砂原さんは結構怖い
緑沢茜子
第1話 経理部の砂原さん
最初にそれを聞いたのはいつ、誰からだっただろう。
「経理部の砂原さんは怖い」
みんなが口を揃えてそう言う。
だから、最初に砂原さんを見た時は意外だった。
経理部員らしく(というのが一体どういうものなのかよくわからないが)、清楚で、真面目な雰囲気で、ほっそりと背も高いクール系美人だから、確かにちょっと怖そうに見えないこともないな、とは思ったけれども。
でも、みんながそんなに「怖い」と言うのだから、実は格闘技の達人で屈強な男たちをばったばった投げ飛ばしてしまうとか、睨んだ相手を石に変えてしまうとか何かあるんじゃないかと思って警戒していたけれど、特にそんなこともないようで、ごくごく普通の、入社6年目の経理部員に見えた。
だが。
そのときの麻衣はまだ、砂原さんのことなど何にもわかっていなかったのだ。
杉谷麻衣は、周囲に聞こえない程度のため息をつき、向かいの席の彼女を盗み見た。
ここは、中堅どころのお菓子メーカー、大松製菓の経理部である。
GW,決算というイベントも終えた5月の午後。うららかな陽気の差し込む経理室には、穏やかな空気が流れている。
だが、麻衣だけは刑の執行を待つ囚人のような落ちつかない気持ちでそこに座っていた。
麻衣が作った書類を、目の前の先輩、砂原杏子にチェックしてもらっている最中なのである。
砂原杏子、そう、あの「経理部の砂原さん」である。
まさか、自分が経理部に配属されるなんて…
入社後、会社の歴史や名刺交換のやり方、電話の受け方など、大松製菓の社員として必要最低限の知識を学ぶ新入社員研修を終え、麻衣は経理部に配属された。そして現在、砂原さんの指導のもと、一人前の経理ウーマンとなるべく、絶賛修行中である。
砂原さんは手際よくその書類を、原資料と照らし合わせ、時折電卓を叩いたりなどもしている。流れるようなその作業に、麻衣は思わず見とれた。
砂原さんは経理部の妖怪…いや、経理部のエースで、仕事が早い。そして正確で的確。どんな難しい仕事も顔色一つ変えずに軽々と、テキパキと片付けていく。
経理には課長の他、砂原さんよりも年次が上の田辺さんという主任や梅原さんという社員もいるのだけれど、みんな砂原さんを頼りにしている。何か問題があればまず砂原さんの意見が聞かれるし、結局みんなその意見に従う。それで問題がうまくいかなかったことは一度もないそうだ。うちの経理部は、この人なしでは回っていかないと、誰もが思っている。経理が回らなければ、会社も回らない。つまり、この人なしではこの会社は回っていかないのだ。
だが、会社にとって必要な存在であることと、個人にとっていい先輩であることとは違う。
あ、いや。砂原さんがいい先輩でないと言っているのではない、決して決して。
だが。経理部に配属されて1ヶ月弱。散々聞いてきた「経理部の砂原さんは怖い」という言葉の意味が、なんとなくわかってきたような気がする今日この頃なのだ。
―なんでこんな人が私の指導担当なんだろう。
心の中でつぶやいた瞬間、砂原さんが顔を上げて麻衣の方を見た。
―まさか、聞こえた?
そんなバカな。エスパーでもあるまいし。
いや、でも、本当に仕事ができる人は、もしかしたら他人の心の中までも読めるのかもしれない。
「こことこことこことここ、間違ってたから直しといて」
砂原さんの飾り気のない長い指が、リズミカルにポイントを指す。
今、ここって何回言った?
「ここは4415じゃなくて4451。こことここは計算間違い。ここはケタが違ってる」
「…すみません。数字、弱くて」
「ここは漢字間違ってる」
「…すみません。国語も苦手で」
こんな短時間で、よくこんなに間違いを見つけるもんだ。この人、絶対、間違い探しとか得意だろ。
…違う。問題はそこじゃない。麻衣は、すぐ現実逃避しそうになる自分を(頭の中で)首根っこをつかまえて現実に引き戻した。
「すみません。ミスが多くて」
麻衣はしおらしく頭を下げた。
「新人なんだから、間違えるのは仕方がないわ」
砂原さんが淡々と言う。
驚いた。砂原さんが慰めてくれるなんて。
この人にも人の心があったのだと、砂漠でオアシスに出会ったように救われたような気持ちになる。ところが降ってきたのは麻衣の甘い期待など一撃で蹴り飛ばすような辛辣な言葉だった。
「だけど、それにしても初歩的なミスが多すぎる。もう少し集中して」
―ですよね。麻衣はがっくりとうなだれた。
ほんの少しとはいえ、甘い気持ちを抱いた自分がバカでした。
「…すみません」
麻衣は心から反省して、深く頭を下げた。
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