蜜蜂の群青
る。
“ ”
――――夢、みたい
いっそ夢だったらよかったと、思い知らされた。
あれは私だけの一夜の過ちで、彼にとっては浮気ですらなかった。
「……はよ」
彼は寝ぼけ眼で答えた。三、四人の群がる女たちを追い払ったあとで、私は隣に着席した。
彼が歩けば歩いて、止まれば止まる。相変わらず大学構内を付き纏っているに過ぎない自分に、うんざりした。
「ふうん」とエミがすれ違い様に髪をかきあげ通り過ぎ、彼の視線が追ったのを見て、涙がこぼれ出ないようにぎゅっと下唇を噛んだ。
「わ、別れてなかったんだね」
つとめてさり気なく言うことにしたのに、声が震えてしまった。
エミは女王様だ。スクールカースト、なんて限定せずに彼女はこの先ずっと君臨し続けるのだ。彼女が属する社会の中で。艶々した黒く長い髪、はじめは憧れて手入れをしだしたけれど、まるでコピーブランドをぶら下げて本物に笑われたような心地だった。
「あ、違くて。分かってるから……その、誰とも付き合ってないって」
小さな溜息が聞こえる前に、早口で言い切った。
私
特定の恋人をつくらない、その引かれた線の外で三角形を作り
友達以上恋人未満なんて延長線上には立てなくて、つまるところ彼はアイドルで私たちはどこまでいってもファンなのだ。蜜を吸う蜂がブンブン呻るのも気にせずに、花壇そばのベンチに彼は腰掛ける。蜂蜜檸檬を差し出すと彼は摘んでひとつ食べた。
「好きな人って、いたことあるの?」
「いない」
間髪入れずに彼は答える。過去問をなぞるように。
「でも、じゃあ……何で、
彼が、向いた。彼の瞳が。私を、見ていた。
それで舞い上がるくらい、彼は誰も見ていなかった。
冷たく青い冬の星、その瞬きを直視しただけで、何を言ったかも忘れてしまった。
「うまかったよ、ありがとう」
彼はぼそっと言って立ち上がった。
ひんやりと私は悟った。私が馬鹿だから、過去形になった。
好きな人の好きな人なんて、探っちゃいけない。この大学の門をくぐった才女なら一問目で分かるはずだったのだ。封された蓋を開けようとするなんて
「うそっ。逆に本命かなって思ったのにー」
逆に、って。私がうんざりした顔をしても、この友達は友達の顔で甘いココアを勧める。
「最悪。最悪。あー最悪。やっとセフレになったのに……欲張ったのかなぁーー」
「
日本文学に傾倒する友達はここぞとばかりに知識を披露する。彼が日本に住んでいたと聞いて任せろと言ったのと同じくらいしたり顔だ。フラれた時も。
「しかし変えるものねぇ。スルってことは結婚するってことなんておばあちゃんみたいなガチガチの堅気だったあんたが。そんなに惜しむほど良かったの?
刺して楽しむ玩具だと思っているらしい。
グビグビっと乾いた喉にココアを一気に注ぎ込む。甘いのも分からないくらい熱くて舌も喉も火傷した。ズズっと鼻を啜る。
「最高……」
それはもう何で生きているんだろって哲学するくらい。
何にも変わらない。花に纏わりつく蜂が一匹変わっても何も風景は変わらない。
死骸は飛んでいくことすらできないのだから。
無関心そうで、鬱陶しそうで、でも蜂が必要なんでしょう。
だから花は目立つんでしょう。
いらないいらない、いらないならもういらない。
腕を縛っちゃった。どうしたら私を刻みつけられるかよく考えた末に。
分かっちゃった。この光景で人が形容しそうな、薄い薄い言葉の本当。
狂った愛じゃなくてね、愛が狂っちゃったんだ、狂愛はね。
埃っぽくて薄暗いガレージの中。
押し倒して馬乗りになって、それでも彼が怯えた目つきもせず冷たい瞳のままだから、最高だった。罪悪感を感じさせてくれないの。むしろ正義のヒーローみたいにハイだった。当然なことに気がついた。幸せって状況じゃないのよ結婚しただとかバナナマフィンを頬張ったとかじゃなくて、感情なの。幸せ。そう感じたら、幸せ。
「わたし、幸せだったよ」
序列とか嘘とかセックスとか分別の必要はなくて。
「きみは幸せでしたか?」
ナイフの切っ先が首に触れ僅かに沈む。それでようやく口を開く。
「……知ろうとした。俺も、」
「あはははははは!」
相変わらず見つめて何も映さずに。
髪を掴んでザッとナイフを引いた。
死んじゃいたいんじゃない。はじめからいなければよかった。
それくらい――
「……だった」
決して返されない言葉を飲みこんで、過去形にしよう。
そうしたら、なくなったとしても、なかったことにはならないから。
きっときみは言えなかったんだね。だからずっとそこで今もまみれている。
ガラガラとシャッターを開けて、軽くなった不揃いの髪で、私はでていく。
ありがとう、さようなら。
蜜蜂の群青 る。 @RU-K
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