第二話③ 才能ある少女と将来の悩み~新たな一歩
「舞台の役者さんたちの姿に心が震えたというのは、とても素敵な瞬間ですね。そんなふうに、あなたの心が震えたと感じるもの—それを大切にして、表現していけばいいのです。他人の評価や期待に縛られず、あなた自身の感性を信じてください。それだけで十分なんですよ。」
雫の瞳に、小さな光が灯った。
「本当に…それでいいんですか?」
「もちろんです。芸術とは本来、他人のためではなく、自分の心の声を表現するものなのですから。」
「私、実は…舞台の上で輝く人たちをみて、私も表現したいという気持ちが湧いてきたんです。絵だけじゃなく、もっと…生き生きとした表現をしてみたいと思って…」
「それは素晴らしい気づきですね。絵を描く感性と、舞台芸術への憧れ。それらは決して相反するものではありません。舞台美術や衣装デザイン、あるいは演出など、絵の才能を活かしながら舞台芸術に関わる道もあります。あるいは、舞台で直接表現することもできるでしょう。」
源はふと立ち上がり、小さな棚から古い絵葉書を取り出した。そこには、色鮮やかな舞台衣装を着た女性が描かれていた。
「これは昭和初期の宝塚歌劇団の絵葉書です。舞台芸術には、絵画だけでなく、音楽、演劇、舞踊など、様々な要素が融合しています。雫さんの感性は、そういった多様な表現に惹かれているのかもしれませんね。」
雫は絵葉書を恐る恐る手に取り、女優の華やかな姿に見入った。
「本当に…美しい…」
「芸術の道は一つではありません。様々な経験を重ね、自分の本当に輝ける場所を見つけていくことが大切です。」
源は茶碗を再び手に取り、雫に差し出した。
「この茶碗のように、表面の装飾が失われても、本質的な美しさが残る。それは、人間にも同じことが言えます。技術や知識は時間をかけて身につけることができます。でも、心の中にある情熱や感動する気持ち、それこそが芸術の源泉なのです。」
雫は深く息を吸い込み、ゆっくりとうなずいた。
「私…もう少し、色々なことに挑戦してみたいです。もっといろいろ、モダンな美術も見てみたいし、演劇部で実際に表現したり、舞台を観に行ったり…自分の本当に感動できるものを探してみます。」
「時間はたくさんあります。あせらず、自分のペースで進めばいいのです。」
源はほほえみ、黒楽茶碗を静かに元の場所に戻した。言の葉も嬉しそうに鳴き、雫の足元で喉をゴロゴロと鳴らした。
二人の間に静かな沈黙が流れ、湯呑の中の和紅茶はいつしか冷めてしまっていた。窓から差し込む光も、先ほどよりも傾き、茶室の畳に長い影を落としている。
「もうこんな時間ですね。良かったら、もう少しゆっくりしていきませんか?もう一杯お茶を入れましょうか」
源の優しい声に、雫は少し考えるようにうつむいた後、ふと顔を上げ、以前には見られなかった明るい表情で首を横に振った。
「ありがとうございます、でも…今日はこれで。実は、見てみたいものができたんです」
「見てみたいもの?」
「はい。学校の近くに小さな劇場があって、そこでダンス公演があるって聞いたんです。今からなら、間に合うかもしれなくて…」
雫の目は輝き、その表情には新しい可能性への期待が満ちていた。
「ぜひ楽しんできてください」
「はい!また来てもいいですか?」
「もちろんです。いつでもどうぞ」
雫はお礼を言い、軽やかな足取りで立ち上がった。言の葉もうれしそうに彼女にそっと寄り沿う。
「源さん、今日は本当にありがとうございました」
帰り際、雫は店内の古い掛け軸に足を止めた。
「とても素敵な掛け軸ですね…」
「ああ、あれは『一期一会』の心を表したものです。人との出会いも、物との出会いも、全てが一期一会。二度と同じ瞬間は訪れないからこそ、その瞬間を大切にする…そんな教えが込められています。」
「一期一会…」雫は言葉を繰り返し、静かに頷いた。
「私も、今日の出会いを大切にします。そして、自分の道を見つけていきます。」
「ええ、きっと素晴らしい道が見つかりますよ。」
雫は最後に深々と頭を下げ、無名庵を後にした。
彼女の足取りは来た時よりも軽やかで、肩の力が抜けているように見えた。
源は店の入り口に立ち、彼女の後姿が夕暮れの街に溶け込むまで見送った。言の葉も、しばらく後を追うように窓辺から外を眺めていたが、やがて静かに源の足元に戻ってきた。
「さあ、言の葉。そろそろ夜の部だな。」
言の葉は小さく鳴き、源の手のひらに頭を擦り寄せた。
源は、黒楽茶碗「禿」を静かに眺めた。茶碗は夕日を受けて、より一層深い黒さを
増していた。何もない表面だからこそ、無限の可能性を秘めているように。
「彼女は、きっとこれから様々な経験を重ねて、自分だけの表現を見つけていくだろう。この茶碗のように、表面の華やかさだけでなく、内側から湧き出る本物の美しさを見出していくはずだ。」
源はそう呟き、店の灯りをわずかに明るくした。夜が訪れ、また新たな訪問者を迎える準備を始めるのだった。
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