時間を取り戻す旅

サボテンマン

時間を取り戻す旅

 イベント会社で働く俺――田村誠は、激務に追われていた。


 早朝から深夜まで働く日々。企画、運営、クライアント対応。家に帰ればシャワーを浴びて倒れるように眠り、起きればまた会社へ。気づけば休日すらも仕事の延長線上にあった。


「そろそろヤバいっすよ。顔色がゾンビみたいになってます」


 後輩の田中に言われたとき、ふと自分の顔をスマホのカメラで確認した。確かに青白く、目の下にはクマができている。もはや化粧品のCMには出られない顔だ。


 そんなわけで、俺は意を決して3日間の休暇を取ることにした。会社のデスクで意識を失うよりは、どこか遠くで療養するほうがマシだ。どうせなら、思い切って海外にでも行ってみよう。


 日本語が通じなくて、仕事のことを考えなくても済むような、そんな場所へ。


 *


 俺が向かったのは、観光地としてはまだ発展途上の国だった。

 ホテルと呼ぶには少し心細い宿にチェックインし、荷物を置くと、さっそく町を歩くことにした。


 舗装が十分ではない道をゆっくりと歩く。車のクラクションと屋台の呼び込みが混じり合った雑音の中、俺はただひたすら足を進めた。


 ああ、これだ。時間がゆっくり流れている。


 日本のオフィスの時計の針が、分単位で俺を追い詰めてくるのとは違う。ここでは時間が生きている。


 しかし、そんな安堵の時間も長くは続かなかった。


 ふとした瞬間、俺の頭に仕事のことがよぎる。

 来週のイベントの準備は大丈夫だろうか?

 俺のいない間に、トラブルが発生してはいないだろうか?


 スマホを取り出しそうになって、慌ててポケットに押し込んだ。

 ダメだ、今は休みなのに。


 それに、ここは海外だ。電話をかけたところでつながらない。


 そんな俺を横目に、路上でコーヒーを飲んでいた日本人が、ふっと笑った。


「君、日本人?」


 彼はヤマダと名乗った。


 ヤマダは、数年前に日本からこの国に移住してきたという。

 日本での仕事に疲れ、ふらっと訪れたこの地で、そのまま暮らすことにしたのだそうだ。


「ぼくもね、仕事でつかれちゃったんだ」


 ヤマダはコーヒーをすすりながら言った。


「俺も昔はバリバリ働いてたけど、ある日気づいたんだ。なんのために働いてるんだってね」


「……生きるために、じゃないですか?」


「でも、働きすぎて死んだら意味がないだろ?」


 それを聞いて、俺は思わずムッとした。

 確かに俺は疲れている。でも、日本には仕事があって、俺にはやるべきことがある。簡単に逃げ出すわけにはいかない。


「ぼくは仕事から逃げたんだ。気づけば、帰らずにずっとこの場所にいる」


「それで、幸せになれましたか?」俺は思わず尋ねてしまった。


 ヤマダは「そうだね……」と天を仰いだ。「それでも、ぼくには、必死で働いていたあの時よりは、幸せかな」


 その言葉に、俺は何も答えなかった。


 だが、知らない土地で日本人に会えたという安堵感からか、俺は次第にヤマダと親しくなっていった。


 気づけば、他愛のない話で笑い合っていた。


「明日、観光でもしないか?」


 ヤマダが提案すると、俺は少し迷ったが、せっかくだしと思い頷いた。


「いいですね、お願いします」


 こうして、俺たちは翌日一緒に観光する約束をして、その日は別れた。


 *


 翌日、俺は約束通りヤマダに観光に連れて行ってもらった。


 ヤマダは、俺をこの国の隠れた名所へと連れて行ってくれた。


 賑やかな市場、見晴らしの良い丘、地元の人しか知らない屋台の名店……。


 ヤマダと一緒にいるうちに、俺は少しずつこの国の魅力に引き込まれていった。


 しかし、俺にはヤマダの「働くことへの否定的な考え」が、どうしても俺には受け入れられなかった。


「もう帰らなくてもいいんじゃないか?」


 一通り観光をあえて休憩をしていると、ふとヤマダが冗談めかして言った。


「いや、俺にはまだやることがあるんですよ」


「やること? それって本当にきみがやりたいことなの?」


 その問いに、俺は答えられなかった。


 楽しい時間を過ごしていたはずなのに、いつしか俺たちは意見の違いから衝突するようになった。


「きみはただ、仕事に縛られてるだけじゃないのか?」


「そんな簡単な話じゃない!」


 俺は声を荒げた。


 ヤマダは、静かにコーヒーをすすり、ため息をついた。


「……まあ、きみがそう思うならそれでいいさ。仕事から逃げたぼくには、なにもいうことができないね」


 こうして、俺たちは決別することになった。


 その後、田村はひとりで歩いていると、ふと目に入ったのは、三人の子供たちだった。


 子供たちは公園で遊んでいて、そのうちの一人が不思議そうに田村を見つめた。


 子供か。俺にも、当たり前の幸せってやつを手に入れていたら、子供と遊ぶ未来もあったのかな。そんなことを考えていると一人の子供が近づいてきた。


 子供はなにかを伝えてくれている。けれど、何を言っているのかまったくわからない。きっと名前とか、どこから来たのか、とか、そんなことだろう。


 田村は微笑みながら答えた。


「日本から来たんだよ」


 子供たちは、目を丸くして驚いた。

 日本人がここにいることが珍しいようで、すぐにほかの子供も寄ってきて、興味津々で話しだした。


 そのうち、遊んでいた子供たちのうちの一人が田村の手を引いた。


 何を言っているのかわからなかったが、手をひかれてついてくと、どうやら遊びに誘っているようだった。


 そういえば、身体を動かして遊ぶのも久しぶりだな。と、その誘いに、田村は快く応じた。


 久しぶりに子供たちと一緒に遊ぶことができ、田村の気持ちは少しずつ軽くなっていった。


 ヤマダとの決別から気持ちを切り替え、無邪気に遊ぶ子供たちの笑顔に、田村は自然と笑みがこぼれた。


 その瞬間、心の中に溜まっていた重い感情が少しだけ解けたように感じた。


 *


 田村誠は、今日が帰国の日だと知っていながらも、何となく心の中で踏ん切りがつかないままでいた。荷物をまとめ、ホテルの窓から差し込む朝日をぼんやりと見つめる。ここの空気や景色は、どこか懐かしく、心地よく感じられた。それに対して、日本に帰ったらまた、あの忙しくて息苦しい日々が待っているのだと思うと、どうしても足が重くなる。


 彼がこの異国の地に来たのは、ただの休暇を取るためだった。しかし、ここでの時間は彼の心に大きな影響を与えた。仕事に追われ、日々の忙しさに流されていた自分が、少しずつ変わり始めたように思う。そして、そんな変化を感じるたびに、帰国の決断がだんだんと難しくなっていた。


 でも、やはり帰らなければならない。


 そう思いながらも、田村はホテルを出て、最後に町を歩くことにした。会社の仲間へのお土産を購入し終えて、腕時計をみると、まだ飛行機の出発までいくらか余裕があった。


「そうだ」と田村は手をうった。


 出発の前に、あの三人の子供たちに挨拶をしに行こう。彼らと過ごした楽しい時間が、ここに来て本当に心に残っていた。


「前にみかけたときには、あの辺——」見つけた。


 町の広場に到着すると、三人の子供たちは前と同じ場所で遊んでいた。あの日、公園で一緒に遊んだ子供たちだ。見かけは変わっていない。元気に走り回り、笑い声が響く。


「おい、君たち!」田村は手を振りながら近づいた。


 子供たちは彼の声を聞き、すぐにこちらに駆け寄ってきた。


「最後にお別れの挨拶をしに来たんだ」言葉が通じないので、田村は一方的に伝える。


 最年少の男の子が田村の手をひいた。どうやら見せたいものがあるようだ。


 ほかのふたりに手をひかれて、田村は驚きながらも、楽しみにしていた。


 最初にダンスを披露してくれたのは、男の子だった。軽やかなステップを踏み、体全体を使って楽しそうに踊り始める。その姿に、田村は思わず笑顔がこぼれた。次にジャグリングを見せてくれたのは、少し年上の女の子だった。ボールを巧みに手に取っては放り、空中で回転させる。彼女の器用な手さばきに、田村は感心せずにはいられなかった。


 そして、最後の少年が胸をはった。ぼくが一番すごいものを見せてあげるとでもいわんばかりの態度だった。


 少年は一瞬の間、周囲を見渡してから、近くの電柱を指差した。


「お前、何するんだ?」田村は驚いた。


 少年は軽やかに電柱に登り始めた。見ていると、まるで身体が風のように軽く、電柱を登り、ついには電線に足をかけた。まさかの綱渡りだった。田村は最初、心配でたまらなかったが、少年は足元をしっかりと踏みしめ、バランスを取って軽やかに歩き続けた。


「すごいな!」と田村は思った。思わず拍手を送ろうと手を叩きかけたが、すぐに冷静になった。


「ああ、これは使えるな」と、突然閃いた。


 彼は、イベント会社の仕事を思い出していた。今度、こうした特技を集めたイベントを企画したら面白いかもしれない。無邪気な子供たちが見せる才能と笑顔。それをイベントにすれば、きっとみんなが喜ぶだろう。


 その瞬間、田村は再びやる気が湧いてきた。あの疲れ切った日々から、やっと解放された気がする。


 しかし、次の瞬間、予想もしなかったことが起きた。少年が、突然電線から足を滑らせてしまったのだ。


「やばい!」田村は叫びながら駆け寄った。


 地面にたたきつけられた少年はぴくりとも動かない。


 助けを呼ばないといけない。しかし、手元には携帯もないし、言葉も通じない。どうすればいいのか、全く分からなかった。


「救急車、呼ばなきゃ!」と田村は焦ったが、その方法が分からない。彼はパニックになりながら、なんとか冷静になり、思い出した。


「ヤマダだ!」すぐにヤマダのことを思い出し、田村は急いで彼の元へ駆けつけた。


 ヤマダは前に出会った場所でいつものようにコーヒーをのんでいた。ただならぬ様子で駆けつける田村に、ヤマダは驚いた。


 田村はことの顛末を説明した。


 ヤマダは田村のことをすぐに察して、冷静に行動を開始した。「救急車を呼んでくるよ」と言い、すぐに電話をかけた。


 しばらくして、救急車が到着し、少年は病院へ運ばれた。田村はその場でただただ心配し続けたが、長い治療を終えて、結果的に少年は命を取り留めた。


 田村は、ほっと胸を撫で下ろす。心臓がバクバクと鳴り響いていた。心配していた少年が無事で、本当に良かった。


 時計を見ると、もう帰国のために飛行機が飛び立っていたことに気づく。


 田村は苦笑いを浮かべた。「仕事をサボったのは、人生で初めてだな」と、そう思うと、妙に清々しい気分になった。


 その後、ヤマダが言った。「お前、このまま残ればいいんじゃないか?」


 田村は少し考えた後、「いや、帰国してやらなきゃいけないことができた。でも、戻るつもりだよ。ここに戻ってきて、もっとゆっくり過ごしたい」と答えた。


「そうか、また戻ってくるんだな。待ってるよ」とヤマダは笑顔で言った。


 *


 そして、しばらく時間が経ってから、田村は再びその地に戻ってきた。


 空港では、ヤマダと三人の子供が待っていてくれた。


 この国は変わっていない。でも、俺はあの頃と違う。言葉も覚えた。そしてなにより、時間もできた。


 田村は、帰国後すぐに退職の意志を伝えていた。


 上司や同僚からは何度も説得をされた。しかし田村の頭に浮かんだのは、あの異国の街角でヤマダが言った言葉だった。


「働きすぎて死ぬなら、意味がないだろ?」


 その言葉が、少しだけ心の中で響き、仕事をやめる決意を後押ししてくれた。


 不安がないかといえば嘘になる。それでも、おれは、この国で過ごしたいと決めたんだ。


 再びヤマダと会うことができたとき、田村は静かに言った。


「ありがとう、ヤマダ。君と話したことで、何か大切なことに気づいたんだ」


 ヤマダは笑って答えた。「いいんだよ。君が幸せなら、それでいい」


 田村はその言葉に、再び力をもらったように感じた。


「タムラ、アソボウ」


 駆け寄ってくれた子供たちの言っている意味も、今度は聞き取ることができた。


 田村は振り返らずに歩き出した。


 彼の胸の内にあった不安や焦りが、すべて一気に解放された。大きく息を吸い込み、そして深く吐き出す。


 その瞬間、田村はようやく自分の人生を再び取り戻したと感じた。

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