呪文

 ──いつも通りに、時間は過ぎる。


 アスターはリビングのカーペットに専用のコロコロを掛けていき、シャムロックはクッションに置かれて映画を観賞して、春花はシャムロックの隣に腰掛けながら、書庫から持ち出した書籍に目を通す。


 ──いつも通りに。だが、目を凝らせば違う。


 アスターはぼんやりしながら手を動かしており、シャムロックは見るからに映画に集中していない様子でいて、春花はなかなか頁をめくらない。


 ──いつも通りに、とはいかず。


 三者三様に、ちらちらとリビングの扉を気にしていた。それが開く瞬間を、そこから入って来るであろう人物を、誰も彼も待っている。

 口を開かず、耳を澄ませ、時計の針は進んでいった。流しっぱなしの映画はエンドロールが終わり、次の映画が始まる。


 ──そのタイミングで、扉が開いた。


 男達の視線が扉に集中する。それを浴びるは二人の女。

 一人は、白髪混じりの金茶の髪をボブにした中年女性で、前髪に白い花びらの飾りを着けており、水色のワイシャツと紺色のパンツルックで、ほんのりぽっちゃりした体型と常に微笑みを浮かべた顔が、人に安心感を抱かせる。

 もう一人は小柄で華奢な若い女性であり、髪も瞳もワンピースも靴も全て黒に統一され、同じく笑みを浮かべているものの、ずっと見ていると胸がざわついてくるような女だった。

 春花は書籍と入れ替わりにシャムロックを抱えて立ち上がり、アスターはコロコロを壁に立て掛けて、それぞれ女達の元に向かう。


「先生、どうでしたか?」


 最初に口を開いたのはアスターで、その顔はどことなく不安そうだ。

 先生と呼ばれて答えたのは中年女性の方で、笑みを浮かべたまま、問題ないですよと彼らに告げる。それぞれが安堵の吐息をもらした。


 本日は、カエデの訪問検診日。


 妊娠後期に入り、病院まで通うのが辛いと言ったカエデの希望に添い、産科医である中年女性が様子を診に来てくれたのだ。若い女性は彼女の助手で、前回の訪問から共に来るようになった。

 中年女性は守永もりながで、若い女性は加藤かとうというらしい。


「逆子になっている様子もなさそうです。出産までこの調子でいくといいのですが」

「いつも本当にありがとうございます、先生」

「これが私の仕事ですから。貴方も、今の期間はもちろんとして、お産の時や生まれてからのお母さんのサポート、積極的にお願いしますね、


 冗談めかした口調で守永が言えば、途端にアスターは口をあわあわさせながら、違いますよと上擦った声で否定する。毎度行われるやりとのことだが、アスターには流せない冗談のようで、それは、彼から余裕をなくす魔法の呪文であった。

 ふふふと上品に笑ってから、気持ちを切り替えるように、守永の顔から笑みが消える。


「出産予定日は二月後に迫っております。確認ですが、ご自宅での出産に変更はないですか?」

「ありません」

「分かりした。では、予定日の二日前から加藤と共にこちらで泊まらせていただき、出産に備えさせてもらいます。吸血鬼の出産は特に血を失いますので、輸血用の血液をたくさんご用意します。ですが、足りなくなった時はご協力願いますね」

「もちろんです」


 春花も頷いてみせ、シャムロックは若干目を伏せた。生首に血を吸えるような箇所はない。

 その後は、主にアスターと守永が会話をし、シャムロックと共に彼らの話を聞いていた春花だが──ふいに、頭の中で誰かの声が響いた。


『──植園春花ね』

「……っ!」


 知らない女の声だ。春花は警戒するように身構え、瞬時に辺りを見渡せば、不思議そうな顔を皆に、ほぼ皆に向けられる。その中で加藤だけは、変わらず笑みを浮かべていた。


『他の人には内緒にしてほしいのよ。貴方と二人だけで話がしたいの』

「どうかしたのか、ハルカ」


 シャムロックが気遣わしげに話し掛けてくる。その場を代表して訊ねてきたらしい。少し迷ってから、何でもありませんと春花は誤魔化した。


『そう、それでいいのよ』


 アスターと守永は会話の続きをし、シャムロックもそちらに耳を傾けている。軽く息を整えてから、春花は加藤と視線を合わせた。

 真っ黒な加藤の瞳は艶っぽく輝き、魔法を使っている痕跡は見て取れない。この念話が魔法でないのなら、何か。


『貴方──植園紅葉からの誘いを無視しているわね』


 あまり聞きたくはない名前が急に出て、思わず再び声が出そうになった春花だが、今度は堪えた。


『そろそろ会った方がいいわよ。ちょっと、少し、わりと、怒っているみたいだから』


 夏樹と会った後、春花は植園紅葉と連絡を取った。電話ではなくメッセージのやりとりばかり。彼の声を聞いてしまえば、のらりくらりと誤魔化せないかもしれないと思ってのことだ。

 カエデの出産前に一度顔を合わせたいと何度か言われているが、それとなく断っている内に、こうして人を使ってくるようになるとは。

 鉛が急に現れたかのように、春花は頭に重みを感じる。植園紅葉のことを考える時はいつもこうだ。


『じゃあ、伝えたからね』


 加藤は守永の方に顔を寄せ、そろそろ戻らないと時間が、と短く告げる。それもそうねと守永は返事をし、春花達に会釈をして、加藤と共にリビングから出ていった。見送りをする為にアスターもついていく。

 残された春花はシャムロックをソファーまで運び、クッションの上に彼を置いた。加藤とのやりとりで気分が悪くなり、春花はそのまま部屋に戻ろうとしたが、待ってくれとシャムロックに呼び止められる。


「辛そうだが、何かあったか?」

「……少し、気分が。寝れば治ると思うので、お気になさらず」

「……そうか。あまり無理はするなよ」

「ありがとうございます」


 無理はするな、か。

 心の中で繰り返し、春花はこっそり笑みを溢す。


 無理はしなくてはいけないもの。

 それが、春花の人生の中で、父親に叩き込まれた絶対の事実だった。

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