愛のてりやき
数田朗
愛のてりやき
注文をする俺の指はいつものようにてりやきバーガーを指していた。だけど急に、今日は違うものでも食べるかな、という気分になる。
「ビッグマック、セットで」
言って、お金を払い終えてから、やっぱりてりやきバーガーにするべきだったかなと思う。席まで注文を持ってきてくれるというので、番号の記されたスタンドを受け取ると、俺は空いた席を首を振って探した。
二人席が空いていたので、そこに座ることにする。
隣には、俺とそう年齢の変わらない男が、小さな女の子連れで座っていた。男は幸せそうに微笑んで女の子の口元のケチャップを紙ナプキンで拭っている。俺はそんな男の股間をこっそりと盗み見た。そこには、確かな体積があった。その中にあるものを、俺は想像する。顔や体つきが違うのは当たり前なのに、ペニスの形が人それぞれ違うことが、俺にはいつも不思議だった。俺の彼氏の恭平のペニスは勃起しても少しだけ下を向いていて、しょんぼり自信なさげ。恭平の強気なキャラと真逆で、俺はそのペニスが大好きだ。
だけど、同じものをずっと食べていたのでは飽きが来てしまう。だから俺はときどきつまみ食いをする。今日、ビッグマックを頼んだみたいに。
でも、今日たまたまビッグマックを食べたからと言って、てりやきバーガーに申し訳なく思うことなんてない。俺が好きなのはずっとてりやきバーガーだったし、これからもそうなのだから。それは変わらない。だから、何の問題もない。
バレなきゃいい。
てりやきバーガーはキッチンの中、俺がビッグマックを頬張るところを見ることはないのだ。
俺の机に、一際背の高い、紙の箱に入ったバーガーが運ばれてくる。
×
恭平とは大学で出会った。クラスは違ったけれど、第二外国語の選択が一緒だった。その授業で見かける恭平の周りにはいつも人(特に女子)が多くいたが、それでも不思議と恭平からは『一匹狼』みたいな雰囲気が漂っていた。その一種浮世離れしているところに、俺は惹かれたのだと思う。
中学高校と、俺が惹かれるのはいつも男性だった。自分がゲイなのだと受け入れる作業を少しずつ行い、大学に入ってしばらくすると、いわゆるこっちの人向けのマッチングアプリにも登録した。だけど、マッチングアプリでのやりとりは何故かうまく続かなかった。一言で言えば馴染めなかったのだ。それは、恭平という存在が身近にいたのも大きかったのかもしれない。恭平とは互いにノートの貸し合いなどをする仲になり、徐々に親しくなっていった。
ある日恭平が先日行った美術館の話をしながら俺に写真を見せていた時、アプリがクラッシュしたのか画面がリセットされたことがあった。その時ホーム画面に、見慣れたあのアプリのアイコンが見えた。俺は驚き、変な声が出そうになるのをなんとか抑え込む。
「あ、落ちちゃった」
恭平は冷静にもう一度写真アプリを立ち上げて、先ほどまでの話を続けた。俺は平静を装って会話を続けながらも、頭の中ではぐるぐる先程のアイコンが回っていた。
なんで恭平のスマホにあのアプリがあるのだろう。そういうこと? そういうことなの? いや違う、きっとよくある冷やかしとか、下世話な好奇心のインストールだ。ゲイでもないのにそういうアプリを入れて、面白がる人間がいると聞く。そういうことなのだろう。俺はそう思い込もうとした。
だけど、恭平はそんなことをするように思えなかった。恭平はとても真面目な人間に俺には見えた。
ということは、つまり……。
やがて俺たちは互いに秘密を共有する関係になった。
「またてりやき食ってんのな」
待ち合わせのマクドナルド、トレイを持つ恭平が言う。恭平は毎回違うメニューを食べていた。
「うん、好きだから」俺がそう答えると、恭平はふうんと興味なさそうに言い、ダブルチーズバーガーの包装紙をめくった。俺たちはてりやきソースやケチャップを口角につけ、安いアメリカ産の油で唇を濡らしながらいろんな話をした。最近読んだ本のこと、映画のこと、面白い大学の教授、変な課題、おいしい学食のメニュー、好きなファッション、最新型のスマートフォンが欲しいということ。俺たちは時間を重ね、互いの個人的な情報や感情を少しずつ共有していった。
結局俺たちが付き合いだしたのは、大学を卒業する直前、二人とも内定が決まったあとのことだった。俺よりも少し遅く、文具・事務用品メーカーに内定を貰った恭平。そのお祝いだと呼び出したフレンチレストランで、俺は告白をした。
「大学を卒業しても、ずっと一緒にいたい」
その言葉に嘘はなかった。俺は今後、恭平の代わりになるような人に出会うことはないだろうと確信していた。そして、恭平もそう思ってくれているはずだと信じていた。恭平は俺の言葉に微笑み、そしてぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
大学を卒業後、一緒に暮らし始め、俺たちの間に特に不満らしい不満は何も無かった。俺たちは互いのことを大学生活の長い期間をかけて十分に理解していたし、生活する上での不一致はすぐに話し合って解消していた。ただ、予想外の配属で営業職になってしまった恭平は、想像以上に忙しそうだった。
一方仕事が割とホワイトだった俺は、運動不足の解消にと、兼ねてから興味のあったダンスサークルに入ることにした。インターネットで検索して見つけた、ゲイだけのサークルだ。友人を増やしたいという目的もあった。
きっかけは、サークルに体験入会をしに来た人から誘われたことだった。
直接的なお誘いのラインを、俺は最初断ろうとした。しかし、最近恭平とはご無沙汰だったし、何より脳裏に浮かんだのはこの言葉だった。
バレなきゃいい。
それは、サークルメンバーで飲みに行った時の会話の言葉だった。相方が浮気してたらどうする? お決まりの恋愛トークに、こう答えたメンバーがほとんどだったのだ。
バレなきゃいい。
その答えは俺にとってとても意外なもので、そういう考え方もあるんだなと思っただけだったのだが、なぜ、頭の中にその言葉が浮かんだのだろう?
折しも、恭平は四国に出張中だった。俺が東京で何をしていても、恭平はエスパーじゃないのだからわかるわけがない。
久しぶりにセックスできる。一度そう考えると、俺は自分の欲望が抑えられなくなった。
頭の中は『バレなきゃいい』でいっぱいだった。バレなきゃ、ないのと同じ。
箱の中で猫が死んでいるのか生きているのか、開けるまでわからないのと同じように。蓋をすれば、中がどうなっているかなんてわからないのだから。
『今日なら、大丈夫だけど』
震える指でそうラインを打った。
× ×
その男が服を脱ぐ。現れたペニスが恭平とはまるで違っていることに俺は少し驚いた。それは恭平のものより太く、短く、なんというかふてぶてしくて、その男の印象とぴったりだった。口の中のその感触の違いに、なんだか奇妙な違和感を覚えながら俺は男のペニスをしゃぶった。
そして俺たちは最後までセックスをした。
初めて違う男とセックスし、恭平のいない家に帰ると、猛烈な後悔に襲われた。真っ暗な部屋で呆然としていると、スマホが震えた。相手の男だった。
『今日はありがとう またよろしく』
また? その言葉に俺は驚く。またなんてない。これ限りの関係だ。俺は怖くなって男のラインをブロックした。男がともだち一覧から呆気なく消える。それだけで、すべてがなかったことになった気分だった。
出張から帰ってきた恭平はすごく疲れているようで、帰ってくると会話も少なくベッドに入って寝てしまった。俺は眠っている恭平の背中に体を向けて、その背中にそっと指をあてる。指先に、人間の体温が感じられた。
それから一ヶ月ほど経った日曜日の午後、俺と恭平は久しぶりにセックスをした。恭平は優しく、紳士的に俺を抱いた。恭平の下曲がりのペニスが出入りするたびに、俺の胸の中に愛おしさが込み上げる。俺は、恭平が好きだ。
恭平が耳元で俺の名前を呼び、耳に舌を這わせる。恭平。恭平。俺は夢中で名前を呼ぶ。
俺たちは熱のこもった吐息でキスをして、体を重ねて体温を交換した。
ずぷ、と上向きのペニスが穴から抜けるとき、普段と違うところを擦る。俺は思わず漏れそうになる声を抑え込むために下唇を噛んだ。
「きもちよかった?」
ベッドにうつぶせになった俺の上から声が降ってくる。うん。俺がそう答えると、男――名前は『ともき』だか『ともや』だったか――が俺の隣に寝転んで、腕を伸ばしてきた。俺は当然のように男の腕の上に顔を乗せる。年上の男の腋からはほのかに苦いにおいがした。恭平からは決してしないにおいだ。俺はそれをもうちょっと強く感じたくて、顔を少し動かす。男が俺の頭を撫で、額にキスをしてくる。
俺は男のペニスに手を伸ばした。ふにゃふにゃでも、やはり恭平とは違う。不思議だ。俺が黙々とペニスをいじっていると、男は意味を勘違いしたのか、笑って、
「もう一回しよっか」
と言ってきた。俺は頷いた。
結局俺はあの後、時折他の男とセックスをするようになった。だいたい、恭平が出張に行っている間に。
あんなに苦手だったアプリでのやりとりも、その場限りの関係の相手を探しているだけだと思えば簡単にこなすことができた。
セックスをする前や後に彼氏がいることを伝えると、行為のあとにセフレになろうよと誘ってくる人が何人かいた。しかし俺は、同じ人と何度も繰り返しセックスするのは、怖いことだとなんとなく思った。関係を長く保てば、何かが生まれてしまう予感があった。だから俺は、大体の場合すぐにその相手をブロックしていた。
それは言ってしまえば、俺なりの誠意だったんだと思う。
× × ×
ともなんとかとセックスした次の日、ダンスサークルの練習が突然休みになった。スタジオの入っている建物がセキュリティシステムの誤作動だかで臨時点検になったらしく、予約がキャンセルになったのだ。浮いてしまった時間。中止の連絡があったとき、もう向かう電車に乗ってしまっていたので、空いた時間をどう潰そうかと車内で考える。スマホをいじりツイッターを見ていると、映画の広告が目に入った。そうだ、見たい映画があった。マーベルの新作。一度観に行こうとして、席が埋まっていて断念したのだった。恭平も誘ったのだが、マーベルをほとんど見ていないらしく「俺はいいよ」と断られた。もう公開してから日も経っているし映画館も空いているだろう。その映画は三時間近くあり、空いた時間をちょうどよくすっぽり埋めてくれそうだった。
俺は電車を乗り換えて新宿に向かうことにした。
歌舞伎町の周辺は、雑多な新宿の中でも特別異様な気配がして、来ると毎回少し緊張してしまう。そのせいか俺にしては珍しくスマホをいじらず視線を上げて歩いていると、視界を見慣れた影が横切った。
――恭平?
見間違いかと思った。しかしどうにもその影が着ていた服も、昨日あたり自分が干しておいた青いラガーシャツな気がして、ますます恭平だったのではという気がしてしまう。俺は少し小走りになって、影が行った先へと追いかけていく。
後ろ姿を捕捉した。短く黒くふわふわした髪、青いラガーシャツ、それなりに逞しい体躯。一緒に暮らしているのだ、後ろ姿でも分かる。間違いなく恭平だった。
隣を歩く短髪の男は、どう見てもお仲間だった。別にそれはいい。ゲイの友人がいるのはおかしなことではない。だが今まで恭平には多くのゲイの友人を紹介されてきたが、その中にこの男はいなかった。男が何か言い、恭平が笑う。はたから見るとなんでもない二人の空気感に見覚えがあった。俺は確信する。
間違いない、こいつらはこれからセックスをしようとしている。
俺は心臓が震えるのを感じた。心臓はいつだって震えているはずなのに、急にそれを意識させられた。吐きそうだ。俺は昼食でマクドナルドに行ったことを思い出した。今俺が吐いたら、吐瀉物の中でてりやきソースが香ばしいにおいを放つことだろう。
着いていきたくなかった。世の中には知らなくても良いことがある。だけど、足が勝手に彼らを追いかけた。新宿の外れ、俺も何度か利用したことのある男同士でも入ることのできるラブホテルに、二人は当然のように入って行った。
俺はそれを確認すると、くるりを身を翻す。俺の体は勝手にTOHOシネマズ新宿に向かい、券売機のモニターを指が叩き、見たかった映画のチケットを購入した。『エンドゲーム』とチケットには記されていた。俺はシートに座り上映前のストップ・映画泥棒の広告を見ながら考えていた。
今、恭平はビッグマックを食べている。
でも、俺はてりやきバーガー。俺がてりやきバーガーなのだ。
呪文のようにずっとそれを頭で唱えていると、激しく動き回る映画泥棒のカメラ男のようにビッグマックとてりやきバーガーが脳内を飛び回り、また吐き気が襲ってきた。えずくと、てりやきソースが鼻腔の中で薫る。映画館で吐くわけにいかなかったので、俺は生唾を飲み込んでなんとかそれを耐えた。
映画本編が始まったが、壮大なスペクタクルも、精巧なCGも、普段なら軽く欲情するロバート・ダウニー・ジュニアの精悍で野性的な顔立ちも、頭に全く入ってこなかった。俺の頭の中では、ラブホテルに入っていく恭平の姿が何度も何度も再生されていた。あの感じは、今日だけの関係では無さそうだ。そんな関係に生じる独特の親しさみたいなものが、彼らからは漂っていた。
目の前で爆音を立てながら宇宙船が四散する。ビリビリと鼓膜が激しく震える。
バレなきゃいい。
それはつまり、バレたらよくない、ということだと分かっていなかったのだ。
× × × ×
「あれ、帰ってたの?」
結局映画を途中で抜けて家に帰った俺に、恭平が言う。
恭平はいつも通りだった。でも、いつもと違う生き物に見えた。俺は表情筋の運動を殺しながら答える。
「うん、サークル休みになったから」
「あ、そう」
今日どこ行ってたの? という言葉が喉を出かける。だけどなんとかそれを飲み込んだ。どう返事されても傷つくだけの質問はしないに限る。俺もそこまで子供じゃない。
「んじゃ何してたの」
恭平が逆に俺にそう聞いてきて、「ああ、映画観てた」と俺は答えた。
「前言ってたマーベルのやつ?」「そうそう」「どうだった?」
俺は返答に窮してしまう。あの映画に感想なんてあるわけない。
「あぁ、なんか……すごかったよ」
マーベルの映画はとにかくだいたいすごいから、なんとかそれだけ捻り出す。小学生みたいになってしまったが、
「ふーん」
恭平は特に不審に思った風も無いようだった。
なんで俺の方が嘘ついてるみたいになるんだ。なんで俺の方が動揺してるんだ。俺は不服だった。
俺は立ち上がり、台所で麦茶を注ぐ恭平に近づいた。震える腕で恭平を抱きしめた。
「んー?」
恭平はうっすらと微笑みながらそれを受け入れる。恭平のその微笑み、親しいものにしか向けない表情に俺はとても安心する。俺は恭平の輪郭を確かめるように抱きしめる。俺は、恭平の心がまだちゃんとここにあることを確認したかった。恭平が今まで通り恭平であることを確かめたかった。俺は唐突に思った。
恭平のペニスは、今日もちゃんと下曲がりだろうか?
そうに決まってる。そうに決まってるのに、俺は不安になる。俺の大好きな恭平のペニスのかたちが、何か違ったものになってしまっている可能性に。俺は恭平の短パンに手を伸ばしながら、耳元で言う。
「なあ恭平、あのさ、……しようよ」
断らないでくれ。俺は祈る。
「えぇー。今日はいいよ。明日仕事だし」
恭平はそう言う。言いながら、麦茶を注ぎ終えた恭平は俺の腕の中をするりと抜け出す。
それだけなのに、すごく恭平が遠くに行ってしまった気がして、俺の心が鈍く痛む。
絶望している、のかもしれなかった。
俺は恭平の後ろ姿を見ながら、俺は考えた。俺たちは普段、どうやってセックスしようとしていたのだっけ。それはすごく自然な流れのはずだった。でも水は、宇宙では排水溝に流れないのだ。俺は今宇宙にいた。無重力状態で俺はもがいた。ソファに座ってスマホをいじる恭平を、また後ろから抱きしめる。
「なんだよ、珍しいな」
恭平が少し驚いた声で言う。そして、俺の腕に顔をもたれかけた。恭平の体温。恭平のにおい。
「なぁ、恭平……」
俺が熱い息で耳元に囁きかけると、恭平は仕方ないな、という表情を隠さず俺をベッドへ導いた。イケアで買った少し大きめのベッド。スプリングが壊れているそれはよく軋んだ。恭平をベッドに押し倒し、俺たちはキスをした。何度も、何度も。恭平のペニスは、ちゃんと硬くなった。俺はそれに安堵し、恭平のズボンを脱がせる。目の前に現れた恭平のペニス。今日もしょんぼりしている。俺はいつものようにそれを咥えようとして――思った。
このペニス、他の男の穴に入ってたんだよな。
そう思ったら、急にしゃぶる気が失せてしまった。ブレーキの壊れた自転車みたいに俺の手はそれをしごき続けていたが、一度萎えてしまった心は復活しなかった。それと対照的に、恭平のペニスが勃起している。俺はますますそんな気分ではなくなっていく。
「ごめん、やっぱいいわ」
俺が先走りに塗れた手をペニスから離すと、
「何、お前からあんな誘っといてなんなんだよ」
恭平は怒るというほどではないが不満を口にした。だけど。
俺たちのこのあとを想像した。恭平はそれを俺の中に入れる。恭平のペニスはさっきまで他の男に入っていたもので、俺の穴は昨日他の男を受け入れたものなのだった。
それって一体なんなんだろう。
俺にはそれがとても醜悪な構図に思えた。だけど、それが俺たちのセックスだった。俺たちはきっと、ずっとそうしてきたのだ。
「なんだよ、なんかあった?」
恭平が俺に尋ねる。白々しいと俺は思った。
――さっきまで他の男とよろしくやってたくせに。
その言葉が耳に響いて、俺自身が発した言葉だと気づくのに時間がかかった。言ってしまった。慌てて恭平の方を見る。驚いた顔をしていた。なんだよその顔。また、口に出していた。俺、見たんだから。今日お前が新宿でホテルに入っていくところ。あれ、セフレだろ? 何回目だよ、あいつとセックスするの。
恭平は少し開いていた口をゆっくり閉じると、再び開いてこれだけ言った。
「お前だって俺が出張のときとか他の男としょっちゅうセックスしてんじゃん。バレてないと思ってたの?」
それが負け惜しみの口から出まかせではないことは、恭平の顔を見ればすぐに分かった。
バレなきゃいい。バレてないんだから大丈夫。そう思っていたのは俺だけだった。
× × × × ×
「お前がそういうことしてるって話は、割とすぐに友達から聞いた。お前の相方この前違う男とホテル入ってたよって。最初は信じてなかったけど、別の友達からこの前コイツとやったんだけど、これお前の彼氏じゃね? って言われてラインを見せられた時は、さすがにビックリしたよ。友達も途中で気づいたらしいんだけどさ、そんならそこでやめとけよって話だよな。まあそれはいいや、とにかくそれを聞いて俺は思ったんだ。なんかそれって不公平だな、って。え? 別にだからって俺はお前に復讐したかったとかそういうわけじゃないんだ。ただ俺は、ああ、じゃあ俺もそうしていいんだなって思っただけ。俺だけ我慢しなくても良いんだなって、それだけ。何、怒ってるかって? 別に怒ってないよ。結局おあいこ様だしさ。だけど、そうだな……俺はそう、ちょっと、いや結構、悔しかった。それだけ、それだけだよ」
恭平は、淡々とそう話した。
「でも俺は、あいつ以外とはセックスしてない」
文字数に収まりきらなかったツイートを付け足すようにぽつりと恭平は言った。
俺には分からなかった。なぜ恭平はそんなことを言ったのだろう? さまざまな男を食い散らかしている俺への当て付けなのだろうか? それとも自己弁護?
俺は思う。俺のようにさまざまな男を食い散らかすのと、一途に一人の男とだけこっそり会い続けるのと、どちらがより罪深い行為なのだろう? どちらがより不誠実なのだろう? 俺には分からなかった。恭平の太ももの間に生えるペニスはしぼんで、一層しょんぼりして見えた。
俺は、自分の感情がいまどういう状態にあるのか分からなかった。悲しいのか、怒っているのか、悔しいのか、歯痒いのか、申し訳ないのか、どの言葉も当てはまるようで当てはまらない。だけどきっと、俺のペニスも同じようにしょんぼりしているだろう。
黙っていると、恭平は立ち上がり服を着だした。何も言えずにいる俺の脇を通り過ぎ、恭平は部屋から出て行った。
× × × × × ×
『覆水盆に返らず』はただの事実だが、『こぼれたミルクを嘆いてもしょうがない』は教訓だ。
蓋の空いた箱の中で、牛乳が激しく揺らされてこぼれてしまっていた。
俺たちといえば、こぼれたミルクを見ない振りをずっとしているという状態だった。そのミルクは日数が経つにつれ、腐って我慢ならない悪臭を放ち始めている。俺と恭平はまるで何事も無かったかのように過ごしていたが、セックスや体の触れ合いは全く無かった。
バレなきゃいい。腐臭を放っていたのはその言葉だったのだろう。
こうやって終わっていくんだろうな。恭平の青いラガーシャツを畳みながら思った。よくある話。とてもよくある話だ。恭平はソファに座って、気怠げにスマホの画面をフリックしている。
俺は急に、恭平がスマホで新しい物件でも探しているのではないかという妄想に捉われた。俺、引っ越すから。ある日急に言われて、恭平がこの家を出ていく。ありえない話だとはもう言えなかった。
俺たちはもう終わってしまったのだろうか。溢れたミルクを嘆いてもしょうがない。だったら俺はどうすればいい?
俺は溢れて腐り始めた牛乳を、それでもかき集めてコップの中に戻したかった。腐ってもう飲めなくなっているのだとしても戻したかった。
俺は意を決し恭平に言った。
「ねえ、マック食いに行かない?」
マクドナルドへ向かう道、恭平はずっと黙ってスマホをいじっていた。どうしてこんなに逃避に便利なアイテムを生み出してしまったのかと俺はスティーブ・ジョブズを恨んだ。前から自転車がやってきて、俺は恭平のネルシャツの裾を引く。危ないよ、とだけ口にすると、恭平はいよいよスマホをポケットにしまった。それでも、恭平は俺と視線を合わさない。
俺はまっすぐ前を見て、しかししっかりと言った。「俺にとって恭平はさ、」
思いの外声が震えた。前を見ていて恭平は視界に入らないから、どういうリアクションをしているか分からない。ちゃんと聞いているかも分からない。だけど俺は言った。
「俺にとって恭平はさ、てりやきバーガーなんだ」
それが、俺の言える唯一の正しいメッセージだった。俺はそれ以外の、それ以上の言葉を持ち合わせていなかった。言うと、自然と目に涙が滲んだ。
「はぁ? なんだよそれ。全然嬉しくねぇ」
恭平は言う。言葉は悪かったけれど、怒ってはいないようだった。
「そんなんと比べんなよ」
恭平のその呟きは、少し呆れたような響きだった。
その言葉に、俺は無性に腹がたった。恭平は何も分かってない。もう何年も一緒にいるのに、この言葉の意味がわからないなんて。
だから俺は言ってやる。
「そんなん? そんなんだって? 俺がどれだけてりやきが好きか、恭平は知らないだろ? 分からないだろ? 俺はほんとに、ほんとにてりやきが好きなんだよ。それと同じだ。俺がどれだけ恭平のことを好きなのか、恭平は分からないだろ? 俺は確かに他の男と寝たよ。だけど俺は、それでも恭平が大事だよ。嘘じゃない、嘘じゃないよ」
涙が堰を切ったように流れ出した。俺は立ち止まる。
噎せこんで震えていると、頭の上に恭平の手が載せられた。
「わかった、わかったよ、だから泣くな」
恭平は俺を抱きしめる。暖かかった。
× × × × × × ×
そのマックは大通り沿いにあって、ドライブスルーがついている店舗だった。Mの黄色い看板が見えてくると、俺の心は踊った。
しかし、店舗に近づくにつれ違和感が増していく。まず、店舗の周りに、普段なら停まっている自転車が一台も並んでいなかった。そして、普段人を間断無く吸っては吐いている入り口に、人の気配が一切なかった。ドライブスルーの入口のところにも、赤いコーンで非常線が張ってある。
定休日?
いや、マクドナルドに定休日なんて。
「これ」
入口から中を覗こうとしていた恭平が、一枚の張り紙を指さした。
『閉店のお知らせ』
長年のご愛顧、本当にありがとうございました。誠に勝手ながらマクドナルド××店は、二〇××年十月末日を持ちまして閉店致しました。お客様にはご迷惑・ご不便をおかけし、本当に申し訳ありません。
今後は、近隣の××店・◯◯店をご利用ください。
店舗の中を覗き込む。がらんとしている店内。ただ営業時間外なのとは違う、捨て去られた景色は寂しかった。人のいないキッチン。あそこではもう、てりやきバーガーもビッグマックも作られることがないのだ。
俺は、恭平の顔を見るのがなぜか怖かった。恭平はこの『お知らせ』を、どんな顔で読むのだろう。知りたくなかった。
「行こうぜ」
恭平が言い、歩き出す。「どこに?」問いかける俺に後ろ姿で言った。
「モス、こっちだったよな」
振り返って俺に微笑む。
「てりやきなら、モスでも食えるだろ?」
(完)
愛のてりやき 数田朗 @kazta
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