この心に、君が触れたから
光野凜
第1話
会社の飲み会の席で、私はひたすらグラスを空にしていた。もう何杯飲んだかわからない。アルコールが体に染み渡るたびに、頭の奥がぼんやりしてくる。
「こいつ、なんでこんな飲んでんの?」
隣の席にいた先輩が呆れたように言う。
「あぁ、
そう答えたのは同期の友人だった。
浮気。何度も聞いた言葉。彼氏の浮気を知ったのは、ほんの数週間前のこと。だけど、彼のことが好きだから、別れられなかった。彼は謝って、「本当に好きなのはお前だ」って言ったし、「もう二度としない」とも約束した。だから許した。
「そんなんだから舐められて、また浮気されるんだろ」
突然、隣から冷たい声が飛んできた。顔を上げると、
「......は?」
「だから、お前がそんな態度だから、また浮気されるんだよ」
「何それ、どういう意味?」
「許すからだよ。そんな簡単に許すから、あいつはお前を都合のいい女としか見てねぇんだよ」
陽翔は昔からの幼なじみで、会社でも後輩にあたる。家も近いし、付き合いは長い。だけど、こんなふうに強く言われたのは初めてだった。
「陽翔には関係ないでしょ」
「あるよ。俺は――」
陽翔は何かを言いかけたが、そこで言葉を止めた。代わりに、ため息をついて言う。
「そんな男、思いっきり振ってやれ」
振る?そんな簡単にできたら、こんなに苦しんでいない。私はふっと笑って、酔いに任せて席を立った。
「もう帰る」
「おい、お前、ちゃんと帰れるのか?」
「大丈夫だって」
ふらつきながらも、なんとか家へ向かおうとする。だけど、その途中で、見てしまった。
自分のマンションの前で、彼氏が、知らない女と一緒にいるのを。
目の前が真っ白になった。
あの女......見覚えがある。前に彼が浮気していた相手。私にバレたとき、彼は「もう連絡しない」と言ったのに。
私の視線に気づいた彼氏が、気まずそうに笑う。
「あ、彩花、違うんだよ」
「何が違うの?」
「いや、本当に好きなのはお前だから。だから許してくれるだろ?な?」
彼の目には私のことなんて映っていなかった。許されるのが前提の言葉。
『許すからだよ。そんな簡単に許すから、あいつはお前を都合のいい女としか見てねぇんだよ』
陽翔の言葉が頭に響いた。
私は彼にとってもう都合のいい女として、しかないんだ。
「......もういいよ」
私は来ていた上着を彼に投げつけた。振り絞るように、震える声で続ける。
「もう無理。別れる」
「は?おい、彩花っ!」
彼は何か言おうとしたが、私はもう耳を貸さなかった。これ以上聞いたら、泣きそうだった。だけど、こんなやつの前で泣きたくなかった。
街の光が滲んで、視界がぼやける。目元がじわじわと熱くなるのを感じた。
どこを走っているのかもわからない。ただ、気がついたら、街の片隅でうずくまっていた。
そのときだった。
「おい、お前、こんなところで何してんだよ」
聞き慣れた声に顔を上げる。目の前には、陽翔がいた。
心の糸が、ぷつりと切れた。
「......また浮気された。もうやだ」
私は泣き崩れた。
陽翔は無言で自分の上着を脱ぐと、私の肩にそっとかけた。
そして、ためらいなく抱き寄せた。
陽翔の腕の中に引き寄せられた瞬間、思わず体がこわばった。
男の人の体温なんて、もうずっとまともに感じていなかった。いつも冷たい態度ばかりだった彼氏とは違う、しっかりとした温もり。
「なぁ、俺にしろよ」
耳元で囁かれた低い声が、酔いのせいでぼんやりしていた頭にじんと響いた。
心臓が、一瞬だけ強く跳ねる。
胸の奥でチクリと痛んだはずの心が、不思議と静かになっていく。
「そんな男より、俺の方が幸せにできる」
力強い言葉に、また心臓が跳ねた。
冗談なんかじゃなかった。
こんなにも傷ついて、ボロボロになって、もう誰にも愛されないんじゃないかって思っていたのに。陽翔の腕の中は、驚くほど安心できた。
――ダメだ。今だけだ。酔ってるから、弱ってるから、こんなふうに感じてしまうだけ。
そう思おうとするのに、陽翔の手の温かさがじわりと背中に染み込んでくる。
力を抜いたら、どこまでも甘えてしまいそうだった。
「......そんなすぐに忘れろなんて言わねぇから」
陽翔の声は優しかった。
温かかった。
ただ抱きしめられるまま、私はそこから抜け出すことができなかった。
拒む理由はいくらでもあったのに、体は微動だにしなかった。むしろ、この温もりを手放したくなかった。
陽翔の腕は、ただ強引に抱きしめるものではなくて、私の壊れかけた心をそっと包み込むみたいに優しかった。いつものぶっきらぼうな口調とは裏腹に、抱きしめる仕草はあたたかくて、思わず体の力が抜けていく。
胸の奥のひび割れた部分が、じんわりと癒されていくみたいだった。
抜け出さなきゃ。
それなのに陽翔の腕の中は、あまりにも居心地がよかった。
私は陽翔の背中に手を回し、力を込めた。
この心に、君が触れたから 光野凜 @star777
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