書かれなかった頁
額縁
鳥の声も聴こえぬ夜闇の中、少年は音もなくその姿を現した。
移動は、瞬きの間のこと。
植園春花が弟と別れ、魔法で移動したその場所は、彼の異母姉が家族と共に暮らしている洋館、その玄関前だ。
半月ほど前にも、春花はこの場に立っていた。抗いようのない命令を受け、用が済んだら二度と立ち入らないつもりでいた。
今は、これから生まれてくる子供達を守る為に、関わっていこうと心に決めている。本来守るべき者を上回るほどの庇護欲。きっと弟がいなければ選べなかった。本人に伝えるつもりはないが、ほんの少しだけ感謝する。
初めて来た時以上の緊張を覚えながら、春花は呼び鈴を鳴らす。中から声は聴こえない。場所によってはそうなるだろう。
待つのに五分は掛からなかった。鈍い音を立てて扉は重々しく開けられる。顔を出したのは、黒々とした髪を後ろで縛っている男──アスターだ。深紅の瞳を見開いて、春花を凝視してくる。
「ハルカ……」
「戻りました。突然いなくなってすみま」
春花が謝罪を述べようとすれば、アスターに両の肩をがしりと掴まれる。加減しているのか、痛みは少ない。
アスターを見れば、驚きが顔中に広がっていた。
「……危ないことは、しませんでしたか? どこも怪我はしていないですか?」
「は、い」
「……良かった。いくら実家に帰るにしても、いきなり目の前で消えるのは今後は控えてくださいね! 心配になりますから!」
「……心配?」
言っている意味が分からず、春花がおうむ返しすれば、「返事は!」と求められる。
「ぜ、善処します!」
「善処じゃなくて絶対!」
「……はい」
少年の胸中に、戸惑いが広がる。
心配、とは?
出会ってまだ一月も経っていない相手、それも吸血鬼に心配されるとは、どういうことなのか。
戸惑っている内に、荷物を目にも止まらぬ速さで取られる。部屋まで運んでくれるらしく、自分でやると春花が言っても、お構いなくと言って引かず、結局、彼に運んでもらうことになった。
アスターに先導され、向かう場所はどうやら、春花がこれまで使っていた部屋ではないらしい。
「違う部屋になるんですか?」
春花が訊ねると、アスターは振り返らないまま、足を止めずに否定する。
「いえ。先にカエデにも謝罪して頂きたく、あの娘の部屋に向かっています」
「……私の不在を知っているんですね」
「もちろんです。いの一番に知らせましたが、迂闊でした。それで気分が悪くなってしまったようで、今夜はジェラルドと共に部屋で休んでおります」
「……それは、謝らないといけませんね」
仄かに罪悪感を覚えながら、春花は何とはなしに廊下の壁に目を向ける。春花には名前も分からないような絵画が、立派な額縁に入れられて飾ってあった。
雪の上に落ちた椿。
葉の枯れ落ちた木。
満開の桜が咲いた木。
青々とした葉を付けた木。
赤々とした葉が咲き誇る木。
何故か分からないけれど、春花はその五枚の絵が妙に気になった。そのことに疑問を覚えながら足を動かしていき──異母姉の部屋に辿り着く。
「カエデ。ジェラルド。ハルカが戻って来ましたよ」
『……ほんとっ? 入ってきて』
「だそうです。私はお荷物を部屋に運ばせてもらいますので、ごゆっくりとどうぞ」
緊張が高まるのを感じながら、春花は頷き、扉を開けて中に入る。
初めて足を踏み入れた異母姉の部屋は、春花の部屋よりも小ぢんまりとしていて、桃色に統一された家具がなんとも可愛いらしい。
天蓋付きのベッドにカエデの姿はあった。淡いピンク色のワンピースタイプの寝間着姿で、三つ編みをほどいた髪は緩やかなウェーブを描いている。
傍にジェラルドはいない。たまたま席を外したタイミングで来たようだ。
「今ね、ジェラルドに、ホットミルクを、作ってもらってるの」
「そうですか。それはよく眠れそうですね」
「うん」
春花はカエデのすぐ近くまで寄っていき、そして、頭を下げた。
「春花?」
「すみません、姉さん。私が何も言わずに外へ出た為に、いらない心痛を味わわせてしまったようで、本当に、申し訳なく思っております」
「そんな、かしこまらないで。色々一気に話したから、びっくりしちゃったんだよね」
「……はい」
「こっちこそ、ごめんね。どこから、何を話したらいいか、カエデもちょっと迷ってて。駄目だね、お姉さんなのに。歳上なのに。説明するのを長引かせたから、こんなことになっちゃった」
「姉さん」
春花が顔を上げると、カエデは反対に顔を俯かせていた。妊娠中とはいえ、全体的に華奢な体型をしているが、今はいつもより、その身体が小さく見える。
自分がそうさせてしまっているんだと思ったら、つい、春花は彼女の手に自分の手を重ねていた。
「考えました。ここを離れていた間、今後どうすべきか考えました。本当はもっとたくさん時間を使って考えるつもりだったんですけど、答えが見つかったので、急いで戻りました」
「……戻ってくれて、ありがとう。答えって、何?」
首を傾げるカエデの、深紅に染まったアーモンド型の瞳を見つめながら、春花は『答え』を口にする。
「私は──狼が好きです。とても可愛らしいと思います。烏滸がましいかもしれませんが、守りたいとすら思います」
「……うん」
「姉さんのお腹にいる双子は狼と聞きました。血の繋がった可愛い姪か甥が、私の好きな狼だなんて、どんな奇跡が起きてしまったんでしょうか。少し、これは現実のことなのかと、疑っています」
「現実だよ」
「ありがとうございます、姉さん。──姉さん、叔父として、その子達を守らせてください。魔法使いとしてできることは色々あると思うんです」
「……!」
「決めたんです。姉さん達を守ります。もうどこにも行きません。無事にその子達が生まれてきて、元気に育つまで、ずっと傍にいます。いさせてください」
お願いしますと、春花は再び頭を下げた。彼女の視線が頭部に刺さる。沈黙がしばし続いた。
春花は、異母姉からの返事を待った。返事が来るまで、彼女の手に触れていた。
拒まれても影ながら守るつもりでいる。植園春花は守ると決めたのだ。生まれてきた理由を放って、ここにいると決めたのだ。腹は括った。
待って、待って、待った。
「……ありがとう」
お願いねと、彼女に言われ、春花は瞬時に顔を上げる。
カエデの瞳からいつの間にか、涙が溢れ落ちていた。アヴィオールと変わらぬ形と煌めきを放つ赤い結晶。それを拾うことはせず、重ねた手に力を込めた。
「約束します。必ず守ると」
「うん……!」
カエデが落ち着くまで傍にいた。気を利かせて外で待っていたジェラルドが、頃合いを見て入ってくるまで、ずっと。ミルクは冷めてしまったが、カエデは美味しそうに飲んでいた。
ミルクについての世間話をいくらかした後、もう遅いから、続きは明日にしようとカエデに言われ、春花のみ部屋を出た。
心が軽くなったような心地だ。
ほんのり高揚する胸を押さえ、息を整えてから、自分の部屋に向かう春花。部屋には狼が待っている。カエデにもらった狼のぬいぐるみ。
枕元に置いて寝てしまおうか、などと、彼は浮かれていた。少しも考えていなかったのだ。夜はまだ続くことなど。
「遅い戻りだな」
狼のぬいぐるみ以外に、従者に抱えられた生首が待ち受けていることを、まるで予想できていなかった。
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