置き去り・たぷたぷ・飾り

 悲劇は、そう遠くない内に起きた。


 一月後、植園桜紫郎がカエデ達の暮らす洋館を訪れ、涙を受け取るついでに、話し合いを求めてきた。

 いつも通りのことだ。応接室に通し、最初は向かい合ってソファーに座っているものの、途中でカエデの隣に座ってきて、肌が触れそうなほどに身を寄せてくるなり、吐息の掛かる距離で話をしてくる。

 それだけでも身の毛がよだつが、隙あらば身体に触れてこようとするものだから、桜紫郎と会うことに苦痛しか感じない。訪問自体を拒否できればどんなにいいか。だが、彼は植園紅葉の息子。次期後継者にして自分達の監理人。

 他に適任者がいないのだ。仕方ない。

 仕方ないと思いながら苦痛の時間を過ごし、今日も身体に触れてきたらそれを理由に追い出す。そのつもりで彼と接していた。警戒はしていたはずだ。


 だが、気付けば押し倒されていた。


 背中にはソファーの感触。見上げれば欲にまみれた桜紫郎の顔。

 この状況は何なのかと、一瞬、カエデは理解できなかった。


「婚約者に会ってきた。いけ好かない女だ。自分の話しかしない。お前はいいな、おれの話を黙って聞いて、相槌のタイミングもいい。何でおれは、お前と添い遂げられないんだろう……子供を作るのだって、本当は、お前と」


 性急に、スカーフを引き抜かれる。


「──っ!」


 その瞬間、声にならない叫びを上げていた。無我夢中で突き飛ばし、桜紫郎の身体は天井にめり込んでいた。落ちてくる前に彼を置き去りにして、カエデは部屋を飛び出す。

 アスターも、狼の姿になっているジェラルドも、カエデの異変に驚き、衣服の乱れを目にして──揃って怒りに顔を歪ませた。

 殺す、と叫んで人の姿になったジェラルドの身体に、カエデは勢い良く抱きついた。


「ジェラルド! ジェラルド! ジェラルド!」

「カエデっ……!」


 抱きついてくるカエデを、引き剥がせるようなジェラルドではない。


「……ジェラルド、カエデを彼女の部屋に連れていってください。私は下手人を片付けます」

「……分かったよ」


 彼らの会話に心からの安堵を覚えながら、カエデはジェラルドと共に、応接室から遠く離れた部屋へと向かう。ベッドへと先導され、カエデはそこに腰掛けた。

 ここには、ジェラルドとカエデしかいない。

 ゆっくり休んでと言って、部屋を出ていこうとするジェラルドの手を、カエデは瞬時に掴んだ。息を飲むジェラルドへ、涙混じりにカエデは訴えた。


「行かないで」

「カエデ……」

「傍にいて。──忘れさせて」

「……カエデ!」


 翌日の朝まで、彼と彼女は部屋で一緒に過ごし、アスターは複雑な顔をしながら、赤飯を作ってくれた。


◆◆◆


 最近、お腹がたぷたぷしている気がする。


 膨らみを帯びてきた自身の腹を撫でながら、カエデはそんなことを思った。

 あれから、桜紫郎が訪ねてくることはなくなった。紅葉に苦情の電話を入れた際にアスターが受話器を奪い取り、猛烈に抗議をしてくれたおかげだ。

 心穏やかな日々を、皆と──ジェラルドと過ごしてきたカエデ。この幸せがずっと続くのだと、信じて疑わない様子だ。

 そんな時に、身体の異変に気付く。

 華奢な身体のカエデだが、食べ過ぎたにしては腹が膨らみ過ぎている、気がする。それに最近、妙に眠くて仕方なかった。

 ……吐き気を催すことはないけれど、その特徴として、眠気が上げられていることをカエデは知っている。なんなら母親に話してもらったことがある。──カエデを妊娠していた時は、眠くて眠くて堪らなかったと。


「あのね」


 朝食の終わり頃、その場にいる者全てに向けて、カエデは語り出す。

 桜紫郎の暴挙があった日以来、それまで部屋に引きこもっていた人狼兄弟も外に出てきて、皆で食事を取るようになった。

 一斉に視線を向けられ、ほんのり緊張しながら、カエデはその言葉を口にした。


「──赤ちゃん、できたかも」


 アスターは口をあんぐりとさせ、シャムロックは目を見開き、ジュリアスは無言でジェラルドの背中を叩いて、ジェラルドは──固まった後、静かに涙を溢した。

 兄に背中を押され、弟は恋人の元へ行く。そして彼と彼女は、泣き笑いの顔をして、そっと抱き合った。


 そこからの日々は忙しく過ぎていく。


 紅葉に子供ができたことを告げれば、すぐに産科医を手配してくれた。物腰柔らかな中年女性で、白髪混じりの髪に花びらを模した飾りを着けているのが可愛らしい。

 吸血鬼の出産を手伝った経験が豊富であり、色々と良くしてもらった。何度か検診をしていく内に、お腹の子供が双子で、どちらも狼であることを知る。


「こんなケースは初めてです……!」

「このこと、紅葉君には」

「紅葉様は何を考えているか分からない人です。もしもこのことが知られたら、どんな行動を取るか……。生まれるまでは黙っております」


 腹の膨らみが増し、通うのが大変になったと告げれば、それならそちらに通わせていただきますと言ってくれた。ありがたいと承諾し、帰宅後、食事をしようと全員が揃っている時に話すと、ジュリアスが口を開いた。


「おれ達は身を隠した方がいいかもしれません」

「兄さん、何で」

「子供のことは黙ってくれるようですが、狼が住んでることまで黙ってくれるとは限らないかと。監理している吸血鬼に、手を出したわけですからね」

「……」


 人狼兄弟と夜猫は、山の中に小屋を建て、そこで暮らすことになった。食事はアスターが運び、彼に抱き抱えられて、時折カエデもそこへ行く。

 産科医はお腹の子供が狼だと分かってはいるが、半ば冗談混じりに、貴方が父親でしょうとアスターを責めることもあった。たじたじになるアスターの反応に少し笑いながら、カエデはひっそり、淋しさを募らせる。


 家族を失った過去があるカエデ。


 奇跡的に、再び家族を手に入れることができた彼女。また全員揃って暮らせる日を夢見ながら──数ヶ月後、半分血の繋がった、魔法使いの弟と出会うことになる。

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