パート3: 初めての「脅威」

諦めと絶望に浸っていた、その時だった。


カサカサ……。


微かな、だが確実に何かが近づいてくる音が、湿った洞窟の壁に反響した。

さっきまで聞こえていた遠くの物音とは違う。明らかに、こちらに向かってきている。


(なんだ……?)


全身(という表現が正しいかは分からないが)に、警報が鳴り響くような感覚。

本能が、危険を告げていた。

隠れなければ。だが、どこへ? 周囲を見渡しても、岩陰のようなものは見当たらない。そして、この鈍足では、音の主から逃げ切れるとも思えない。


カサカサ、カサカサ……!


音は徐々に大きくなり、すぐ近くまで迫ってきているのが分かった。

焦りが全身を支配する。心臓があれば、きっと早鐘のように打っているだろう。

俺は必死に体をくねらせ、少しでも物陰になりそうな壁の窪みへと移動しようとした。だが、無情にも間に合わない。


ヌッ……。


通路の曲がり角から、黒く、硬質な殻を持つ何かが姿を現した。

それは、巨大なムカデとダンゴムシを合わせたような、あるいは甲殻類にも似た、おぞましい姿の魔物だった。体長は俺の数十倍はありそうだ。複数の節々から無数の足が蠢き、頭部にはカマキリのような鎌と、爛々(らんらん)と光る複数の赤い複眼があった。


(ひっ……!)


声にならない悲鳴が漏れる。

間違いなく、敵だ。

そして、その複数の赤い目が、一直線に俺を捉えた。

その視線には、明確な「食欲」が宿っていた。俺を、単なる餌として認識している。


カサ……。


巨大蟲――勝手にダンジョンクリーパーと名付けよう――は、ゆっくりと、だが確実に俺との距離を詰めてくる。その一歩一歩が、まるで死へのカウントダウンのように感じられた。

体が、恐怖で金縛りにあったように動かない。

逃げなければ。分かっているのに、体が言うことを聞かない。前世で経験したどんなパワハラよりも、どんな締め切り前のプレッシャーよりも、比較にならないほどの純粋な恐怖が、俺の思考を麻痺させていた。


(終わった……)


ダンジョンクリーパーは、俺のすぐ目の前で動きを止めた。

その醜悪な顔が、すぐそこにある。硬質な殻の質感、蠢く触覚、そして複数の赤い目が、俺という哀れなスライムを値踏みするように見下ろしている。

絶望。

ただそれだけが、俺の心を占めていた。


次の瞬間、ダンジョンクリーパーが頭部の鎌を振り上げた。

鋭利な先端が、鈍い光を反射する。

あれで切り刻まれるのか? あるいは、丸呑みにされるのか?

どちらにしても、待っているのは死だ。


(死ぬのか、また……こんな、虫けらみたいなやつに食われて……!)


脳裏に、ブラック企業で倒れた瞬間の記憶が蘇る。

理不尽な環境で、ただすり減って、壊れて、そして死んだ。

そして今度は、異世界で、最弱のスライムとして、虫けらにすら劣る存在として、喰われて死ぬ。

なんのために、俺はここにいるんだ?


絶体絶命。

ダンジョンクリーパーの鎌が、振り下ろされようとしていた。

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