一久保花子、二階より落下す
No.4450-conneco
第1部「ボロアパートとキィキィ音とワイ」
「静寂は足音と共に終わった」
東京の外れ、二十三区の端っこ。
そのまた端っこの、さらに気づかれない場所に、俺は住んでいる。
まるで世界の端にそっと置かれた“予備の人生”みたいな日々。これといって不満もなく、かといって満足もない。ちょっと濡れてるティッシュみたいな人生や。
住まいは『ハイツたんぽぽ』。名前は花、実態はボロ。
外壁は“たんぽぽ”というより“よもぎ色”に近く、壁はヒビが主張しすぎて現代アートの領域に達している。
俺の部屋は一階の一番奥。角部屋という響きにロマンを感じるかもしれないが、実態は“風通しの良い音筒”である。隣人の屁すらも聞こえるぜ。
名前は五十嵐太郎(いがらし たろう)、契約社員、三十一歳。
仕事はネット回線を直す作業員。特技は「レジ袋の重さを左右均等に分ける」こと。どうでもええ? せやろな。でもこれが俺や。
日々は、静かだった。
いや、正確には「静かだったような気がしていた」だけかもしれん。
なぜなら──
キッ…キッ……キキッ……
上の階から、聞き慣れない足音が響いたその夜、
俺の静寂は、無事、死亡確認された。
「なんやねんこの足音……リズムついとるやん……」
メトロノームか? ちゃう、もっとパッションある。
「キッ、キッ、キキッ……キィッ!」
うるさいけど、ちょっとノれてしまった俺が悔しい。
その主は、つい最近入居してきた住人らしい。
ポストをチラ見したら、しっかり名前が貼ってあった。
一久保花子(いっくぼ はなこ)
花子!? 令和の時代に“子”つくやつ、実在するんか!?
“ハナコ”って響きがもう時空を超えてくる。
『山田花子』と『日本人形』が脳内で同時再生された。脳がバグった。が、子がつく名前もいいなと思った。
そして花子の本領は、足音だけでは終わらんかった。
夜──
俺がいつものように風呂に浸かって、ため息を三連発決めた頃、天井から謎の音が降ってきた。
「アアアァァァアアアアア〜〜〜〜〜ッ!!」
「ラァアアアア〜〜〜〜〜イェェエエエエイ!!」
なんやこのハイトーン。魂燃えてる系のボーカル。
しかもガチでうまい。だがデカい。湯が波打っとる。
俺はただ、静かに湯に浸かりたかっただけやのに。
なぜ、上からライブが開催されているのか。
俺の脳内は、泡と困惑で満ちていた。
静寂は──完全に、終わった。
「泡とバスタブと五十嵐の怒り」
風呂は俺にとって、聖域やった。
職場のイライラも、スーパーのレジで前の客が小銭を一枚ずつ数えだした時のあの怒りも、満員電車でリュックを背負ったまま突撃してくる猛者たちの記憶も──全部、お湯に溶かして流す場所やったんや。
それが、である。
「フゥアァァァ〜〜〜〜〜〜アアアアアアアア!!!」
上からの爆音、風呂限定の奇声、まさかのフルコーラス。
湯気と一緒に音が降ってくる。反響で低音まで増幅してるから、まるで風呂の壁がサブウーファー状態や。
泡、逃げる。俺の心も、逃げる。
代わりに湧き上がってくるのは、怒り。
ここ最近、俺が唯一愛していた“風呂”が、音楽テロの舞台になったのだ。
「なんで風呂で歌うねん……」
「せめて、ワンコーラスで止めろや……」
「フルアルバムやんけ……!」
愚痴を呟いてる間にも、花子(たぶん)のヴォーカルは続いている。
「イェェエエエ〜〜イ!! フウゥ〜〜ウ〜〜〜〜ッ!!」
間奏中の煽りまできた。ライブ形式やん。どこで覚えたそのMC。
湯船の縁に頭をのせて、天井をにらむ。
「これ、我慢するしかないんか……?」
答えが出る前に、天井が、音を立てた。
「……あれ? ミシ……って言うた?」
目を細める。耳をすます。
やっぱり──
ミシ……バキ……!
何かが、明らかに“たわんでる”。
俺の風呂場の真上。まさに、その天井部分だけが。
「……おい……いや待て待て、これはシャレにならんやつやろ」
ガタガタ、と音が大きくなる。
「ちょ、待て、あかんて……!!」
次の瞬間、
バッコォオオォオオオン!!!!!!
天井、崩壊。
泡、降臨。
粉塵、舞う。
その中から、何かが、こちらを見ていた。
「……おっすー☆」
泡まみれの笑顔。にっこり全開。上目遣い。
完全に泡の神、もしくは風呂の妖精。名を、一久保花子。
「うちの泡、いい感じでしょ?」
何の自慢やねん。
「……泡、でかいな」
「ありがと〜、今日はね、ラベンダーの入浴剤入れたの〜。癒し成分100%♡」
癒されへんわ!! 俺の心は今、嵐なんや!!
怒りのメーターはとっくに振り切っていたが、
風呂の中で泡まみれの女と目が合ってる状況で怒鳴れる人間は、
少なくとも俺じゃなかった。
そして、俺の頭にふとよぎった言葉がひとつだけあった。
──中学の時の、あの“花子”……まさか、こいつ……?
泡と怒りと、混乱と。
聖域はすでに、泡の戦場と化した。
泡の中の花子が「ふふ〜ん♪」と鼻歌を漏らしながら、
天井の穴から“逆さ吊り”でぶら下がってきた花子。
足はまだ二階に引っかかってるのか、泡まみれの上半身だけが顔を出している。
それも、めっちゃ笑顔で。
「おっすー☆」
いやどこからどう見ても逆さまやのに、あまりにも自然体すぎて、重力の存在を疑った。
だが、俺はその“顔”に見覚えがあった。
いや、顔そのものじゃない。目つき、あの破壊的な笑顔、
それから──あの時の、声。
中学二年のある朝。
空気が妙に澄んでて、「今日はちょっとだけマシな一日になるかもな」と思った、あの朝だ。
「五十嵐くんって、なんか幽霊っぽいよね〜」
クラスでそんなことを言われていた時期。
誰ともトラブルは起こさないけど、誰とも深くは関わらない。
いたって平和、でも限界まで地味な日々。
その登校中、事件は起きた。
「ぬおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
ドカドカドカドカッ!!
背後から突風が吹いた。いや、走ってる。女子が。猛ダッシュで。
俺の横をすり抜けていった女子生徒、顔を歪め、頬は風圧でぐにゃり、
表情は真剣そのもの、いや、もはや武者や。
あのとき思った。
「きっとこの子、何かに追われてる……」
あるいは、「この世のすべての遅刻と戦ってるんや……!」って。
強烈すぎて、鮮明に記憶に残った。
それが──
一久保花子。
「……まさかな」
俺は風呂の中で呟いた。
泡越しに目が合う。
その目は、あの日と同じだった。まっすぐで、どこか空回ってて、やたらと強い。
「もしかして……中学、●●中やった?」(←地名は後で考えるとこ)
「え? あっ、うん! なんで知ってんの!?」
やっぱり。ビンゴや。
「まさか……あのダッシュ花子……?」
「えっ!? なにそれ? やだ〜あたし、あの頃から目立ってた? いやん☆」
いやんちゃうねん。
俺の人生で唯一“記憶に物理で突き刺さった”女子、それがあんたや。
──中学の“あの花子”は、
泡まみれで天井から降ってくる形で、再び俺の前に現れた。
これが運命かどうかは、まだ知らん。
でも、俺の人生が泡立ってきたのは確かや。
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