面・額縁・椿

 ジェラルドの左足は、爪先まで完全に再生したものの、歩行する時に違和感や痛みがあり、人の姿の時には支えが必要になった。

 アスターが店で杖を買うと言ったが、こちらの方が馴染みがあるからと、山で適当な木の棒を拾い、それを使って歩いている。


 完治するまで何日掛かるのか。

 そもそも完治するのか。


 本によっては、呪いに分類されるものは魔法によっての解呪が必要とあったり、時間が経てば痛みは消えるともある。

 この家に魔法使いはいない。この呪いが後者であることを願いながら、ジェラルドは、いつここを発つべきか考えていた。

 元々ジェラルドは、兄のジュリアスと、彼らの師匠であるシェフィールドの吸血鬼と共に、ここから離れた場所にある雪山で暮らしていた。その師匠が突如、賊の手によって拐われてしまい、連れ戻す為に人里まで下りてきたのだ。

 師匠は既に、住み処である雪山の家に戻っている。兄が連れていってくれた。ジェラルドは彼らが無事に逃げられる為に場を撹乱し、その時に魔法によって左足を失うほどの傷を負った。

 どうにか兄と合流でき、カエデ達が暮らす家の裏山まで逃げ延びて、彼女達の好意に甘えて療養させてもらったが、そろそろ、そろそろ、師匠の元に帰らなければいけない。

 師匠に熱烈な想いを寄せる、兄のジュリアスのことを考えれば、一日でも早く帰還しなければいけないけれど……ジェラルドはここを離れがたく思っていた。


 カエデ・グレンヴィル。


 グレンヴィルの吸血鬼でありながら、人狼の自分に良くしてくれている彼女。可憐な人形を思わせる容姿と、無表情ながら、たまに笑みを浮かべる姿が魅力的で、寝ても覚めても、彼女のことをよく考えていた。

 彼女の好意に甘えてしまうのは、もっと彼女と共にいたいから。

 自分は人狼で、彼女は吸血鬼で……などと思うが、よくよく考えれば、兄と師匠だって人狼と吸血鬼の関係なのだ。そのことが想いを諦める理由にはならない。


 だが、想いを遂げたとして、どうするのか。


 自分は、師匠の待つ雪山に戻らねばならないし、カエデにだって大切な家族がいる。共に雪山に行くのは難しいだろう。ジェラルドだけがここに残る、というのも一つの手だが、治ったら雪山に帰ろうとよく口にする兄に、何と言って断ればいいのか、分からなかった。


 考えて、考えて、考えるだけで、日々は過ぎる。


 その日は珍しく、部屋に生首のシャムロックが運ばれており、アスターから部屋を出ないでほしいとお願いされていた。兄のジュリアスも一緒だ。

 ジェラルドのベッドとジュリアスのベッドの間に、こないだカエデが腰掛けていた椅子を持ってきて、そこにシャムロックを置いている。どことなく気まずそうな顔をする生首は、自分達人狼に謝罪してきた。


「悪い。部屋から出るなと言ったり、兄弟の部屋にオレが居座ったりして」

「そんな。おれ達は居候させてもらっている身なんです。迷惑になんて思いませんよ」

「そう言ってもらえると助かる」


 兄と生首がそんな話をしている横で、ジェラルドは獣耳を揺らした。

 人狼の証拠である、獣耳と尻尾は常時出していた。引っ込めることもできるが、楽な姿でいいと住民達に言われていることもあり、言葉に甘えさせてもらっている。

 聴力はそれなりに優れている。ジェラルドの耳は、遠く離れたカエデの声を少しだけ拾えていた。


『来ると……前に言って……』


 どこか冷ややかで、固い声。彼女らしくない。

 誰か来ているようだが、嬉しい訪問客ではないのだろうか。

 シャムロックに訊ねて良いものか、ジェラルドが考えあぐねていると、もしかしたら顔に出ていたのか、シャムロックは教えてくれた。彼の顔も、妙に強張っている。


「オレ達が、コウヨウ・ウエソノという魔法使いの監理下にあるのは、前に言ったと思う」

「はい。あ、今来ているのってもしかして」


 兄のジュリアスが口にしかけた問いを、その前にシャムロックは否定した。


「いや、そっちじゃない。そっちだったら良かったんだが……」


 溜め息混じりにそう言うと、シャムロックの顔が、能面のような無表情へと変わった。


「その息子のオウシロウという奴だ。コウヨウの後継者だそうで、代替わりには早いが、今後の為にと今の内からオレ達と顔を合わせているんだ。ただ……妙に、カエデに執心していてな」

「──は?」


 思わず、そんな声が出たジェラルドを、一瞬ちらりと見て、シャムロックは続きを口にする。


「魔法使いと吸血鬼は婚姻を許されていない。そもそも、あいつは本家の娘と婚約している。だが、ここに来るたびあいつは、カエデをその、口説いていて……」

「……っ!」

「ジェラルド、抑えろ」


 怒りに震えながら、両の拳を血が出るほど握り締めるジェラルド。兄の声は届かない。


「カエデ達がいる部屋の前に、アスターが控えている。何かあれば乗り込めるように。本当なら同じ部屋に入り見張っていてほしいが、そうすると魔法で暴れまくるからな」

「出禁にはしないのかい?」


 噛みつくような速度でジェラルドは言う。


「したいが、あいつはコウヨウの後継者。他に適任者がいないんだ」

「そんな……!」

「カエデからコウヨウに苦情は言っているし、コウヨウ自身も注意しているようだが、どうにもならん」


 視界が真っ赤になっていく。

 どうにもならない。どうにもならないからと、カエデに苦痛の時間を受けさせているのかと、ジェラルドの怒りは増していく。

 見たこともない男、オウシロウ・ウエソノ。

 その男への憎しみが、恨みが、どんどん膨らんでいき──その声を聴いた。


『やめて!』


 悲鳴混じりのカエデの叫び声。それを耳にした途端、ジェラルドは動いていた。

 狼の姿となり、左足が痛むのも構わず駆け出す。人の姿よりもまだ、こちらでの移動の方が痛みがマシであり、そもそも速かった。

 扉を体当たりして開け、廊下の壁に飾られた額縁が落ちるほどの速度で駆けていく。名も知らぬ画家が描いた、椿の絵だが、ジェラルドはその花の名前をきっと知らないだろう。それがカエデにとって、どんな意味を持つのかも。

 問題の部屋の扉は開いていた。きっとアスターが先に入ったのだろう。足を踏み入れば、アスターが見知らぬ青年を羽交い締めにしている所だった。

 ──こいつが、オウシロウ・ウエソノ。

 床に座り込んだカエデの姿も目に入る。自分の肩を抱き締め、震えていた。


「髪に触れただけじゃないか! ちょっとくらい、触らせてくれたっていいだろうが!」

「誰であろうと、婦女子の髪に勝手に触れるのは、紳士のやることではありませんよ!」

「──あの女は父上の女なんだ! なら、おれの女でもあるだろう! おれの好きにしていいはず……がっ!」


 聞くに耐えない言葉の数々、ジェラルドは考えるよりも先に、青年の足に噛みついていた。千切らんばかりに牙を突き立てる。


「なっ、何だこの、馬鹿犬! このおれを誰だと思って!」

「──やめて!」


 カエデが声を上げ、無理矢理ジェラルドを抱き寄せて、青年から遠ざかる。ジェラルドの牙には僅かに、青年の足の肉がこびりついていた。

 今は狼の姿であるジェラルドの身体を、カエデは震えながら強く抱き締め、毛にまみれた背中に顔を寄せてきた。彼女のにおい、温もりに、少しだけジェラルドは冷静になる。


「ここで魔法を使ったら、桜紫郎君でも許さない!」


 ジェラルドが視線をやると、青年の瞳は真っ赤に染まっていた。充血では説明できないほどの赤さ。どうやら、吸血鬼の涙を飲み込んでいたらしい。


「カエデ……」

「帰って! 帰って! もう帰って!」


 半狂乱になりながら訴えるカエデに合わせ、アスターが腕力に任せて青年を部屋の外へと連れていく。


「本日はお帰りください! 涙も玄関でお渡ししますので!」

「おれはまだ満足してないぞ! 離せ、吸血鬼風情が! おいっ! おれを誰だと……!」


 やかましい青年の声は遠ざかる。

 カエデの口から、小さな嗚咽が溢れ出す。


「ごめんね、ジェラルド。怖い想いしたね」

「それはカエデの方だろう? いつもこんな目に」

「仕方ないの。カエデは紅葉君の家と契約しているから、定期的に会わないといけなくて、だから……」

「カエデ」


 ジェラルドは半人半獣の姿となり、彼女を強く抱き締める。カエデも拒むことなく抱き締め返した。


「今度からはぼくもいる。部屋の中に入れなくても、扉の前でアスターと一緒にいるからね。何かあればすぐに助けるから」

「……ジェラルド」


 ポロポロと、赤い涙を瞳から溢していくカエデ。治療中何度も口にしてきたそれは、本来人狼には無用の物だが、ジェラルドにとっては愛しさを感じるもの。

 それを軽々しく流させるあの青年を──ジェラルドは完全に敵だと認める。

 次に何かあった時、きっと今度は、彼の首に噛みつくんじゃないかと、ジェラルドは考えた。息の根を止めたい。あいつを永遠にカエデから遠ざけてやりたい。


 それができたらどんなにいいだろうと、静かに考えながら、カエデの背中を撫でていった。

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