その翼は誰がために Rites of Maiden
@amamiya_ouka
1章 羽振の乙女達
第1話 Awakening
横になったまま、ベッドボードに置いた目覚まし時計へ視線をやると、ディスプレイは六時の手前を指していた。二段ベッドのはずだが、雪華のすぐ隣にはルームメイトの
「……おはよう、怜」
声を掛けても反応がないあたり、目を覚ました雪華と違って、怜の眠りは深いようだった。雪華はしばらく、身動ぎの一つもせずに穏やかな呼吸を続ける彼女の横顔を眺めていた。友人の無防備な寝顔を、間近に鑑賞できるのは、早起きの役得だろうか。
はっきりと目鼻立ちが整っているせいか、時として鋭さすらあるほど精悍なルームメイトの容貌も、このときばかりは心なしか幼く見えた。
「ね、起きて。朝だよ……」
肩に触れない程度に切り揃えた黒い髪や、柔らかな頬に触れても、彼女は目を覚まさない。床に就いた時間はそう遅くなかったはずだが、連日の忙しさに疲れているのかもしれないと雪華は思う。声はかけてみたものの、夢見る彼女を無理に起こしてしまう気にはなれなくて、雪華は布団から抜け出すと、足音を潜めてシャワーを浴びに向かった。
太腿の半ばくらいまで丈を詰めた白いキャミソールは、寝汗で少し湿気っていた。春になったばかりの朝には少し肌寒い格好だが、雪華は気にかけなかった。洗面台を兼ねた更衣室でキャミソールの肩紐を外すと、その下に着けていた薄ピンクのナイトブラとショーツも、一緒くたにして洗い籠へ入れて、浴室へ足を入れる。春先の冷たい空気を払うように、シャワーの元栓を捻って温水を出す。
指先で水流に触れて湯温を確かめると、雪華はおもむろに湯を浴びた。シャワーの奏でる水音は、雨音に耳を傾ける心地よさを連想させる。それに少しばかり汗冷えした身体にも、お湯の温もりは心地良いものだった。冷たい空気と湯が触れて靄が立ち始めた中で、雪華は目を伏せる。
少し長めにシャワーを楽しんで、汗と眠気を洗い流すと、バスタオルで身体の水気を拭き取る。そうして、下着を着ける代わりに、バスローブへ袖を通した。湿気が残る状態で下着を身に纏うのは、あまり雪華の趣味ではなかった。
洗面台に寄ったついでに口を漱いでから、雪華はリビングへ脚を伸ばした。一応は自分の家と言ってもいいのだが、移ってきて一週間になるかどうかの室内には、まだしっくりと馴染まなかった。荷解きもままならない有様で各自の段ボールや雑貨が積まれた部屋の壁に、辛うじて引っかかった時計の針に目を留める。
ルームメイトの
姿見の前でバスローブを脱ぎ捨てると、鏡面には年頃の割りに心持ち背が低い、少女の裸体が映る。ほっそりとした腰から尻にかかるほど伸ばした銀の髪、肌色と言うには白に近い肌。鏡の向こうの瞳は、鮮血か紅玉を思わせる紅色だった。胸元や腰は思春期らしく、それなりに丸みを帯びているものの、全体としてはまだ華奢と言っていい、まだ幼さの抜けきらない身体。
湿気を帯びた前髪が目許に垂れてくるのを、雪華はうっとうしげに払いのけた。近いうちに、どこかで散髪を頼むべきかと思いつつ、後ろ髪へと手を添える。
散髪のついでに、さっぱりと切ってしまおうかと、雪華は時折考える。最も、思うだけで実行まで至らないのは、彼女自身の意志と言うよりも、怜が髪を綺麗だと言って惜しんでくれることに尽きた。それに顔を合わせて間もないルームメイト達まで、揃って切ってしまうのはもったいないと言ってくるのだから、意志も挫けようというものだった。
髪が気になり始めると、いつもの癖で毛先を弄んでいた。思ったよりそれに気を取られて、雪華はリビングに入ってきたルームメイトに気づかなかった。
「これだけ見せつけられると、一周回ってなんだか申し訳なくなるわね」
「え……?」
声を掛けられて、反射的に姿見を見る。姿見に映る自らの後ろに、金糸のように煌めく髪の少女が、碧い瞳に悪戯っぽい笑みを覗かせていた。雪華は驚く間もなく、素裸なのも忘れてとっさに振り向いた。
「し、紫苑ちゃん……」
「つい、綺麗だから見とれちゃった。ごめんね」
「起きてた、の……?」
「うん、ついさっき。おはよう、雪華ちゃん」
「おはよう、紫苑ちゃん……」
彼女がまだ寝ているものだとばかり思っていた雪華は、白い頬を染めて俯いた。元はと言えばリビングで素裸になっていた方が悪いのだから、気まずいというのは自分勝手だったし、余りに悪びれた風もなく笑う紫苑を見ると、怒る気にもなれなかった。
「目の保養には、良かったけれど。まだ冷えるから、そんな格好だと風邪を引いちゃう……」
「……う、うん。そうだね」
「ご飯の用意はしておくから、先に着替えてきて。あと、楓花もよろしく。まだ寝てると思うから」
「うん。起こしてくる」
「お願い」
少し頭を冷やしてから改めて紫苑を見ると、彼女は既に寝間着ではなく、学院の黒い制服を纏っていた。雪華も我に返って、とりあえず足元に脱ぎ捨てたバスローブを肩にかけた。ダイニングキッチンの方に背を向けた紫苑の顔が心なしか緩んでいたのは、気のせいだったろうか。
ともかく、紫苑が朝食の準備をしている間に、雪華も着替えることにした。部屋に戻ると電気をつけ、下着を穿くと、作り付けられたクローゼットを開ける。整理が追いつかずにどこも雑然としていたが、制服はすぐ取り出せるよう、目の前に掛けてある。
真っ白なブラウスは柔らかな綿地でできていて、肌に心地良かった。膝上まで届く濃紺の靴下を穿き、膝上よりも少し上に裾を調えた、黒いプリーツスカートを穿いて留め具を掛ける。その上から、スカートと同じ生地の、前合わせのボタンがダブルになったブレザーを羽織った。二列に並んだ黒いボタンを留めると、もっと身軽なシングルのブレザーとは違う、軍服のような印象を他者に与えるだろうか。左胸のポケットには伝統的に魔術師を表す、簡潔に意匠化された翼が交錯し、中央には穂先を上に左右対称の翼を持った魔術杖が貫く、
一通り身につけて威儀を正すと、雪華はベッドの方に向き直った。怜は相変わらず眠りこけていて、それなりに身嗜みを整えさせようとすると、そろそろ起こしてやらないといけなかった。
「れい、怜? 起きて、用意しないと」
とはいえ、声をかけただけで起きるほど、怜の寝起きは良くなかった。彼女と起居を共にするのは羽振に移ってきてからとはいえ、雪華は既に嫌というほど理解していた。
遠慮なく掛け布団を捲ると、薄いスリップだけでは肌寒いのか、怜は身体を縮こめた。雪華はひとつため息をつき、肩口に手をかけて仰向けに戻す。怜がむずがって眉根を顰めると、そのまま覆い被さるようにして跨がった。
「ゆき、か……?」
「起きて、怜」
「ん、ぅ……」
体重がかかると、さすがに怜も異変を感じ取ったらしい。うっすらと瞼を開くと、いかにも眠たげな声を漏らす。しかし、すぐに瞼を下ろしてしまったので、雪華は耳元に顔を寄せた。
「れい。朝、だよ」
「や、だ……」
びく、と怜の身体が跳ねる。それでも頑なに目を開けようとしない彼女に、雪華は強硬策を取ることにした。鼻先が触れ合うほど顔を近寄せると、そのまま唇を塞ぐ。驚いたらしい怜が目を見開くのも構わずに、雪華は舌先を唇に差し入れる。隙間を縫って舌を口腔に忍ばせようとしたところで、両肩が掴まれた。怜の腕が雪華を引き起こすと、キスはなすすべなく中断される。
「ん、……ぅ」
「……ゆき、か」
名残惜しげに、雪華は目を細めた。一方で、怜の頬は真っ赤に染まっている。
「……昨日も。キス、ばっかり」
「怜、起きないから」
「朝は、ダメ……。明日から、ちゃんと起きるから」
「きのうも、そう言ったくせに」
確かに、寝起きからキスはやめて欲しいと昨日から言われていたのだが、こうでもしないと起きない方が悪いと、雪華は思う。そんな不満が伝わったのか、怜は困ったように微笑む。
「ごめんね。これで許して」
「……ひゃ、っ」
雪華を支えていた両腕が緩むと、また互いの距離が縮まる。怜はうまく身体を支えて、不満げな雪華の頬に口づけた。
「……いいよ。許してあげる」
「よかった」
気づけば、雪華の頬にも朱が差している。改めて身体を元に戻すと、二人は正面から向かい合った。
「おはよう、怜。よく眠れた?」
「うん。おはよう、雪華」
怜を起こした後、雪華は紫苑がルームメイトと使っている部屋に顔を出した。部屋の造りが大きく違うわけでもなく、二段ベッドが置かれているのも同じだった。下段は紫苑が使っているのか、掛け布団が大まかに直された跡があった。雪華は梯子を登って、ベッドの上段に身体を乗り出した。
「起きて、
「……ん、ぅ。ゆきか、ちゃん?」
声をかけると、寝ぼけてくぐもった返事と一緒に布団がもぞもぞと動いた。少ししてゆっくり布団が持ち上がると、飴色の瞳を瞬きさせて、
「おはよう、もう朝だよ」
「うん。紫苑は……?」
「朝ご飯、用意してもらってる。起こして、って頼まれたから」
楓花は眠気を払うように片目を擦りながら、頷いてかぶりを振る。そうして肩に掛かった茶色の髪を背中に払うと、多少は眠気も覚めたようだった。
「そっか、ありがと……。すぐ用意するから……」
「うん、ごゆっくり。手伝ってくるね」
「お願い」
目覚めが悪いといっても、楓花のそれは怜に比べれば可愛らしいものだった。雪華は返事の代わりに片手を振って、梯子から飛び降りた。
リビングに隣接したダイニングキッチンでは、紫苑が制服の上からエプロンを着けて、朝の用意をしていた。合間に電源を入れたのか、リビングの隅に置いたテレビから朝のニュース番組が流れていた。
「昨日、百三十二人の尊い命が失われた筑波合同庁舎ビル爆破事件から六年が経ち、追悼式典が行われました。式典には伏見宮博彰殿下、三木総理らが出席し――」
雪華がリビングに入ると、ニュースに気を引かれてか、紫苑は用意の手を休めてテレビを見ていた。
「紫苑ちゃん?」
「……あ、ああ。雪華ちゃん」
声をかけると、紫苑は虚を突かれたような反応を見せた。何か気がかりでもあっただろうかと雪華が尋ねる間もなく、紫苑は気まずげな笑みを浮かべる。
「ごめん、見入っちゃってた。コーヒー淹れてくれる?」
「気にしないで」
そう頼んで足早にキッチンに戻っていく彼女の背を追って、雪華も冷蔵庫からコーヒー粉を入れたタッパーを取り出した。ダイニングテーブルの端に置いたコーヒーメーカーにフィルターとコーヒー粉を入れ、水入れに水を汲む。準備を済ませると電源を入れ、コーヒーが抽出されるまでにカップやスプーンの類い、それにバターを塗ったトーストやヨーグルト、くし切りにしたオレンジやサラダといった献立をテーブルに並べる。そのうち、コーヒーの抽出が済むと雪華はそれぞれのカップに注いで回る。
あらかたの用意が済み、香り高い匂いが部屋に満ちると、制服に着替えた楓花がリビングに顔を出した。楓花に少し遅れて、怜も眠たげに目を細めながらテーブルの席に着く。
「わ、いい匂いだ」
「おはよう楓花、座って座って」
「うん、おはよ紫苑。怜ちゃんも」
「ん、おはよう……」
皆がテーブルを囲むと、めいめいに手を合わせて食事を取る。早くも少女達の習慣となった時間は、忙しない朝の貴重なひとときだった。
しばらくして朝食を終えると、雪華は食後のコーヒーを自分のカップに注いだ。紫苑の方を見ると、彼女はにっこりと笑ってカップを差し出したので、そちらにもコーヒーを注ぐ。
「ありがと」
「どういたしまして、かな」
紫苑はコーヒーに砂糖だけを、雪華は砂糖とクリームの残りを入れてかき混ぜる。保温してあったものの、少しぬるくなったそれを飲みながら、紫苑はほっとしたように息を吐いた。
そうして彼女が雪華ではなく、キッチンへ視線を向けていることに気づくと、雪華もつられてそちらに目をやる。
「なかなか、うまくいきそうじゃない? 二人とも」
「そうだね」
キッチンでは怜と楓花が何やら喋りながら、食後の片付けをしていた。二人でのんびりとコーヒーを嗜んでいる間に、おおかたの仕事は済んでいるようだった。そういえば初対面のとき、長身の怜に楓花が明らかに怯えていたのを思い出して、雪華は微笑んだ。
電源を入れたままにしてあったテレビが、ちょうど八時の時報を告げる。紫苑は軽く眉を跳ねさせると、カップをテーブルに戻した。
「もう、こんな時間か」
「しおんー、片付け終わったよ」
「はーい、じゃあ出ようか。雪華ちゃん」
「うん、ちょっと待って」
雪華も頷くと、カップの残りを傾けた。
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