第一話② 黒楽茶碗「禿」と夫婦の再生~心の奥底へ

 静子は、もともと都内の閑静な住宅街にある、いわゆる良家の子女として育った。

父親は、有名な建築家で、母親は専業主婦。二つ年下の弟は、父と同じ道を歩み、父の事務所で働いている。


 静子は、聖カトレア女子学院高等部、聖カトレア女子大学と進学し、卒業後は大手総合商社「東洋トレーディング」に入社し、そこで後に夫となる男性と出会った。当時の彼は、社内でもトップクラスの営業マンで、その才能と情熱で周囲を惹きつける人物であり、しっとりとした美人でしっかり者の静子に猛アタックして結婚することになったのである。


 結婚後、夫はかねてからの夢だったリハビリテーション関連の医療機器メーカーを立ち上げるため独立した。

 夫の会社は無名庵のすぐそばにあり、長年堅実に業績をあげてきたが、数年前には、在宅医療の需要の高まりを受け、開発した新型の酸素吸入器「エアリーライフ」が使いやすさと安全性の高さから、医療関係者の間で評判となり、大ヒット。業績を大きく伸ばした。


 従来の酸素吸入器に比べ、小型で軽量化された「エアリーライフ」は、患者の日常生活における負担を大幅に軽減した。また、価格も従来品より安価に抑えられたことで、より多くの患者が購入できるようになった。これらの改良により、在宅医療がより身近なものとなり、医師も積極的に患者に勧めるようになった。

 最近では、テレビCMや駅の広告などでも見かけるようになり、一般の人々の間でも、その名が知られるようになってきている。


。静子も夫の夢を応援するため会社を辞め、起業を支えた。もともと経理だった経験を生かし、夫の会社で会計の仕事を手伝うようになっていたが、お手伝い程度だと思っている。


 育児もほぼ卒業し、仕事もほぼお手伝い程度というところで、静子は少しずつむなしさを感じるようになっていた。


「若い頃は、周りからも美しいと言われて、自身もそう思っていた。幸せな結婚をして、子供も成長して、誰もが羨むような人生を歩んできた。しかし、いつの頃からだろうか。夫との会話は減り、共に過ごす時間も少なくなった。


 経営者として成功した夫は、常に仕事のことで頭がいっぱいで、家庭を顧みる余裕などないのかもしれない。私も、夫の成功を支えるために、精一杯努力してきた。しかし、今の私は、まるで抜け殻のようだ。美しい景色が消え、ただの黒い茶碗になったこの茶碗のように、私の心もまた、色褪せてしまったのだろうか。


 友人との交流も、若い頃のように頻繁ではなくなった。うわさ話や、他愛もないおしゃべりについていけなくなったのだ。私は、いつからこんなにも孤独になってしまったのだろうか。……これまでの人生は、本当に、これでよかったのだろうか。」


 静子は、茶碗を手の中で軽くもてあそびながら、心の奥底に沈んでいた疑問を、まるで壊れやすい陶器に触れるように、そっと口にした。それは、長年ふたをしてきた感情の奔流の、ほんの小さな水泡だった。しかし、その水泡は、静子の心の湖面に波紋を広げ、静かなざわめきとなって、彼女の魂を揺さぶった。


「私は、何を求めて生きてきたのだろう。夫の成功?子供たちの成長?それとも、周囲からの賞賛?……違う、きっと、そうではない。」


 静子は、自問自答を繰り返す。それは、暗闇の中で手探りで出口を探すような、孤独な作業だった。しかし、その孤独な作業の中で、静子は、今まで見ようとしてこなかった、自分の心の奥底に眠る、本当の感情と向き合い始めた。


「私は、いつからこんなにも、自分を置き去りにしてしまったのだろう。いつから、こんなにも、孤独になってしまったのだろう。……私は、本当に、幸せだったのだろうか。」


 静子の問いかけは、茶室の静寂の中に、吸い込まれるように消えていった。しかし、その問いかけは、静子の心の中で、静かに、しかし確実に、反響し、彼女の魂を揺さぶり続けた。


 そこで源さんが静かに問いかける。


「静子さん、あなたは、この茶碗に、何を見ますか?」


 静子は静かに答えた。


「私は、この茶碗に、私自身の姿を見ます。若い頃は、美しい景色を描いていた。しかし、歳を重ねるうちに、その景色は消え、ただ、黒いだけの、まるで禿げた頭のような姿になった。それでも、私は、まだ、何かを見つけようとしている。この茶碗のように。」


静子の言葉に、源さんは静かに頷いた。


「静子さん、あなたは、まだ、美しい景色を見ることができる。この茶碗のように。利休がこの茶碗に見出したように、あなたもまた、内なる美しさを見つけることができるはずです。」


源さんの言葉に、静子の頬には気づくと涙が伝っていた。

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