ある熟女アイドルへの追憶

あんどこいぢ

ある熟女アイドルへの追憶

日が長くなってはいたが、午後七時ともなればやはり暗い。


本館1Fのラウンジの灯も落とされていて、建物をでても、キャンパス内に学生たちの姿はなかった。


学生たち?


実は彼=酒井一郎も未だ学生なのだが、大学院の博士前期課程、いわゆる修士課程をもう二年間留年している。同課程にいられるのは四年間までなので、今期修論が通らなければ、それで退学である。


そのため指導教授のゼミがない日もこうして毎日登校し、図書館と院生の共同研究室とのあいだをいったりきたりしているわけだが、将来の展望もまたないのだった。


暗いキャンパスをトボトボ歩きつつ、彼は独りごちた。


「文系大学院の、オマケに英米文学科なんていうんじゃな、潰しも効かないし……」


さらに彼が通うようなFランクの私大にあっては教授陣はほぼ東大卒のセカンドキャリアに限られていて、自前の研究者を育てようなどといった気概はまったくないのだった。そんなことは三年前、母校の大学院への進学を決めた際すでに解っていたことだったのだが……。


「まっ、いい夢を観させてもらったってところかな……。僕の人生なんてそもそも小学校高学年でイジメが激化した辺りで詰んじまってたんだし……。リア充な青春じゃなかったけど、一応青春できたってことではあるわけだし……」


とはいえそろそろ、その青春ともお別れである。


──と、一号館のホールを通りキャンパスの裏へとでようとした際、その独り言のトーンがあがった。


「ウホッ、青春、青春……」


一号館1Fのホールの左手にある調理パン、カップラーメンなどの自販機が並んだコーナーの辺りだけ、まだ照明が灯っていたのだ。


実はこの学校の七不思議の一つなのだが、大体店舗が入った建物の号数を由来に、二食、三食と取り敢えず五食まで学食があるわけだが、なぜか一食がないのである。それで五月病になる頃新入生たちが、それを探しまわったりするわけだが、暑さが本格化しだす頃、ようやく彼らは気づくのだった。


(あの自販機が並んでんのがたぶん一食ってことなんだろうな……)


学部からこの大学だった一郎も当然通った道だった。いや──。実はここの学生だからといって誰もが通る道というわけではない。軽スポーツのサークルに入り真っ当な青春を謳歌しようとする者なら、そもそも一食探しなど始めないのだ。というわけでその一食自体多少切ない存在ではあるわけだが、それがつまり青春のほろ苦さで、などといった話では、無論ない。


実は最近、彼は恋しているのだった。


奥から一つ手前の調理パンの自販機──。カワサキのアンパンなどが入っている自販機なのだが、去年暮れ、その手前でちょっとしたトラブルに遭遇したのだ。彼が? ではない。


自販機の手前で一人の学生に詰め寄られていたのが最近の彼のアイドル、自販機メーカーのひとだろうか? パンメーカーのひとだろうか? ベージュのスーツを着た五十歳前後のおばさんだった。


彼女をなじっていた学生は小柄で瘦せ型、小太りの一郎とはまた違うタイプだったが彼もまたイジメられ経験がありそうな感じだった。だがくだんのおばさんに対してはヒドい態度で、声もキンキン捲くし立てていた。


『おばさんっ、この自販機の会社のひと? このあいだここでクリームパン買ったら、結局なんにもでてこなかったんだよっ、なんにもっ! 弁償してよっ! 自販機なんだから当然レシートなんかなしだからねっ!』


今日より早い時間だったが季節柄屋外はすでに真っ暗だった。そして小柄とはいえ若い男に女が一人……。しかし……。


一郎にはその彼の気持ちも解るのだった。


取り敢えず、隣りの自販機で缶コーヒーを買った。


小柄なその彼は喧嘩もやはり弱そうだった。一郎の接近を察知するなりチラチラ彼のほうに視線を送ってきていたのだが……。当然、自分のほうに加勢してもらえるとは思っていなかっただろう。


一郎のほうもヒヤヒヤものだった。


畜群──。奴隷道徳──。ルサンチマン──。哲学者ニーチェの用語なのだが、マルクス主義敗退以後の文学理論ではニーチェは必修科目である。そして一郎のような男にはそのニーチェが裏からよく解るのだった。


(弱い者同士の対決は執拗かつルール無用なものになり勝ちだよな……)


当事者三人以外誰もいないホールに、缶コーヒーがでてくる音がガコンッ! と大きく響く。


それを取りだし一郎は、多少大仰な動作でプルタブを引き、さらにもう少し大仰な動作で中身をゴクゴク一気飲みした。


もしも相手がヤンキーだったら“なんか文句でもあんのかよォ?”などといわれ、絶対からまれていたことだろう。しかし問題の彼はチェッと舌を鳴らし、一郎が歩いてきた本館のほうへと大股で去っていった。


缶コーヒー……。考えもなしにボタンを押してしまったのだが、十二月の夕刻、気がつけばアイスコーヒーを買ってしまっていた。


(残り飲もっかな? 捨てんのやっぱもったいないよな?)


飲み口を見ながらボーッと考えていたとき、不意に女性から声がかけられた。


『有り難うございます。助かりました』


おばさんはまだそこにいたのだ。彼女のほうに向き直りつつ、


『いっ、いえ……。なんか急に、喉渇いてきちゃって……』


とちょっとせそうになりながら応じた。


熟女? というよりもう少しいっていそう・・・・・・な感じだったが、細い眉、淡いルージュ、ショートヘアも綺麗に染まっている感じで、そして何より、ベージュのスーツが決まっていた。


『ここでよく、何か買われますか? 不具合とか、やっぱ多いですか?』

『いっ、いえっ、ぼっ、僕、一応院生なんで、ここで飲み食いしてるとどうも周りの学部生たちから浮いちゃうような感じで……』

『それじゃやっぱ、無駄にコーヒー、買わせちゃったんですね……』

『いっ、いえ……。いまはホントに、急に喉渇いてきちゃって……』


女性と二人切りで会話をしたのは一体なん年振りだったろうか?


二まわり以上歳上のおばさんだったが、彼はすっかり、しどろもどろ・・・・・・になってしまった。それゆえその後の会話は憶えていないのだった。


とはいえ左手の指輪などを確認し、ああ、やっぱ結婚してるだ、などと思いガッカリしたことなどはハッキリ憶えている。


あの日以来ここを通るたび、彼は大抵パンを買っているのだった。特にクリームパンを……。


(おばさん、今夜はちゃんとパンでてきたよ。同じパンのはずなのに、傍のコンビニで買うよりなんか美味しいんだよね。これこそまさにルサンチマンって、まっ、分かっちゃいるんだけどね……)

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