明日見る夕陽は今日と同じ色なのかな

王美鈴

序章〜巳洞家出会い編【第一幕】

第1話 動き出す歯車

第1話 明日見る夕陽は今日と同じ色なのかな



◆◆◆



 4時限目終了。

 今日の講義を全て終えた巳洞宗吾みどうそうごは、駐輪場へ向かう。


 夕方になりかけるこの時間帯だが、帰る人の数はまちまち。それが大学というものであり、高校までとは異なる世界だ。


 入学式を終えてから一週間経った今でも、都会のキャンパスの雰囲気には未だ慣れず、キャンパス見学に来た高校生の如くソワソワとしてしまうのは、まだ自分が大学生だという実感が湧かないからだろうか。


「宗吾〜! サークル見学行く⁉︎」


 自転車に跨ったところで、同じ学科の友人、船橋競平とすれ違う。

 ラケットやら弓やらのケース達をいくつも目一杯に肩に掛けた彼は、大学生活を満喫しはじめる準備は万端、やりたい事沢山といった感じであり、彼は彼なりに慣れようとしているのだろうか。宗吾からすれば彼は羨ましく、誇らしい。


 けれど自分は、彼のようになれたらとは思わない。思ってはいけないのだ。少なくとも今は。


「あっ、ごめんな競平! 今日は金曜日だからまた今度!」

「おーう!」


 競平は嫌な顔一つせず、笑顔で宗吾の肩を叩くと、その手を振って、駅へ向かっていった。だから宗吾も少しだけ手を振りかえし、ペダルに足を掛けた。


 最寄駅を過ぎて大通り沿い、モノレールの線路の下を暫く直進して曲がる。見えてくるのは大学に勝るとも劣らない白い巨塔。自身の通う、有明基督大学ありあけきりすとだいがく附属の病院だ。


「五時半から、愛海あいみ様の面会で御予約されている、巳洞宗吾みどうそうご様ですね?」


 病院に一般客が入れる入り口は一つだけ。受付をし、殺菌装置のある廊下を通り過ぎて、誰も居ないロビーに出る。


 最上階までは吹き抜けで、エスカレーターが左右に上り下り作動しているのが見える。ナースステーションの他にも、コンビニや雑貨店などがあり、複合商業施設の1Fを想起させる場所だが、照明は暗く、患者と医師、看護師以外の人の行き交いは少ない。つまり店々は全て、患者とその家族が利用するための場所だ。


「母さん。起きてる?」

「ソウちゃん」


 エスカレーターで四階まで上がり、すぐ左の廊下を曲がって突き当たり。海側の病室に宗吾の母愛海は居る。


 自分の声に反応して振り向いた母は、上体を起こし、柔和な笑みを見せた。


 場所が違えば売れないラッパーが付けていそうな白いコットンキャップ姿も、もう見慣れてしまった。母の髪は長かったから、抗がん剤で髪が抜けた姿は初見ではかなりショックを受けたものだが、本人はそこまで気にしておらず、知英に見られたらどうしよう、と笑ったりもしていた。


 そう、母は本当に強いのだ。

 行方知れずの宗吾の父、和伊南知英いなみともひでが居なくとも、宗吾を女手一つで育て、大学にまで行けるようにした。


 中学の頃、母に会えるのは朝学校に行く前だけだった。それでも掃除洗濯炊事、朝食も作ってくれた。


 母は一体何時に起きて、何時に寝ていたのだろうか。


 うちの朝飯が、他の家の夕飯並みのボリュームなのは、夜まともに作ってあげられないからだと言って、朝からカレーやシチューが出てきた。


 本当に美味しかった。


 母が作り置きした冷たい夕飯をチンして食べることや、真似して自分で作るものなんかとは格段に違う。何度レシピを聞いても上手く出来ない。見よう見まねでは追いつけない母の実績だ。


 愛海はこの料理を、知英にも食べさせていたのだろうか。一体いつから? 大学、高校、中学、或いは小学校の頃から? 母にそんな質問は出来なかった。でも知っているのは、母と父はそのくらい古くからの仲だということだ。


 知英が消えても尚、彼が母と生きた時間を、十八歳の自分はまだ越せていない。


「母さん、今日も綺麗だね。夕陽」

「ソウちゃん、明日見る夕陽は、今日と同じ色なのかな」


 母の手を握ると、夕焼け小焼け、と口遊みたくなる。その度に脳裏に浮かぶ景色は、幼い頃に教育テレビで見た記憶か、それとも本当に背負われた時、この目で見た景色か。


 母には今、どんな色でこの夕陽が見えているのだろう。


 窓の方を向いて、外の夕陽を二人で眺める。沈みゆく太陽の光は、照明の点いていない部屋全体を、オレンジ色に染める。陽と影の二色しかこの部屋には存在しない。やがてオレンジが緋になり、紅になる。その先の色は存在しない。カーテンは閉められ、全てが部屋の照明の白光に混ざり、消えてしまうから。


 愛海は、夕陽が沈んでも尚、窓を見続けていた。そして思い出したように枕元の灯りを点けて言う。


「ソウちゃん、大学どう? 楽しい?」

「それなんだけどさ、母さん。オレ、やっぱり大学辞めてさ、居るよ。母さんの側にずっと」


 それは極めて答えになっていなかった。部屋の照明を点けながら、俯き答える宗吾に対し、愛海は少しムッとした表情をするが、直後に微笑んで、優しく想いを言い渡す。


「ダメでしょ。行かなきゃあダメ。ソウちゃんはわたしだけのソウちゃんじゃあないでしょ。ソウちゃんの人生はソウちゃんのものなんだから」


 そう語る母は、宗吾の方を向いてはいるが、目線は合わない。しかしその言葉に、後ろめたさも無い。真実の想いだ。

 だって宗吾はもう何回も辞めると言っているのに、何回でも母は言い返してくるから。そのしつこさに、今日も宗吾は折れてしまった。


「うん、ありがとう。母さんがそう言うなら」


 宗吾の頬に音も無く伝う涙を、母は見えているのだろうか。

 いや、見えていなくとも、関係無い。両腕を広げて伸ばし、今日も今日とて母を抱きしめる。それが毎週金曜日の面会。親子水入らず故に、進展の無い時間を過ごし、宗吾は一人で帰るのだった。


 自転車を大学最寄駅の駐輪場に止め、電車に乗って光ヶ浦の自宅まで。


 勿論家に着いても誰も居ない。

 一人で夕食を作り、風呂を沸かし、掃除洗濯をして寝る。母の病気が重くなり、入院しはじめたのが高校に入った時くらいからだから、もうこんな生活は四年目に突入していた。必然的にもう、家事も一人で出来るようになっている。


 料理の上手さだけは敵わないが。



 アルバイトに勤しんだ土日を経て月曜日。この曜日は一時限目から講義がある。大教室で、宗吾の学科、日本文学科に所属する半分くらいの学生が同時に受けるものだ。


「なぁ宗吾。同じ苗字の人居るの知ってる?」

「誰と?」

「宗吾とだよ」


 隣に座る競平が、タブレットで画像を見せてくる。それは今日の一時限目、今からこの大教室で行われる講義の名簿だ。


「ここ、巳洞みどう……てんろく? 天に六って書いてある」


 名簿を見ると、自分と同じ学部学科に自分と同じ苗字の人が居る。


 天六? 名前順に座るわけでもないし、入学したてだから、この人物の事は知らない。会ったこともない。


 それに、自分以外に知る巳洞という苗字は、きっとスポーツ選手かアイドルか何かで一人か二人は居たような気がするだけで、本当にそれ以外は知らなかった。


「あんまり聞かない苗字だけれど、こんな身近に二人も居たなんてな。親戚じゃあないの?」

「違うよ。オレは母さん以外に血の繋がった人知らないから。母方の祖父母は物心付く前に死んじゃったし、父さんも、その家族も一体今は何処にいるのやら」

「あー、ごめんな。変な事訊いて」

「いや良いって。それより男子か女子かどっちか当てようぜ」

「男子でしょ! つかなんて読むんだろうな」


 そんな事を話しているうちに講義が始まる。

 まだ授業を受けて二回目だが、一年生が故に高校の頃習った古文の基礎みたいな内容の話ばかりで、二人揃って退屈な気分になる。


「今日の授業つまんないね。何で分かりきってることやらないといけないかなぁ」

「おいおい宗吾。その感想はちょっと秀才感ありすぎじゃあないですかね」

「ははっ、それは過大評価だよ競平。オレは天才でも秀才でも何でもない。ただ文系だからそういうのを何となく解っちゃうだけなんだよなぁ」


 前には決して座らないが、後ろで遊んでいるわけでもない。

 二人は中団の端で教室全体を把握しつつ、自分のペースで講義を聞く時もあれば、先輩から情報を仕入れ、予習もする。


「終わったー。次はどこだっけ?」

「五号館じゃね?」

「よし隣だ。ラッキー」


 講義の終わりを告げるチャイムが鳴る。


 荷物を片付け、隣のクラスへ行こうと、教室を出たところで、宗吾は黒縁で丸めの眼鏡を掛けた、見知らぬ人物にその手を掴まれた。


「うわっ、ちょっ」


 英語で白い文字が入ったグレーのパーカーに、赤や青の線が入った黒いヘッドホンを首に掛けている女。


 同じ一年生か? 


 平成後期から令和初期に、アングラな若者の間で流行ったような格好で、そのフードの内側には、色素の薄い灰黒い髪が見える。が、そんな彼女に手を引かれ、四号館を出ながら宗吾は抵抗の言葉をいくつか放つ。けれども彼女は一切回答せずズンズンと歩いて、五号館に入ったは良いが目的の教室をスルーされ廊下の一番端、非常階段へのドアを開けて、宗吾も外へと連れ出した。


 更には踊り場まで登らされ、壁を背にさせられた時、少女はいきなり壁ドンしてきて、ついに言葉を発する。


「見つけた」

「誰なんですか貴女一体⁉︎」

天六てんり

「テンリ?」

巳洞天六みどうてんり。あなた巳洞宗吾みどうそうご、でしょう?」


 彼女がパーカーのフードを取ると、灰黒いショートボブの髪が姿を表す。そして胸ポケットにメガネを仕舞い、こちらの顔をじっと、円な瞳で見てくるのだ。が、こんな女は知らない。知らないのに向こうはこちらを知っているようであり、勝手に話を進める。


「わたしはあなたを家に連れて帰るという命令を父様に授かっている。今日のカリキュラムが終わったら一緒に帰ろう。わたし達の家へ」

「そうか。キミが、天に六で、巳洞天六さんか」


 この娘こそが、探していた同じ苗字の学生だった。しかし彼女の言っていることは分からない。


 てか家って何? 


 宗吾の家は千葉の光ヶ浦にあるのがそうだし、話が理解出来ない。


「理解出来なくても連れて行く。抵抗しても連れて行く。それがわたしの役目。巳洞家の使命を遂行するために」

「オレん家の使命……?」


 すると天六はぬうっと顔を寄せる。


 彼女の瞳に自分の姿が映るくらい近づかれ、照れるというよりかはむしろ気圧されるようだ。


 そして文字通り高圧的に、彼女は言葉を強める。


「あなた、何も知らないんだね。実の母が居ればそれで良いの? 全てを知る覚悟は無いの?」


 その言葉に宗吾は打ち震えた。


 自分は生まれてこの方ずーっと母と二人で生きてきた。母の病は辛いが、そうであっても二人で小さな幸せを築いてきていた毎日。


 これが自分にとって本当の家族なのに。実際は違うのだろうか。


 まるでそれは、幸せなあの時間の裏で、自分の知らない何かが蠢いていて、そのおかげで生きてこられたみたいな言い方だったのだから。





…………To be continued.






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