第3話

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 淀世は鳥のさえずりではなく、魚が家屋の苔をつつく音で目を覚ますようだ。木の柵が取り付けられただけの窓から差す光は、少しずつ明るくなっている。澄世で言う早朝だろう。

 ユヅカは目を閉じるが、眠気は訪れない。眠るのを諦め、布団をたたみ、身支度を整えて戸を引いた。

 玄関先に、ナナキが立っていた。いつからいたのだろう、ユヅカは悲鳴を飲み込んだ。

「……よい場所に、家をもらったな。これなら剣の稽古で、近隣に……迷惑はかかるまい」

 すっかり目が覚めているのか、彼の口調ははっきりとしていた。

 ユヅカが淀人となって一週間が経った。その間、ミハイが堕牛を狩りに澄世へ向かったが、ユヅカは淀世でひたすら剣を振るっていた。ナナキの言うとおり、まだ捜索には出してもらえない。空いている時間はひたすら素振りし、ユヅカの手には豆ができた。潰れては治り、また潰れる。他の狩人のように、ゴツゴツとした手になり始めている。

 突然現れたナナキに驚き、ユヅカは固まっている。

「お主に……これを持ってきた。準備に手間取ったが……稽古に、重宝するだろう」

 ナナキは自身の隣にある物に視線をやる。驚いて気づかなかったが、ナナキよりも頭一つ分大きな木製の藁人形が立っていた。こちらの存在にも驚く。こんなに大きいのに、気づかなかった。それほど驚いていたのかと内心恥じながら、これは何か聞いた。

「的だ」

 たったそれだけ答えてくれた。黙っていると、言葉不足を自覚したのか、説明してくれた。

「これは……剣の稽古や、魚取りの網を投げる練習に使われる……生半可な剣撃では、壊れないから、当面はこれを壊すことを……目標にするといい」

「わ、分かった……ありがとう。あの、いつからここに……?」

「………………つい、先ほどだ」

 ――絶対嘘だ。

 口に出そうになるのを堪える。きっと、気を遣う人なのだ。話す時に間が空くのは、言葉を選んでいるからなのだろう。

 話すことがなくなり、二人で玄関先に立っていると、足音が聞こえた。二人でそちらに目をやると、ミハイが歩いてきていた。不気味なものを見る目で、こちらを見つめている。

「何……? なんで早朝に無言で玄関に突っ立ってるのよ……不気味な奴らね……」

 不気味。その言葉が二人に刺さった。しかし、何も言い返せない。早朝の玄関先に無言で立っている人なんて、不気味に決まっている。

 ミハイは藁人形に気づいた。そばまで近寄り、バシバシと叩く。

「へえ、珍しい物じゃない。西の集落で作られたやつ? あたしらの時にはなかったのに、ナナキも新人には期待してるのねー」

 からかう口調でミハイは言い、意地の悪い笑みを浮かべてみせる。ナナキも珍しく口元を緩め、言った。

「……久しぶりの、弟子だ。こやつは、きっと強くなる……保障しよう」

 ユヅカに視線を移す。

「自分は、期待している……堕人を、狩ることを……戦いを終わらせることを」

 そう言い残し、ナナキは去っていった。川原のボロ屋に帰るのだろう。

 藁人形をミハイに見守られながら――手伝ってくれなかった――家の裏に移動させ、朝餉の用意をする。ミハイが食材を持ってきてくれたのだ。お米と魚卵を一緒に煮て、魚は串に刺して囲炉裏に刺して焼く。これが淀人の一般的な朝餉だと、そう教えてもらった。食材は、館の食糧庫から持ってきていいらしい。ミハイからの情報のため、あとでリオクに確認を取ろうとユヅカは思った。

「ミハイは今日何するの?」

 焼き魚を頬張りながら、ミハイは答えた。

「あたしは堕牛が現れるまで、この集落で待機よ。行動を先読みできたなら……あんたの村みたいにならなくて済むのに」

 目を伏せて、切なそうにミハイは言う。ユヅカには、彼女の姿が少しだけ申し訳なさそうに映った。間に合わなかったことを気にしているのだろう。

「あぁ、そうだ。川の向こうの集落には行かないようにね。あそこはもう、堕人に穢されてしまってるから」

「も、もしかしたらそこに――」

「いないわ」

 ユヅカの言葉を先読みし、ミハイは言い放つ。希望の消えないその目を見て、ミハイはため息を吐き、しぶしぶといった様子で話し始めた。

「馬鹿共の巣窟にこの前潜入したけど、堕牛を人の手で産み出そうと呪文を呟いてる連中しかいなかったわ」

 目に見えて落胆したユヅカを気遣ったのか、ミハイは続けた。

「まあ……今より強くなったら探しに行ってもいいかもしれないわね。川はナナキが見張ってるし、何か起こったら狩人は呼び出されるはずよ」

 魚を飲み込み、お茶を飲み干すミハイを見つめる。彼女も行方不明の弟を探しているのだ。のぞき見ることのできない心の奥で、ミハイは何を思って戦っているのだろう。どれほど長く探し続けているのだろう。諦めはしないのかと、そう問いたかったが、きっと見つかるまで探すつもりなのは、明白だった。ユヅカも見つかるまで探し続けると決めている。

 ミハイとその弟は淀人だから、澄人よりも寿命が長いはずだ。ユヅカとヤシナは淀人と澄人に分かれてしまった。早く見つけてやらないと、妹が寿命を迎えてしまう。

 ふと、そう考えた時、初めてユヅカの心に焦りが生じた。生じてしまった。腹の底からじわじわと不安が沸き上がってくる。一刻も早く、堕牛と渡り合える力を身に付けなければ。堕人を探し出さなければ。

「ごちそうさま。ナナキの指南、受けてくる」

「食べたあとに張り切ると吐くわよー。ケガしない程度にがんばりなさい。片付けはやっておくわ、押しかけてる身だし」

 ヒラヒラと手を振るミハイに礼を言い、赤の剣を下げて家を出た。相変わらず、光が強いうちは人の気配がない。みな、どこかへ行っているのだろうか。

 ――そういえば、ここの暮らしをほとんど知らないな。

 そんなことを思いながら、家屋の群れを見る。窓から見える囲炉裏やかまどの火は完全に消され、一切の灯りもなかった。

 川へ着き、ナナキを探す。彼はいつもどおり、ボロ屋のそばの石に座り、川の向こうを身じろぎせずに見つめていた。近づけば足音に気づいたのか、ユヅカを見ずに言った。

「……今朝ぶり、だな」

「うん…………指南、受けにきたよ」

 ナナキはふと、ユヅカの声音に滲む何かを感じ取ったのか、体ごと向き直った。

「……焦っても、隙が生まれるだけだ。たまには……気分転換も、いいだろう」

「焦ってなんか――」

「ムキになるその姿が……すべてを、語っている……」

 何も言い返せず、ユヅカは目を逸らした。彼の目は、まるで心の中を見透かされているように感じる時がある。まるで父の目のようだ。あの人は、なんでも見透かしてみせた。

 黙っていると、ナナキが声をかけてきた。

「……そうだな、東の集落にでも……行ってみるか」

「え? 指南は?」

「狩人ではない人々の、生活を……お主は見た方が、いい……そう判断した。これも、指南の一つだ……」

 ナナキは立ち上がり、ボロ屋に向かって声をかけた。すると、戸が引かれ、中からカダが飛び出してきた。この二人はいつも一緒にいる。

「カダは、話を聞いていた! カダも東の集落に行く!」

 両手を腰に当て、ニパッ、と晴れやかな笑顔をカダは浮かべた。対照的に、ナナキは無表情に見えた。包帯で顔を隠しているため、当然かもしれない。

 カダを先頭に、三人は川沿いを歩く。ナナキはしきりに川の向こうを気にしていた。

 三人の間に会話はない。カダだけが、よく分からない鼻歌を歌っていた。

 歩き続けていると、やがて前方に煙がいくつも上がっている集落が見えてきた。火事かと思い、ユヅカは一瞬身構えたが、二人が平然としているため、違うと考え直した。三人は川原から伸びる石畳を上がり、集落へ入っていく。そこでは、たくさんの人々が働いていた。

 通りでは物売りが露店を開き、声を張って客を引いている。カダは魚の切り身を焼き、タレを付けた食べ物を買っていた。煙が出ている大きな建物は鍜治場らしく、屈強な男女が鉄を打っていた。牛が荷車を引き、人に寄り添って歩いていく。

「こっちにも牛がいるんだね」

「あぁ……牛は、大いなる母から人へ贈られた……聖なる生き物だ。それは、澄世も淀世も変わらない……それを穢し、悪事に使うなど……言語道断だ」

 牛は畑や田んぼを耕し、荷車を引かせて物を運ぶことに使われる。人は牛を愛し、牛もまた人を助けることに喜びを感じると言われている。堕人もまた、同じように堕ちた牛を使うのだろうと、想像できた。人に与えられたがゆえに、悪事にも使われてしまう。

 初めて淀世で人の生活を見た気がするのは、気のせいではない。このような賑わいは、館のある中央の集落にはなかった。この風景は、澄世でいつも行っていた市場に似ている。

 なんだか懐かしい気分になり、興味深く見回していると、ナナキが口を開いた。

「……中央の集落は、狩人の集落だ。だから、あのように……閑散としている。戦えない者、戦わない者は……ここや、西の集落、北の集落で働き……狩人が使う武器や、人々の食料、日用品などを作っている。生活に必要なものは……だいたいこの東の集落で、得られる」

「へえ……じゃあ、この剣も、ナナキの直刀もここで?」

「そうだ。自分の物は……自分で、打った」

「カダは、ナナキがここで働いていた時期を知っている」

 胸を張って言うカダに、ナナキは口元を緩めた。

「……なつかしい。淀世に来て、二度目に世話になったのが……自分の師匠だった」

 目を細め、昔を思い出しているようだ。ふと、ユヅカは気づく。

 今、淀世に来て、と言った。もしかしたら彼も、自分と同じく元澄人だったのではないか。過去は捨てた身、というのは、澄世を捨てたことなのだろうか。

「ねえナナキ、あなたも澄世の出身なの?」

「……過去は、捨てた。だが、捨てきれぬものもある……それに、自分が生まれたのは……お主が生まれるずっと昔のことだ。お主に、自分の過去は……関係ない」

 ナナキはそのまま口を閉ざした。あまり触れられたくないのだろう。カダはそんな彼を寂しそうに見つめた。

 人々の生活を見ながら東の集落を歩き、カダの指差した茶屋で休憩することにした。

「カダは、カダたちは澄世だけじゃなくて、淀世に生きる一般人も守るべきだと考える。カダは、ユヅカの目的も大事だけど、冷静になるのが必要だと考えた。合っているか?」

「……ああ、合っている」

 ユヅカは黙ってお茶をすする。カダの話も、ナナキの話も理解できるが、心は一度覚えた焦りを忘れない。

「……自分たち狩人は、堕牛を、堕人を討つことを……目標としている。だが……それは、淀世と澄世に暮らす人々を守るという行為に……直結するものだ」

「それなら、早く堕人を探して討てば……それか、私がまた弓を持てば……」

 反対する声が上がった。カダだ。

「カダは、やめた方がいいと思う。弓矢は淀人にとって、恐怖の象徴だ。淀人としてこれからも生きていくのだから、みなに異端の目で見られてしまったら、一人ぼっちだ。カダは、わざわざここの人たちの生活を見たあとにその選択をするのは、間違いだと断言する」

 厳しく非難され、ユヅカはうつむいたまま黙り込んだ。カダは続ける。

「カダは、ナナキの二の舞を作るのはごめんだ。カダは、ユヅカに過去を捨てて、夢を捨てて終わりのない苦しみに身を置くことはやめてほしい」

「ふむ……自分に、流れ矢が当たったか。ハッハッハッ……」

 思わぬ打撃を受けたナナキは湯呑を置き、言った。

「淀人は、己が満足しない限り生き続ける……気が遠くなるほどに。やりたいことをやり終えて、終わりの見えない贖罪のため……自分はただただ、この長い命を無駄にしている」

「たしかに、カダは君の本来の口調を思い出せないくらいには長く過ごしているな!」

「……お主も、よく自分と一緒にいれるな。あまり楽しくは、ないだろうに……」

 話が落ち着いた時、遠くの方で轟音が鳴り響いた。人々は悲鳴を上げ、何事かと騒ぐ。衝撃の余波か、家屋がビリビリと振動する。賑わいは一瞬で恐怖のどよめきに変わった。

 先に反応したのはカダだ。

「カダは、これは祭りの知らせではないと思う」

「じゃあいったい何が……!」

「自分が様子を見てくる。二人はここで待機だ」

 直刀の下げ緒をすばやく結び直し、ナナキは茶屋を飛び出した。

 彼に倣い、腰に剣の下げ緒を結んだユヅカはカダを見る。一切動揺せず、ゆったりと普段どおりにニコニコしている様は、見ているこちらを安心させる。しかし、彼女は武器の類を持っていない。自身の未熟な剣技で守れるだろうか、と心配するユヅカに、カダは言った。

「安心してほしい。カダは最終兵器だ。カダは、自分の身だけ心配しろと、君に言いたい」

「最終兵器でも、子供は守らなきゃ!」

「カダは、その気持ちを嬉しく思う。だけど張り切りすぎるな。カダも、いつか自分が活躍できる日が来ると信じている」

 ユヅカの困惑をよそに、カダは組んだ両手に顎を乗せ、ニコニコしていた。

 落ち着かず、ソワソワと外の様子をうかがっていると、ナナキが戻ってきた。走ってきた勢いのまま、茶屋の主人に銭を渡すものだから、主人は少々驚いていた。体を翻し、ナナキは二人のそばに寄る。

「どうだったの?」

「銭は払った。外へ出るぞ」

 こちらは普段のゆったりとした姿はなく、足早に茶屋を出る。ユヅカとカダも彼に続く。東の集落の端で、ようやくナナキは状況を話し始めた。

「南の集落で、牛を堕とすことに成功したらしい」

「それって……!」

「カダは、みなが思っていることを言おう。聖なる生き物である牛を、堕牛にする術が産み出されてしまったということだ」

 ユヅカは息を飲んだ。いとも簡単に村一つを滅ぼせる存在が解き放たれたら、淀世はおろか澄世も危うい。

「カダ、お主は館へ戻ってミハイを呼んでくれ。奴のことだから、すでに向かっているかもしれんがな。ついでに、リオクの指示を仰いできてくれ……あまり、役には立たないと思うが」

「リオクは指揮官でしょ?」

「臆病者の指示は必要ない。せいぜいミハイに殴られることくらいだろう……ユヅカ、お主は自分についてこい」

 鋭い藍の目がユヅカを射抜く。

「戦えないとは言わせん。怖いとも言わせん。お主が淀人になり、戦うと決心した瞬間から、戦に出ないという選択肢は消え失せた。戦の中で成長しろ」

 低く、厳しい声音でユヅカを激励する。言われずとも、すでにユヅカには戦うという選択肢しかなかった。ナナキの言葉が背中を押す!

 ナナキの目を見つめる。それだけで、十分だ。彼はしっかりとうなずいてくれた。

「では行くぞ。己の責務を全うしろ」

 その言葉を合図に、三人は動き出した。カダは中央へ、ユヅカとナナキは南へ向かってそれぞれ駆け出す。

 二人が走った先は川だ。橋もないというのにどうするのかと問う前に、ナナキが川へ飛び出した。そのまま深みへ走っていく。

 困惑して足踏みするユヅカに、珍しく声を張って教えてくれた。

「そのまま来い! 水を飲んで、エラから出すんだ! それで水中でも呼吸ができる!」

 やはり、魚ではないか。そう思いながら首筋に触れる。エラは呼吸と共に動いていた。

 天蓋を泳ぐ魚を見上げる。弓矢の部族は、国で一番の視力を持つ。その天性の目で魚をすばやく観察し、そして川へ飛び出した。あっという間に深みへ到達し、水中に沈む。

 数秒、息を止めていたが、口から水を吸い込んだ。そして必死に自力でエラを動かし、吸い込んだ水を排出する。本当に、水中で呼吸ができた。目を開ければ、前方にナナキが見えた。どうやら川底を蹴って移動しているようだ。

 真似してみるが、慣れない水中ではうまく進めない。モタモタしすぎて岸に着いた時には、すでにナナキの姿は見当たらなかった。

川から上がり、剣を抜く。意外にも、家屋はしっかりとした石造りで、丈夫そうだ。中央や東よりも、南は技術が進んでいるように思えた。

 住民に見つからないように、慎重に物陰に隠れながら進んでいく。足音を立てないように奥へ歩いていくと、堕牛が見えた。顔を地面に向け、腕を乱雑に振るって土を削っている。きっと、あそこにナナキがいるのだろう。

 そこへ向かおうとした瞬間、身を隠していた家屋がはじけた。木片や砕けた石がぶつかる。反射的に顔の前に上げた腕を下ろし、何事か見れば、目の前に堕牛が二足で立っていた。無事だった家屋の下部分には人が膝立ちし、堕牛を囲んで歓声を上げていた。

「ついに俺たちも堕牛を産み出せたぞぉ!」

「ミリョウ様のお役に立てたわ!」

「澄人の血を使うのは考えつかなかった……あの方が連れていた子供は役に立つ」

 堕牛を産み出し、喜ぶ人々にユヅカは怒りを覚えた。激しく、腹の底が煮えくり返る。

 気づけば、ユヅカは人々の中に割って入り、一人を斬りつけていた。突然の乱入者に、喜びの声を上げていた人々はどよめく。彼らは全員、顔を黒布で隠していた。

 初めて人を斬った。関係ない。村を滅ぼした連中を許せるほど、日数は経っていない。

「だっ、堕牛様! 奴を……ギャッ!」

 血塗れの剣を握りしめ、黒布たちを睨みつける。

「堕牛を討つ前に……まずはお前たちだッ!」

 堕牛の股下を通り抜け、黒布たちへ肉薄する。ためらいはない。村の仇、両親の仇、そして妹への手がかり。逃すわけにはいかない。

 シャンッ、と鈴の音が聞こえた。瞬間、ユヅカの視界が反転し、息が詰まる。視線の先には崩れた石壁と空いた穴、そして堕牛がこちらを睨みつけていた。祈るように手を合わせている人の腕が集まってできたその巨体は、相変わらず気味が悪い。

 ぶっ飛ばされたと認識するのに、数秒必要だった。起き上がるために体を起こせば、痛みが走る。弓矢で仕留め損なった獣に、体当たりされた時のような痛みだ。それに耐え、鈴の音がした場所を見れば、着物を黒く染め、金の刺繍で目をあしらった黒布が立っていた。堂々とした姿は、威厳を放っている。

 気圧されそうになるが、ユヅカの心に焼き付いた滅んだ村の光景と、妹の存在が闘争心に火を点けた。きっと、あいつが何か手がかりを握っている。

「こんな怪物産み出して、いったい何がしたいの?」

 声を抑えて静かに問いかける。鈴持ちは口を閉ざしたまま、ユヅカを見つめている。答えるつもりはないようだ。

 シャンッ、と鈴が振られる。堕牛が反応し、大口を開いて咆哮を上げ、ユヅカへ向かって駆け出した。


 ●


 ナナキが堕牛のもとへ向かう途中、屋根から隣へ降りてきた人物がいた。一般を逸脱した速度で走るナナキと共に走ることができるのは、淀世では同じ狩人のみ。

「ミハイか……フッ、さすが淀世一の狩人だ」

「堕牛は堕人にしか産み出せないはず……なら、手がかりがあるかもしれない。好機を逃すことはできないわ。それで、状況は?」

 彼女のことだ、異変が起きた瞬間に中央を飛び出してきたに違いない。きっと、リオクの指示は聞いていないだろう。並走しながら二人は確認し合った。

「この集落で堕牛が産み出された。手段は不明だが、産み出せたなら、その術を知る者を堕人でなくとも狩らなければならない……できるな?」

「当然。適当な連中は斬って、重要そうな奴を捕まえて情報吐かせてやるわ」

 開けた場所に出る。その中央にいるのは、堕牛だ。それを囲うように、顔を黒い布で隠した集団がいた。二人に気づいた数人が声を上げた。

 一気に注目を受け、ミハイは獰猛に歯を見せて笑った。そして、緑の剣を抜き放つ。

「覚悟しなさい、阿呆共。一人残さず……皆殺しよ!」

「一人は残せ……」

 ナナキに指摘されるが、無視する。二人の目は一切笑っていない。ギラギラと殺意のこもった目はひたすら冷たい。ただ、強い敵意だけがあった。

 ミハイは地面を蹴って集団へ肉薄する。緑の剣一振りでの戦いは、赤の剣を渡したあとにあった堕牛退治ですでに慣れた。

 一人の黒布が槍を持って前に出てミハイを止めようとする。突きを剣でいなし、一閃で斬り伏せ、倒れる黒布を踏み台にして宙を跳んだ。一気に中心へ出たミハイを殺そうと、黒布たちが突撃してくる。しかし、素人同然だ。何百年、戦い続けてきたミハイには通用しない。

 両手で柄を握りしめ、すばやい剣技で的確に致命傷を与えていく。半分以上始末した時、シャンッ、と鈴の音が響いた。

「避けろミハイッ!」

 ナナキの声を聞き、前方へ転がった。すると、先ほどまでいた地面が深く抉れた。顔を上げれば堕牛の体を駆け上がり、その片目を直刀で突き刺すナナキの姿があった。どうやら、堕牛が動いたらしい。

「堕鈴か……! ほんっとに、余計な物ばかり作るわねッ!」

 堕鈴。それは、堕牛を操るための呪具だ。これでただの人も、堕牛を操れる。

「前に来た時にはなかった物がある……ってことね。ようやく進展が…………ナナキッ! 堕牛の相手は任せたわよッ!」

「……止めても止まらないのがお主だ」

 ナナキにため息交じりに言われたが、それを了承したと解釈し、ミハイは完全に鈴持ちへ狙いを定めた。

 粗末な剣や槍でせまってくる黒布を斬り伏せ、斬り伏せ、斬り伏せる。緑の剣がミハイの闘争心に共鳴し、淡く輝く。

「うううゥゥゥゥらあああああァァァァァァッ!」

 雄叫びを上げ、鈴持ちに肉薄する。鈴持ちは、鮫のようにせまるミハイに怖気づくこともなく堂々と立ち、ふところから数珠を取り出し、せまる刃と自身の前に突き出した。

 不快な金属音が響く。緑の剣が数珠によって受け止められたのだ。ミハイは焦らず、観察する。よく見れば、剣と数珠の間に小さな泡の群れが張られている。どうやら術師のようだ。

「へえ……久しぶりに術師を見たわ。こっちは今じゃ、全部金属の武器に置き換えられちゃっててね。どんなふうに覚えたのか、吐いてもらわないと」

「我らの悲願……ようやく産み出せた堕牛様を討たせはせんぞ!」

 老いた男の声だ。年上か、年下か、考えているとシャンッ、と鈴が鳴らされる。堕牛の咆哮が轟いたあと、ミハイは体の左側に衝撃を受けた。焦ったナナキの声が聞こえた。

 地面を転がったミハイは受け身を取り、鈴持ちから目を逸らさず、視界の端で動く堕牛を見る。太い尾がうねっている。どうやら、あれに打たれたらしい。

「ナナキッ! 邪魔させないでくれるッ!」

「完全ではない堕牛だ。鈴の音で動くようにしか、できなかったんだろう」

「そういうことじゃなくて……まあいいわ。ったく、土の味……たまらないわね」

 舌なめずりし、ナナキを見ずに声をかけた。

「ナナキぃ! あんたがその出来損ないを仕留めるか、あたしが鈴持ちを仕留めるか、どっちが先か勝負よ!」

「戦狂いめ……」

 呆れたナナキの声は、すでに聞こえていなかった。ミハイの思考は完全に戦闘へ向けられていた。

その時、別の場所から堕牛の咆哮が上がる。ナナキは川の手前に現れた堕牛に目をやった。そしてやっと、この場にユヅカがいないことに気づいた。

「死ぬなよ、ユヅカ……お主が死んだら、弓矢の部族は終わりだ……」

 ――捨てた過去の断片が現れ、消えるか……。

 ナナキは自嘲するように笑う。

「……それは嫌だと思うのは、自分のわがままか」


 ●


 血混じりの痰を吐き捨てる。召喚者は、鈴持ち以外全員斬った。何度、堕牛の攻撃を食らっただろう。体中が痛く、立っているのがやっとだった。それでも、ユヅカは倒れる訳にはいなかった。

 妹の手がかりがすぐそこにあるのだ。剣を握る手には、力が入ったまま。絶対に離さない。

 とはいえ、今のユヅカの剣技では堕牛に傷を与えられない。ミハイと違い、あまりにも非力だった。体勢を整えている間も、鈴は鳴らされる。どうやら、南の集落の人々は人殺しにためらいが一切ないらしい。

 堕牛が四足で角を突き出し、すべての足で地面を力強く蹴ってユヅカにせまる。避ける余力はない。ユヅカは額から目元に流れる血を袖で拭い、剣の切っ先を堕牛に向け、足を大きく開いて低く構えた。

「馬鹿なことを……」

 鈴持ちが笑う。勝利を確信したのだろう。

 一人と一匹が激突する。鈴持ちは身を乗り出し、ユヅカの存在を確認した。ぶっ飛ばされる人の姿は宙にない。その代わり、堕牛が悲鳴じみた声を上げ、のけぞるように立ち上がった。

 天蓋に向かって声を上げ続ける堕牛の目には、赤の剣が突き刺さっている。それを握りしめて重力に耐えるユヅカの姿もそこにあった。

 堕牛の左目から噴出する黒い霧とユヅカの吐いた血が混じり合う。剣は深く刺さり、堕牛の肉は鍔までせまっていた。

「なんだとっ?」

 意外にも鈴持ちは若い男の声をしていた。声がひっくり返り、動揺がうかがえる。ようやく得た手応えに、ユヅカは肉食獣のように歯をむき出して笑った。喜びが沸き、体中に力が駆け巡った。

 下半身の力を使い、剣を引き抜く。返り血か、ユヅカは黒に染まった。目だけが煌々と輝いている。剣の刀身もユヅカに応えるように淡く輝いた。それを見て、微笑む。

「一緒にこいつを倒してくれるの? 相棒……!」

 返答はない。しかし、剣は輝きを放ち続ける。ユヅカは漠然と、赤の剣の所有者が自分になったことを感じた。

 堕牛が頭を振り、ユヅカは地面に落とされる。先ほどまではできなかった受け身を取り、しっかりとした体勢で着地し、体の前で剣を構えた。

 今こそ、反撃の時だ。

「堕牛様ぁッ! 奴を殺してくださいッ!」

 激しく鈴が鳴らされ、堕牛は残った右目でユヅカを睨みつける。自身が操っている存在にお願いをするなんて、滑稽だ。何も怖くない。赤の剣となら、なんでも成せる気がした。

 刃状に変化した腕を振り下ろしてくる堕牛へ肉薄する。背後に拳が着弾、衝撃に合わせ、地面を蹴って前方へ跳躍する。そして、気合いと共に勢いの乗った斬撃を繰り出した。

 手に伝わるのは、確かに肉を断った感触。振り返りざまにもう一撃食らわせた。すばやく攻撃した箇所を見れば、傷跡がしっかりと刻まれている。

「はあああぁぁぁぁッ!」

 気合いと共に剣を振り続けると、堕牛は自重に耐え切れなくなったのか、崩れ落ちた。

 とどめを刺せる。確信したユヅカはミハイがやっていたように、剣に光を集め、巨大な刃――炫耀刃を形成しようと試みた。

 切っ先を天蓋へ向ける。やったことはないが、赤の剣は応えてくれた。

光が刀身に集まり始める。

「まずいッ」

 鈴持ちがふところから数珠を取り出す。そして、ユヅカと堕牛の間に割って入った。

「どいて。あなたは……手がかりとして、館に連行する」

「……ッ! 我が命に代えても、止めるッ!」

 炫耀刃が形成される。ユヅカは堕牛目掛けて、鈴持ちの脇を通り過ぎる。剣を首に振り下ろした。しかし、それは鈴持ちの数珠に拒まれる。

「邪魔ッ!」

 刃と数珠の間には、無数の泡が集まっていた。これを破かなければ、堕牛に届かない。

 イラ立ってくる。無知さに、堕牛に、鈴持ちに、自分の非力さに!

 鈴持ちの数珠を、イラ立ちを力に変えて押し返す。鈴持ちが耐えるが、後退していく。手加減の仕方は、残念ながら誰からも教わっていない。

 拮抗していると、鈴持ちが何やらブツブツと口の中で呟き始めた。何事かと思っていると、鈴持ちが唐突に声を張り上げた。

「破ぁッ!」

 瞬間、泡が膨れ上がり、光の刃は失われ、ユヅカははじき飛ばされる。咄嗟に剣を突き立てて後方に下がるのを阻止した。すると、地面から純黒のうねりが剣に纏わりつくのが見えた。慌てて引き抜き、刀身を見る。何も変化はない。

 気のせいだったのかと刀身を見つめていると、鈴持ちが声をかけてきた。

「狩人にしては、練度が甘い……さては、新入り……元澄人か?」

「こっちの問いに答えたら、教えてあげる……ここに、幼い澄人はいる?」

「さあな。俺は術師だ、外の状況など知らない」

「分かった。あとで、答えさせてやる」

 鈴が鳴る。堕牛の腕を避け、鈴持ちに再び肉薄した。通りすがりに堕牛を斬りつけ、振り上げた剣を鈴持ちに叩きつける。数珠で防がれる。

 もっと力を。もっと力を。もっと力を。奥歯が砕けそうになるほど歯を食いしばる。術師が再び、口の中で呟き始めた。先ほどの衝撃波を防ぐため、ユヅカはほとんど反射的に前蹴りを繰り出した。鈴持ちは尻もちをつくように倒れ、手から鈴が飛んでいく。好機を逃さないために、咄嗟に馬乗りになり、左の拳を鼻があると思われる部位へ思いきり叩きつけた。

 骨が砕ける感触が伝わる。気味が悪いよりも先に、手応えへの快楽が駆け巡る。そのまま鈴持ちは気絶したのか、体から力が抜けた。これでようやく、邪魔が入らず堕牛を討てる。

 鈴の制御を失った堕牛は動かなくなった。今なら、首を落とせる。

 重い体を引きずり、堕牛の首の横に立ち、剣の切っ先を天蓋へ向けた。光が集まり、再び炫耀刃が形成された。

「必殺の炫耀刃……これで、終わりッ!」

 両手で柄を握り、一気に振り下ろす。村が滅んだあの日のミハイのように、ユヅカは堕牛の首を落とすことができた。


 ○


 淀世は意外にも綺麗な場所だった。川の向こうにも建物が見えるが、霧が発生しているのかよく見えない。あちらにも人が住んでいるのだろうか。気になったが、堕人にあちらへ行かないように釘を刺されてしまった。そもそも、渡るための橋や舟は見当たらない。

 南の集落と呼ばれたこの地域で、ヤシナは堕人によって腕を切られ、血を採取された。堕人はその地を黒い布で顔を隠した人々に差し出した。人々は、堕人様から渡された血を喜んで受け取り、大きな家屋へ入っていく。

 最後に残った黒布が堕人に話しかけた。

「ミリョウ様! 我々はこれを使い、必ずや堕牛様を産み出してみせます!」

「あー、好きにしてくれ。俺たちは川にでもいるよ」

 うっとうしいと言いたげに会話を切り上げ、堕人は少し離れた所で手当てを受けているヤシナのもとへやってくる。川への道を歩きながら、ヤシナは言った。

「名前、ミリョウさんって言うんだね」

「堕人さんで十分なんだけど、奴ら、名前を教えろとうるさくてね」

「……堕牛を産み出させて、何をするの?」

 堕人――ミリョウは黙る。返事はないと諦めていると、不意に答えが返ってきた。

「堕牛を産み出すこと自体は、どうでもいいんだ。さっきの連中は俺が洗脳したけど、それは利用するためだし」

 川へ着き、ミリョウは向こう岸を見つめる。その顔は牛のお面に隠れて見えないが、寂しそうだとヤシナは思った。

「俺には、会いたい人がいる。堕牛を狩る姿は見るけど、会いにいけない……会いたいけど、俺の目的を邪魔するだろうから」

 きっと、向こう岸にいるのだろう。ここを拠点にしているのは、会いたい人を近くに感じるためなのだと理解できた。

 ヤシナにも、会いたい姉がいる。その気持ちは、痛いほど理解できる。しかし、姉も二人の邪魔をしてくるかもしれない。そうなったら、自分は抵抗できるだろうか。

「俺が、祈らないと……祈り続けないと……邪魔をするなら、姉さんを殺すことだって……」

「私は……」

 ミリョウたちの境遇は、知っている。それを思うと、言葉にはできなかった。

 ――ユヅ姉の、味方でいたい。

 もし、川の向こうにいるなら、姉の知らないことを教えて、味方になってもらおう。ヤシナは、小さな拳を強く握りしめた。

 姉なら理解してくれるはずだと信じている。人殺しに加担している状況だが、話せばわかってくれると、ヤシナは希望を失わなかった。

「おい、子供」

 冷静な声に呼ばれる。

「君は、君の姉さんと意見が合わなかったら……殺せるか? 俺は、殺したくなんかない」

「……私は、話し合いを諦めないよ。堕人さんも殺し合う前に話し合ってみたらどう?」

「話し合いか……」

 ミリョウは黙り込む。考えたあと、言った。

「俺たちは、話し合ってこなかったな」

 悲しげに言うミリョウの姿は、痛々しかった。ヤシナは分からなくなる。自分は淀世の存在を知っていた。ユヅカは、知らないはずだ。

 父から聞いた話は一子相伝。末子だけが聞くだ。ユヅカにはユヅカなりの正しさがあり、ヤシナやミリョウにも正しさはあるのだ。

 最悪の状況を想像し、泣きたくなる。しかし、もう泣いてはいられない状況に置かれてしまった。それが悲しくて、どうしようもなかった。

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