真紅のドゥカティで俺を抜き去っていった
宝井星居
1
「はあぁん、いいね。変わらない美人だ」
昔好きだった女のように……もうすぐ結婚する女を隣にして言っていた。海沿いの国道で。
「なあいい
「山に美人とかブスってあるんだ?」
彼女は呆れはてたように、濃いまつ毛を反りかえらせる。
「ケンちゃんのその感性、かなり理解を絶しているけど……」
思いっきり否定的ではあるが、車のウィンドウごしに見直している。
秋田と山形にまたがっている、他に比肩するものなき峰を。二千メートル級——鳥海山の山すそは海から直接立ち上がっている。東北で二番目にでかい山で、出羽富士とも言われている
この山はとにかく海側の表情がいい。私の最も好きな山のひとつだ。
4月に入っても、頂上付近はまだかなり白い。7合目ぐらいまで雪に覆われていることだろう。本格的な山開きは6月だ。
彼女を乗せているのはもちろん
その彼女は妊娠三ヶ月。結婚しようと互いに言いだしたタイミングだった。人生って誰かの書くシナリオのようだ、というか六年ぶりに田舎の実家に帰る大義名分ができたというか……。
結婚報告の旅だった。
昔語りはおっくうだが、こだわりを語るのは好きだ。
東京からの走行距離が600キロを超え、語りたいモードにはいったのかもしれない。
彼女は『お話し好き』だったし。
もっともそれを記憶から引き出したのは、春四月とは暦上の戯言に過ぎない裏東北の曇天の下、愛車アルピーヌの脇をすりぬけていく
「こんな日にはバイクで走るべきじゃない」
風をはらませたライダーのジャケットに私は目をしばたたく。ときどきフロントにぶつかってくるのは
「……でもケンちゃんは、真冬にツナギの下に新聞紙を巻いて走ったと言ってなかった?」
「どれだけ新聞紙に保温性があるのか実験したかったんだ」
実験とは強がりだ。正解は青春の愚行。学生時代金欠から冬休みの帰省に盛岡から秋田市まで単車を使ったことがある。バイト代も仕送りも使い込んでいて、ガソリン代で済むと考えた……あさはかだった。新聞紙の風除けと防寒性能に目をつけたホームレスは賢い……ある程度の効果はあったが長時間走行には適さなかった……かなり辛くなった。旅の途中なんどか限界がきて、見つけた
しなきゃ突っ込まれないのについしてしまう馬鹿話を東京の職場で出会った彼女は面白がった。私の中にあるという『話しのタネ』をもっともっとと吸いたがる。へんな習性をもった女だ。
それに彼女もバイク好きだ。彼女自身、小型二輪の免許をもっている。かと言ってツーリングに行こうと誘われたことはないが、つき合いだして何ヶ月かして「鈴鹿に行ったことある?」いきなり訊いてきた。
「二度コースを走ってる、耐久レースで」と答えたら尊……それは大げさか、きらきらした目でみつめられた。
「すごい…それって8耐のこと?」
「そうだよ」
ずいぶん昔の——8時間耐久レースと言っても創成期——若気の至りそのものな話。
『バイクの話が、好き』な彼女に訊かれるまま、てきとうに思い出すまま語ってやった。酔狂なバイク屋のオヤジと、もっと酔狂な大学の先生と、若いだけ走るのが好きなライダーで結成されたチームの夢のような物語——。
プライベーターマシンの名前は『ロード・フェアリー』(走り屋たちの妖精か?たしかに、レース用にしてはきゃしゃすぎるフレームだ)は、空気抵抗が最少になるデザインが採用された。
車体には何箇所か鉄ではなく、航空機専用の軽いアルミニウムが使われていた。エンジンはヤマハのSR500を積んでいたが、タイヤは125ccクラスとほぼ同じ細身だった。
そんなきゃしゃな妖精を乗りこなすのに、ライダーのほうにも厳しいレギュレーション(レース用の規格)が課された。
まず、なるたけマシンに負担をかけない体格と重量。軽量かつ小柄なライダーが採用され、徹底してマシンに体を添わせるライディングを求められた。
マシンと一体化したライディング——言葉にするのは容易い。具体的には、風防のないマシンを極端な前屈姿勢で一時間以上走らせることだった。コーナーリングはすべてリーンウィズ!(おかしい……狂っていると言ってもいい)交代時には背筋はガチガチに硬直し、背筋を伸ばすと背骨が悲鳴をあげた。
「それは単にケンちゃんの身体が固いからでは?」と彼女から冷淡な分析をされはしたが、もしかしたら軽量で細身のマシン自体が求めていたのは、無骨なガタイでは無かったのかもしれない。
三人のライダーのうち一人は女で、プロのライダーだった。じっさい関係者は、完成した車体を前にして「このマシンには女性しかありえないだろう」と言い合っていたらしい。
二度8耐に出場したが、残念ながら二度とも車体がもたず完走とはいかなかった。
「いい話しやわ〜。何度きいても」
彼女いわく、勝算ゼロにひとしい夢に挑みつづける挑戦者たちには「表彰台でシャンパン浴びるより萌えがある」のだそうだ。
この女の感性はよく解らない……。
解るのは……記憶にあるのは、燻されたような夏の空気、フルフェイスのヘルメットの中につたう汗、マシンと一緒になって駆動するあの感覚。熱されたロードの情報を細身のタイヤが拾う感覚……
「ケンちゃん、体重50キロぐらいかな?」世話になるバイク屋のおやじに聞かれたのが始まりだった。レースライダーに抜擢されてから、まるで流れでもあるようだった。T都大のマシンの風洞実験に付き合い、フリー走行にいたるすべてが……。
航空宇宙工学を専門にしていた老教授の「高速車体における流体力学の大掛かりな実験」につきあわされているらしい、とどこかから理解していたが。
まだアメリカの資本がスポンサーについてなかった時代の8時間耐久レース。そこが最終実験の場であったという……。
もっとも結果は非情なもので、優勝はホンダのレーシングチーム、上位もことごとくメーカー勢で占められた。
バイクオタクでもコアな方になるだろう、ロード・フェアリーのレース展開に、私の彼女は飽きもせずに聴きいり——
「……すごいね。コーナーでホンダのレーサー(CBである)を抜いたなんて」
彼女的にはそこがヤマ、でかめのため息をつく。
「130Rから全開のままで最終コーナーに突っ込んでいけた。インでは食いこんだが、立ち上がりのストレートで確実にホンダにぶっち切られた」
思い出して私は苦笑する。
「小柄できゃしゃでも美少年じゃない、キタノアキオの物語だね」
「なんだそりゃ?」
どこかで聞いたような名前だが、少年マンガの主人公にいただろうか?
「……好きってこと。あたしにはケンちゃんが合っているかも。汚れた英雄ほどモテないけど、まぁカッコいいよ」
ヒーローってことかそれなら少しわかる。さすがに解らないとな。顔に自信も自尊心もないが、体重だってレース時代より10キロ以上増えてしまった正真正銘オヤジだが、気に入っているところがなかったら結婚しようとは思わないだろう。
自分もそうだ彼女が合っている。こうして隣に乗せて旅する……この先もっとずっと長い旅になるにちがいないのに。
好きでなかったら「いっしょに走ろう」とは思わない。
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