちわるい……!」

「だよなぁ? あんなキモい連中になんか想像もされたくねーって俺も思うよ——でもさ、もっと大きな声で言うもんだぜ。そういうことは」

 戌井くんはこう区切ると、続けて首だけで振り返り、廊下まで響くような大声を張り上げた。

不破ふわ中一年二組、男子一番、荒井 琢磨くん! 四番、石井 守人もりひとくん! 十五番、山中 翔太くんさー! こういう、クラスメイト盗撮して、シコってるような陰湿でイカくせぇ奴ら、マジで! 心底! きもちわりぃってさ!」

 最後はもう怒号だった。

 戌井くんはそうして、まるで射殺すような目線を、今度は、教室の隅で屯する男子たちに向けていた。

 取り上げたスマホを男子たちに叩きつけるように投げ返すと、更に低く凄むように続ける。

「死ねよ、死ね。もういいから自殺しろよ、お前ら。みんな、事故って惨たらしく死ねばいいのに。お前らみたいなゴミ虫見てると人間にうんざりすんだよ。次、俺の前でうぜぇこと言ったら、問答無用で殺すから。氏名住所、やったこと全部、世界中に晒した上でバラバラにして殺すから。法律が許そうが、この国の空気が許そうが、俺が絶対にゆるさねぇ」

 新入生の列を眺めて、からかってきた三年の先輩を殴り飛ばして喧嘩になった。入学式のその日に前科を刻んだ戌井くんのことは、同級生はまだしもクラスメイトなら誰でも知っていた。

 戌井ならガチでやりかねない。

 そんな張り詰めた空気に皆押し黙り、固唾を呑む中、けれど——、

「————」

 けれど私は、胸のつっかえがとれたような、暗澹あんたんとした膿のようなものが一気に絞り出されるかのような、晴れ晴れとした心地を、澄んだ空気を、久しぶりに感じていた。

 その、小さいのに、クラスの誰よりも大きな背を見つめて。

 戌井くんは大抵、一人だった。友達がいないというよりは、特定の誰かとよくいるということがなくて、神出鬼没に現れたり、気づけばどこにもいなかったり……。それは休み時間であれ、授業中であれ、お構いなしに。

 その時、自分のいたいところにいる。そんな感じで。

 まるでこの世の理に、一人、抗おうとするみたいに、最初から決まっている規則には無条件では従わない。けれど自分勝手ではあるものの、話が通じないわけでもなくて、ときどき周りで気づいた人が注意すると、素直に応じる面もあって、そんなところまで自由気ままな風来坊そのものだった。彼の言葉を借りれば、気に入れば従うし、気に入らなければ死んでも従わない。それをわがままだとして嫌う人ももちろんいたけれど、私はそんな彼が羨ましかったし、それを嫌いだと言う周囲の反感さえ、素直に羨望できない裏返しのように思えた。

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