事の発端
壱
大日本皇国には二つの都が置かれております。その一つが
この地では古来の神々による政治の中心、
統智の時代を担った神の
華族と称される神の方々に皇から振る舞いを頂きまして、古くは国の成り立ちよりおられるお方から新しくは生まれて七つの元旦を数えたお方まで須らく、新年のご挨拶を交わす場を設けてくださったのです。
例年に比べれば華やかさに欠けるものではありますし、何より皇のご参上が御座いませんが、平民から見れば何とも豪勢な新年な宴がこうして開かれている訳です。
ここにご参集の方々は皆々様、神としての御業を
座敷一つを雪景色に変える黒留袖の淑女がおられたかと思えば、庭に
そして何より大切なこととして、神々は挨拶の歌を詠み交わされましてお互いの神威を重ねて神格をより盤石なものへとお堅めなされています。
そんな光景を見るでもなく視線を滑らせながら黒い膳を突いたり、これまた黒い杯をくいっと呷ったりする神々の、ささやかな笑い声が木霊する座敷より外れた、続きの間でありながら衝立障子を立てて隠された休憩場所にひっそりと、一人の女性が大きな欠伸で惜しげもなく可愛らしい八重歯を曝していらっしゃいます。
こちらには宴の様子は微かにしか届かず、振る舞いも持ち込めませんので、開会してすぐに引っ込んでしまって一度も自分の席に戻ろうとしない彼女は、ちっともこの場の楽しみを享受なさっておられないのです。
欠伸の拍子に眦に
けれど宴に興じる殆どのお方は彼女の姿が一度も座敷で見受けられないというのに気付いてもおられず、気付いた者もさもありなんとばかりにそのままにされていらっしゃるのです。
そんな鼻抓み者の彼女は歌詠みの名家として九百年の歴史を重ねる
家柄からしても求婚を申し出る殿方も多くある立場でもあり、また二十三という年齢で言えば周囲から結婚を急かされるような行き遅れでもあるのですが、本人はこのようにのんびりと人付き合いを避けているのは、なんとも嘆かわしいことです。
「もう暫くもしたら、誰も彼も酔い潰れて帰っても気付かれなくなるかしら」
くぁう、とまたも欠伸で喉の奥まで曝しつつ、椛子はこの場から抜け出す機会を伺っている始末です。
結婚を一度くらいはしていてもおかしくない年頃なのにこんなにもやる気のない椛子の所へ足を運ぶお方なんて誰もいないとも思われたのですが、すっと衝立を越えてやって来られた方がいらっしゃいました。
その方の振袖に
具体的には伃葦家を千二百年前に分家として輩出した本流である
繋子様は椛子の旋毛を見られまして柔らかく微笑み、椛子が正座した膝と向い合せにご自身の膝を降ろされました。
「椛子さん、このようなところにいらしたのですね。探してしまいました」
「そんな、わたくしのような者を探してくださっただなんて畏れ多いことです……」
華族何する者ぞとばかりに新年の宴にそっぽを向いていた椛子でありますが、普段から目をかけてくださる繋子様には自然と敬意を払えるのです。
そうでなくても家同士に直接の上下がある関係ですので、繋子様にはご迷惑をお掛けできないと椛子は柄にもなく肩を強張らせています。
「伃葦家のご令嬢とも口を利けなかったらわたくしはどなたとお喋りを楽しめばいいのでしょう?」
繋子様はくすくすと笑われる口許を振袖で隠されていらっしゃいます。
それから椛子の肩に手を置かれまして顔を上げるように求められました。
そこまでされてなお椛子は顔を伏せたまま、ちらと流し目で繋子様の後ろに控える側仕えの女房を覗います。繋子様にはそのように仰せになられても、お家のご両親へのご報告の勤めも担われているであろう彼女がどのように申し上げるか、椛子としては気儘に話して迂闊に口を滑らせるにもいかなく思えるのです。
けれどもそこは女学生と齢を並べても正四位の繋子様でございますから、そのような椛子の思惑もお見通しになられます。
「
「はぁ……」
そうは言われてもと生返事するのですが、それを承知の上でわざと取り違えられまして、繋子様は椛子の頬に手を添えて顔を正面に上げさせてしまうのです。
そこからは可憐な見た目に反して押しの強い繋子様ですので、謙遜したがる椛子にあれこれと言葉を投げかけてはお喋りを引き出しなさります。
そうして話しておられたのは十五分も経ってはおられませんでしたが、繋子様程に目立つお方が衝立の裏に身を潜められていては目端の利く者なら気付くというものです。
「おやまぁ、どうにもお姿が見られないと思いましたら、こんな処でお休みでしたか、
華族相手でも付き合いの悪くて世間を知らない椛子は、誰、この不躾な野郎、と眉を顰めましたが、皇より賜りました
「これは
繋子様が如才なく挨拶を送るという体裁を取って並べてくださった情報を聞き取って、椛子にも目の前の若造などんな身の上なのか理解出来ました。
人付き合いにも権力の繋がりにも疎い椛子ではありますが、
地方で国司を代々務める家系の跡継ぎにして、蛇を駆除することに長けた、けれどもまだ中央華族には実力を認められていないくらいの、そんなお上りさんと椛子は頭の中で素早く書き留めて、そうして一拍の後でどうでもいい輩だと判じてぽいっと脳内から余計な情報を放り捨てました。だいたい若山県とか府県の整理が付いた今は京都と同じ近畿地方に括られるのです。それより遠く、例えばかつては
椛子はそう思い至って、軟弱者、と改めて目の前で踏ん反り返っている男に走り書きを張り付けておきました。
「比女様におかれましては、賑やかな席が苦手と噂に名高い伃葦家のおひいさまのお相手をなされていたのですね。お優しいことです」
「え、なんでこいつ、わたしのこと知ってんの。気色悪」
椛子はこのように思ったことがぽろっと口から出ていく素直な性格をしておりまして、目の前の青年貴族は言うに及ばず、繋子様とお付きの女房からも揃って窘めの視線を寄越されました。
今更顔を背けて知らんぷりをしても、はっきりとした声しか出せない椛子の言葉はしっかりと彼の耳にも余すことなく伝わってしまっています。
にこやかに、けれども
「貴女が思う以上に、貴族の間には強い繋がりがあるのだよ。まぁ、家に引き籠って突き返された歌を整理しているような女性には分からないかもしれないが」
うわ、と声に出るのをギリギリで留めたのを椛子は褒めてほしいと思ってしまいました。
女性の歌で成り上がるのが男の立場であるこの国で、西洋被れの男性上位思想を滲ませる節操なしなど、椛子にとってはお風呂に出てきた
まぁでも、椛子が年頃になったばかりの時分、まだ親の顔を立ててやろうかという意欲が損なわれてなかった間だけ、友達を真似て独身の殿方に短歌を認めた文を送っていたものを、それがどれもこれも『意味が分からない』と判を押したように同じ言葉を添えられて突き返されたのも事実です。
たったの十一通で筆を放り投げたというのに、それが若山くんだりまで噂になっていようとは椛子は今日まで思ってもみませんでした。これまで神の宴が開かれても大小変わりなく、面倒臭いと招待状を屑籠に放った椛子は、自分がいない席で失笑と共に話題になっていたなどとは知らないのです。
なんだかもう相手するのも鬱陶しいといつもの考えに至りまして、椛子はだらしなく背中を壁に預けて、自分は放っておいてくださいと態度だけで示します。
その様子には繋子様も呆れ顔を浮かべられて弁護のしようもなさそうです。
そしてこの場でムッとしたのが女子のお喋りを中断させたお邪魔虫の方でした。こんな華族の間で貶されるような女に馬鹿にされた態度を取られたままでは沽券に関わるとでも思っているのでしょうか、この男は形ばかりは友好的な笑みを顔に張り付けて椛子に手を差し出すのです。
「そのように不貞腐れるのも勿体ない。せっかく皇が振る舞いを下さっているのだ。なに、思う存分舌鼓を打って、一つばかり僕に短歌を寄越したまえ。それだけでお家の体面も保てるだろうさ」
「なんでわたしが良く知りもしないあんた如きに歌送らなきゃいけないのよ。ばっかじゃないの?」
本当に歯に衣着せぬつもりのない椛子に、繋子様も思わず手が出てしまわれまして、ぺちんと頭を叩いてしまいました。
それで椛子は大袈裟に痛がって頭を抱えるのです。
「
「……え、そうなの? でもわたし、五歳の時にはもう
華族というのは子供の頃から同世代の繋がりを重視するものです。
議会には参じた親が連れてきた子供を預ける庭がきちんと用意されていまして、椛子だって父親が雪国の国司に任じられる前にはそこで近い年の子供達と接していたはずなのです。
ところで、その頃から椛子は他の子と追い駆けっこやら
そんなふうに無関係を主張する椛子の態度に、若山の青年はやれやれと首を振って、せめて鷹揚に振る舞い自分の懐を広く見せかけようとしています。
「名和崎彦様の言われることももっともではあります。陛下の振る舞いを一口も喉を通さないのも、この場で歌を一つも詠まないのも無礼の極みですよ。ほら、参りましょう」
やだ、と駄々を捏ねたいのは山々の椛子なのですが、繋子様に手を取られて立ち上がらないのはそれこそ問題行為になりかねませんので、柔く引かれるままにゆるゆると重たい腰を持ち上げました。
その合間に、この男余計なこと言いやがってと睨みを利かせるのも椛子は忘れません。
「椛子さん?」
「いえ、睨んでなどおりませんよ」
まぁ、繋子様はしっかりとその無礼を見咎められたのですけれども。
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