百貨店人の誉れ〜店が、街を、時代をデザインした〜

@mayuko123

第1話 学校跡開発プロジェクト〜東大卒の百貨店人〜

本作はフィクションです。登場する企業・団体・人物は実在のものと関係ありません。ただし、百貨店業界の風景や慣習については取材に基づく描写を含みます。


――一九八〇年代の終わり。

街はまだ、バブルの熱に浮かされ、昼も夜も光と音に包まれていた。


銀座の通りにはブランドの紙袋を抱えた女性たちがあふれ、舗道の石畳にはヒールの音がリズミカルに響く。

ウィンドウには最新のファッションや宝飾が煌めき、ガラス越しに見える店内の照明はまるで宝石箱の中にいるかのようだ。

行き交う人々の笑い声や、通り沿いのカフェの香ばしいコーヒーの匂い、デパ地下から漏れる甘いスイーツの香りが混ざり、都市そのものが祝祭のように輝いている。


郊外では、巨大なショッピングセンターが次々と姿を現し、車道を埋め尽くす車列の窓には、買い物に夢中な家族の笑顔が映る。

その熱狂の中で、百貨店の存在感は、まさに絶頂期を迎えていた。日本経済が最も眩く輝いたその時代、流通業界の王者は、やはり百貨店だった。


だが繁栄の陰で、静かな翳りが忍び寄っていた。

消費の形が少しずつ変わり、人々の価値観が多様化していくなかで、「百貨店」という言葉は、もはや新鮮さを失い、古びたものとして囁かれ始めていた。

老舗の看板の下には、変化に対応できない危うさが微かに漂っていた。煌びやかなショーウィンドウの裏には、棚卸しに追われる社員の疲れた顔があり、売上ノルマのプレッシャーに押しつぶされそうな空気が、静かに流れていた。


そんな時代にあって、大阪の老舗――タケマツヤ百貨店は、新たな挑戦を始めようとしていた。

本社の片隅に設けられた「事業開発部」。

伝統の看板を背負いながらも、時代の波を読み切るための小さな改革チームだった。そこでは、営業計画書の山が机を埋め、壁には赤いマーカーで書かれた新規プロジェクトの進行表が貼られている。

小さな会議室には常に緊張感が漂い、若手社員たちの目は期待と不安で光っていた。紙の束の端が床に散乱し、蛍光灯の白い光が書類に反射するたびに、部屋全体がまるで緊張の渦に包まれているようだった。


大阪・ミナミ。

ネオンと音楽が交錯する繁華街〈ニューヨーク村〉。

夜ごと若者たちが最新のファッションを競い合い、歩道にはカラフルなファッション雑誌を手にした学生やOLがあふれる。

ジャズやファンクのリズムが路地の隅々にまで浸透し、屋台の焼きそばやたこ焼きの香ばしい匂いが風に乗って漂っていた。

小さなライブハウスから漏れる歌声や、通り沿いのカフェで談笑する人々の笑い声が混ざり合い、この街は生き物のように躍動していた。

“関西の渋谷”と呼ばれるこの街は、深夜まで消えることのない灯りが若者たちを照らし、都市文化を生み出し続けていた。


その街の中心に、かつて高校の校舎があった遊休地に、再開発計画が持ち上がった。


四千平方メートルを超える敷地に、地下四階・地上七階の複合商業ビルを建てるという――まさに時代の象徴とも言えるプロジェクトだ。

タケマツヤはここに、「大阪を代表する文化発信型の新業態」を創ろうとしていた。

流行と情報、感性を掛け合わせた“都市の顔”を立ち上げる――流通の主役である百貨店の存在感を示す、未来への大きな賭けでもあった。


春の人事異動で、その部署に配属されたばかりの若手社員、武一武<タケイチ タケシ>は、まだその賭けの意味を理解していなかった。

愛嬌のある二重で大きな瞳には、同時に反発心が秘められており、上司に問いかけるような眼差しを向けていた。


「――なぜ西村部長は、東大まで出て、よりによって百貨店なんかに就職したんでしょう?」


大阪・難波の裏通り。煙草の煙が漂う喫茶店の奥、木のテーブルには輪染みがいくつも残り、壁掛け時計は数分遅れている。

昭和の終わりの空気が、静かに店内に沈んでいた。

ガラス越しに見える通りには、雨に濡れたネオンが反射し、行き交う人々の影がゆらりと揺れる。


臼井課長は苦いコーヒーを一口含み、ゆっくりと笑った。

「店舗開発部に配属されて、最初の疑問がそれか。

よりによって、か……まぁ、言いたいことは分かるけどな」


その笑いの奥には、すでに“次の時代”を見据える百貨店人の気配があった。

百貨店という舞台に刻まれた矜持、希望、やりがい――それらは、静かに、しかし確実に、動き始めようとしていた。


「西村部長が入社したんは昭和四十年代――高度成長の終わりやな。“就職氷河期”いう言葉が出だしたんも、あのあたりやったかもしれん」


この店特有の苦いコーヒーを舌に残しながら、武一は思わずつぶやいた。

「部長は、いつもラジオの株式情報を聴いてるばかりですよ。総務の女性たちも“あの人、仕事してるの?”って笑ってました」


臼井課長はふっと煙を吐き出し、武一の顔の前で広がる。

「お前さんな、西村五郎さんを甘く見るなよ」


指先で灰皿をトントンと叩くその動作にも、無言の説得力があった。

「本人いわく、東大時代は講義よりも麻雀やったらしい。

大学の授業料をかけ麻雀で払ってたとか。プロ雀士相手に勝ってたほど、筋の読みが冴えてたという話や」


武一は瞬きした。

「……麻雀、ですか?」


「そうや。麻雀は単なる運やない。情報の読み合いや。見えない相手の思考を読む力、場の空気を支配する胆力――あの人は、それが群を抜いとる。つまり、“商売人”やのうて“策士”や」


スピーカーから流れるサザンのメロディが、店内に柔らかく響き渡る。

武一の頭の中に、玉突き場へ臼井課長と行った時の、彼の冷静さや、勝負勘の鋭さが重なり合った。

白井課長も策士ということか。


「さあ、モーニングももう終わりや。そろそろ行こか」

臼井課長がゆっくりと立ち上がる。くたびれた革張りのソファがギシリと鳴った。

「さあ、時間や。ミナミの“ニューヨーク村”にある合同ブルジェクト室に行こか」

「はい……初めての参加なので、正直ちょっと緊張しますね」

「そらそうやろな。でも心配せんでええ。君は、百貨店に入ったことをちょっと後悔してるみたいやけど――せやけど、安心しとき。

景気は確実に上向きや。消費者の財布もようやく開き始めとるし、動き出すのはこれからや」


臼井課長は胸を張り、背筋を伸ばし、ひときわ大きな声を店内に響かせた。

「これからの百貨店の時代が、もう一度、しっかりと来るんや! わしらの手で、また新しい百貨店の歴史を作るんやで!」


その言葉に、武一は口を閉ざした。

課長の瞳に映るのは、バブル経済の光と、商都・大阪の熱気。

通りのネオンが雨に濡れて揺れ、時折通り抜ける風が店内の煙を巻き上げる。

街全体が未来への予兆をささやくように、かすかにざわめいていた。


小さな一歩一歩が、やがて街を、都市文化を動かす力になる――そんな確かな予感が、そこにはあった。


臼井課長が傘を手に取り、にっこり笑う。

「傘、忘れたらあかんで」








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