9 実力者
年齢なりに外見の変化はあるものの、鋭敏かつ繊細でありながら思い切りのいい演奏は、まぎれもなく杉崎先生だった。
「絵里花ちゃんか! 何年ぶりだろうね。すっかり大人になったねえ」
ステージ裏にある体育館の出口で声をかけると、杉崎先生はメガネの奥の瞳に人懐っこい光を溢れさせた。
「そうか、楽器店をね。君らしいよ」
「ええ、どうせなら音楽の近くにいたかったんです。それに、卒業してからずっと楽器店でアルバイトをしていたので、仕事の内容が分かっていましたし」
「なるほど、そうだったのか。利益は出ているのかな」
「正直、苦しい状態です」
先生は、ふん、と息をついた。
「まあ、どこも似たようなもんだろうね。特に、個人経営の所は厳しいんじゃないかなあ。よく頑張ってるね」
先生のねぎらいは、心からのものだと感じられた。
「ありがとうございます」
私も朗らかに言って頭を下げた。一瞬、頭をなでられるのではないかと構えてしまったが、それはなかった。さすがに大人の女にそれはないか。
「ところで、さっきの演奏を聞いてどう思った?」
「先生らしい、素敵なものでした」
「おいおい、楽器屋さんがそんな耳でどうするんだ」
先生は笑ってはいるが、相変わらず音楽に関しては手厳しい。私も笑みを見せた。
「そうですね。楽器には少々、問題があると思います。オーバーホールでは補いきれない疲れが出ているものが多いと感じました」
「だろ。それでね、総入れ替えすることにしたんだ」
先生は軽く言うが、一台何十万円もする楽器をそうそう気軽に買えるとは思えない。私は眉をひそめた。
「そんな予算が取れるんですか」
「誰だと思ってるんだ」
目を細めて胸を張る杉崎先生を見て、改めて彼の実力に思い至った。
私が高校で吹奏楽部に入った時も、いきなり上級者用の新品のファゴットを与えられて舞い上がったのを覚えている。先輩たちが使う楽器だけでなく、新入生の分まですべてがピカピカだった。
あれから二十年。全国大会で上位入賞の常連となって、さらに名の売れた彼ならば、なんでもないことなのかもしれない。
「楽器屋さんの意見を聞きたいんだがね。ていうか、具体的なことを訊くけれど。君の店ならいつまでに納品できるかな。さっそく夏のコンクールで使いたいんだが」
「大体の編成と数量はどのぐらいになりますか」
「そうだねえ、A編成を三つ分、かな」
およそ百八十台だ。パーカッションも入れれば、もっと多くなる。簡単にはそろえられないだろう。でも私には勝算があった。今すぐ動き始めれば、予選までに十分な練習ができるだけの余裕を持った時期に、間に合わせられる。
そう伝えると、先生は満足そうに頷いた。
「どうだろうね、久しぶりに会ったことだし、少しお話をしないか。君がどんな具合に成長したのか、確かめてみたいな」
話なら既にしている、と普通なら思うだろう。でも杉崎先生の場合、別の意味を込めていると読まなければならない。
長い時を経て、私は再び選択を迫られている。猶予はない。
今、先生の意に沿えば、店を立て直せるだろう。でもそのために私は裏切ることになるのだ、夫を、子供たちを。いや、今さらそれを言う資格は私にはないけれど。
「このあとすぐに、とは言わないよ。僕もそれなりに疲れたしね。演奏にじゃないよ。くだらないことだが、新しい職場となると、なにかとやらなきゃならないことがあってね。毎度のことだが、この時期が一番、憂鬱だ。と同時に心躍る毎日でもある。この歳になってもね。今日は素敵な再会もあったし」
濁りのない瞳で見つめられて心が疼いた。正直に言うと、疼いたのは心だけではなかった。
自ら望んだことではなかったけれど、その時点で私は既に女としての成熟を迎えつつあったのだから、何も感じなかったわけではない。
なつかしい、とも言える先生の体臭も関係しているだろう。臭いは場所の記憶に繋がる。場所の記憶は、その時の感情や体の感覚を呼び覚ます。先生と話しながら、私の意識は高一の夏合宿の夜に半ば浸っていた。
恩師に会えたのは純粋に嬉しい。でも、『お話』をするのには躊躇いを感じる。できることなら忘れたい過去なのだ。あれは少女の見た幻だったと思いたい。美しい思い出などではなくて、もっと重く陰湿な秘め事だけれど。
愛ではない。恋でもなかったと思う。強いて言うなら、憧れはあったかもしれない。いずれにせよ私は、杉崎先生の泥のような情念のままに演奏されて歌う楽器だった。
もしも再び受け入れてしまったなら、あの頃の記憶を上乗せされた、リアルな皮膚感覚に襲いかかられるだろう。その時私は平静でいられるだろうか。
次に会う日時だけを決めて、その日は別れた。
そして今日。
「どうしたの、ぼんやりして」
私は意識を現在に引き戻した。
「すみません、昔のことを思い出してしまって」
「絵里花ちゃんも過去を振り返るような歳になってしまったんだね」先生は愉快そうに笑った。「いくつになったのかな」
「三十七です」
そうかそうか、と頷いて、先生は珈琲を飲み干した。
お話、聞かせてもらえますか。私は自分からそう言った。
先生は少し真面目な顔をして席を立った。
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