魔法が使えて良いことは何かと訊ねられたなら、今だったら、身体を瞬時に綺麗にできることと答えるだろう。


 山に行った。


 夕食を手早く済ませて部屋に戻り、吸血鬼達にバレないよう窓から静かに外へ出て、山へと向かう。三重に魔法を行使し、慎重に昼間の足跡を追っていった末に、辿り着いたのは湖だった。

 山を所有し、そこに湖があるなど、没落したとはいえ植園家の経済力には驚いたものだ。うちは築五十年のアパートの一室だというのに。

 湖は山の中の開けた場所にあり、木の枝や葉に遮られることなく水面に月が映っていた。今宵の月はほんのり欠けていたせいか、惜しいなと、つい思ってしまった。満月だったらきっと見事な光景をこの目にできただろう。

 そんな風に湖に意識が向いており、すぐには気付けなかった。近くに、自分以外の誰かがいることを。


「──誰だい?」


 聞いたこともない声を耳が拾い、瞬時に身構える。姿を隠す魔法を掛けているから平気だと思っていたが、声の主には意味がないようだった。


「誰かいるんだろう。においがするよ」


 他者のにおいを感知できるような相手らしい。すぐに魔法での足跡の追跡をやめて、いつでも攻撃できるように警戒する。夜道を歩く為に視力を魔法で向上させているが、声の主を見つけられない。


「出てきなよ」


 熱探知の魔法を使うか迷った。居場所が分かればこちらから先制できる。

 アヴィオール様の守護をすべく、亡き父にはいくらか鍛えられてきた。正直なことを書かせてもらえば、実戦経験はないが……やるしかない。そう思い、動こうとした時だった。


「──ここで会ったのも何かの縁だ。一緒に月でも見ようよ」


 こちらの警戒もお構いなしに、そんなお誘いを受けた。

 一緒に月でも見ないか? 頭の中で何度もその言葉を繰り返す。こうして文字に書き起こしてみても思うが、相手は何を考えてそんな発言をしたのか。


「月が綺麗なまんまるで、酒でもあれば良かったけど、どちらもここにはないね。それでも取り敢えず、綺麗な月を拝める」


 どう? と問うてくるその声は、やはり聞き覚えのない、こちらへの敵意をまるで感じない──淡々とした少年の声だった。


「知らないにおいだ。でも、ほんのり知ってるにおいも嗅ぎ取れる。これはそう……カエデの」


 カエデの名前を耳にした瞬間、私は走り出していた。声の聴こえた方、ではなく、来た道を早急に引き返していく。

 木の枝に服や肌が擦れた。途中で二度ほどすっ転んでしまった。それでも、声の主が追いかけてくることはなく、無事に部屋まで戻ってこられた。

 汚れたり傷を負った部位を魔法でどうにかし、椅子に腰掛け息を整えた後、落ち着く為に起きたことを書き綴った。

 何者か分からないが、相手はカエデを知っていた。今後相手がカエデと会うことはあるだろうか。その際に、私と遭遇したことを話したりするだろうか。

 ……口封じ、すべきだったろうか。

 アヴィオール様の守護をしていけば、その必要性が出てくることもあるだろう。父ならきっとやっていたはずだ。あの人はアヴィオール様の為に妻子を捨てて、私と夏樹を作る為に利用した女の記憶を消したのだから、敵に対しても非情に接することができただろう。

 やるべきだったんじゃないか。

 やるべきだった、かもしれない。


◆◆◆


 植園春花が手帳にそこまで書いていると、室内にノックの音が響き、彼はその手を止めた。


『──春花』


 呼び掛けてきたその声は、最近聞き慣れてきた彼の異母姉のもの。

 予期せぬ異母姉の来訪に、春花は息を飲み、無意識に背筋を伸ばしていた。


「どうしました、姉さん」


 問うた声には若干の震えがあった。


『あのね、お夕飯、足りた? おかわり、してなかったから』

「……平気です」

『チョコレート、持ってきたんだけど、食べない?』

「お構いなく」


 椅子の背もたれに手を掛け、春花はそっと耳を澄ませる。吸血鬼達と違い人間の聴力ではあるが、それでも、異母姉が扉の前を離れていないのは分かる。


『とってもね、美味しい、チョコレートなの。いっぱい買ってあるんだけど、今はカエデ、お医者様から止められてるから、春花にもらってほしい』

「……今はチョコレートを食べたい気分では」

『後で食べればいいよ。だから、ね』

「……」


 分かりました。

 諦めたようにそう口にして、春花は扉に向かい、ゆっくりと開けた。

 身に纏う黒いセーラー服を突き上げるように膨らんだ異母姉の腹。その中に二人、いや二体の吸血鬼の赤ん坊が入っているのかと思いながら、春花は異母姉と目を合わせる。

 異母姉はほっとしたように微かな笑みを浮かべ、手に持っていたチョコレートを春花に差し出してきた。


「食べて。美味しいよ」

「……ありがとう、ございます」


 未開封の板チョコだった。いかにも甘そうなミルクチョコレート。

 春花が受け取ると異母姉の笑みは増し、そのまま、板チョコを持っていた手で春花の頭を優しく撫でた。


「なっ!」

「まだまだたくさんあるから、欲しかったら言ってね。……ん?」


 ふいに、異母姉は撫でていた手を止め、不思議そうな顔をした。


「どうか、しましたか?」

「なんかね、外のにおいがする」

「……っ!」

「……お外、で」

「出てません」


 完全に否定するには、返事がかなり早かった。

 じっと、異母姉は春花を見つめてくる。


「……本当に?」

「……ほ、本当です」

「絶対?」

「絶対に」

「アヴィオール様に誓って?」

「……」


 そう言われてしまっては、春花はもう、嘘をつけなかった。

 とん、と弱い力で異母姉は、春花の頭を叩く。無表情でありながら、彼女の顔はどことなく、笑っているようにも見える。


「夜のお散歩は、危ないよ」

「……はい」

「でも、無事に帰ってきたから、いいね」

「……」


 異母姉は両手で腹を支え、一歩、後ろに下がった。


「お散歩したくなるのは分かるけど、危ないからね。なるべく控えてね」

「……」

「お返事」

「……は、い」


 春花が返事をすると、満足そうに異母姉は頷く。


「そんなにお散歩がしたいなら、お昼に一緒に行こうよ。カエデね、明日は自分の足で歩きたい気分なんだ」

「……え」

「楽しみだね」


 おやすみ。

 そう言って、春花に背を向けて、異母姉は立ち去ってしまった。

 しばらくその背をぼんやり眺めていた春花だが、つい、板チョコが手から離れ、その音でハッとして、板チョコを拾い扉を閉める。

 椅子へと戻りながら、先ほどのやりとりを脳内で思い返す。異母姉は春花の外出を軽く注意しただけで、それ以上のことは何も訊かなかった。どさくさに紛れて散歩の約束まで取り付けてきた。


「……何なんだ、あの人」


 急速に落ち着かない気分になってきて、その衝動のままに、書いた頁を破り取って、バラバラに千切った末に魔法で燃やした。


「いや、吸血鬼。吸血鬼だから」


 そんな風にぶつぶつ呟きながら、ベッドに向かう。今夜は色々あったのだ。疲労感から横になりたくなったらしい。


「何なんだ、勝手に頭、触って……」


 落ち着かない。ああ、落ち着かない。──春花が誰かに頭を撫でられたことは一度もない。

 落ち着かない気持ちを誤魔化すように、盛大に溜め息を溢して、春花は瞼を閉じた。

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