第9話 「不倫の罠と舟のポーズ」


 葉月は、スマートフォンの画面を見つめたまま、深いため息をついた。


 そこには、たった一言だけのメッセージが表示されていた。


——『また会いたい』


 送信者の名前を見て、心臓が跳ねる。


 それは、職場の上司・高橋からのメッセージだった。


(どうして……こんな気持ちになってしまったんだろう)


 高橋は、会社でも尊敬される存在だった。穏やかで、知的で、ユーモアもある。仕事の相談をするうちに、次第にプライベートでも話すようになり、一度、食事に誘われた。


 その時は、純粋に上司と部下の関係のつもりだった。


 だが、それから何度か会ううちに、彼の優しさや気遣いに惹かれ始めている自分に気がついた。


 ただ、彼には家庭がある。


 その現実が、葉月の心を締め付けた。


* * *


「今日は舟のポーズをやります」


 ヨガスタジオ「ルナ」で、インストラクターの沙月がそう告げた。


「舟のポーズ(ナヴァーサナ)は、腹筋を使いながらバランスを取るポーズです。流されない強さを養うためのポーズでもあります」


 流されない強さ——。


 その言葉が、葉月の心に刺さった。


 沙月の指示に従い、葉月はマットの上に座る。


「両膝を曲げて、足を床から浮かせてみましょう。バランスを取るために、腹の力を意識して」


 葉月は、腹筋に力を入れて足を浮かせる。


 だが、すぐにぐらつき、足が床についてしまった。


「もう一度。軸を意識して」


 沙月の言葉に従い、葉月はもう一度挑戦する。


 ゆっくりと、両足を浮かせる。揺れそうになるが、腹の奥に力を込めることで、なんとか支えられた。


「……ふぅ」


「いいですね。舟のポーズは、意志の力を鍛えるポーズです。どんなに波に揺られても、自分の中心をしっかり持つことが大切です」


 沙月の言葉が、葉月の迷いに響いた。


(私は……流されていたのかもしれない)


 高橋に惹かれる気持ち。


 それは、本当の恋なのか、それともただの寂しさなのか。


 舟のポーズを続けながら、自分の心に問いかけた。


 そして、気づく。


(私は……誰かのものになっている人を、奪いたいわけじゃない)


 彼の優しさに甘えたくなったのは、きっと自分の心が弱かったからだ。


 けれど——。


 私は、本当は何を望んでいるんだろう。


* * *


 ヨガの帰り道、葉月はスマートフォンを取り出した。


 高橋からのメッセージは、まだそこにある。


 葉月は、ゆっくりと指を動かし、シンプルな返信を打った。


——『今までありがとうございました。もう会うのはやめましょう』


 送信ボタンを押すと、胸の奥に広がっていた霧が、すっと晴れていくのを感じた。


 舟のポーズのように、自分の中心を見つけられた気がした。


 次に誰かを好きになるときは、心から堂々と愛せる人を選ぼう——。


 そう、静かに決意した。


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