12 深い森へ
イサミが七歳のときに、母親のヒルコが亡くなった。ヒルコは喘息をこじらせて、渓谷の荒々しい岩肌が鳴らす風切り音さながらの不吉な喘鳴を響かせ、トイタの病院に入院した。
だが、穏やかな秋のとまりが近づき、厳とした冬の気配がすぐ背後まで迫った、十一月の土曜日に、ヒルコは病室を抜け出して、ハジロの店の裏側に面する深い森へと入って行った。
ヒルコは陽が届かない森の奥まで進み、手ごろな太さの樹木を一本選んだ。ヒルコはその樹を登り、麻の縄の輪を太い枝にかけた。ヒルコは輪の中に自らの首を通して、しがみついた樹から身体を離して飛び降りた。
数週間ほど経ってから、ようやく発見されたヒルコの身体には、無数の蠅がたかっていた。蠅たちは穴という穴——目、鼻、口から、盛んに出入りしていた。眼球の上部に入り込んだ蠅の動きに合わせて、ヒルコの瞼が痙攣した。まるで生きているみたいだった。両目の端には、黄色い雫の筋がついていた。遠目に見ると、ヒルコは黄色い涙を流しているようだった。
しかし、ヒルコの目から垂れた筋は涙ではなく、蠅が産みつけた卵なのだった。
そう聞かされた。
遺書は残されていなかった。イサミの家に親戚と班の一同が集まり、ヒルコは送られた。霧に近いあやふやで不確かな雨が降り続いて山々が濡れそぼつ、冬の入口だった。
ヒルコについて、イサミは断片的にしか覚えていない。ヒルコがまだ元気だった頃に一緒に過ごした短い思い出と、ヒルコが亡くなったときにハジロがそっと寄り添い、そばにいてくれた温かさが、ヒルコに関するイサミの記憶のほとんどだった。
ヒルコが亡くなってから二か月ほどが経ち、集落に厚い雪が積もり、全てが白く染まった年明け。イサミは一人でハジロの洋菓子店を訪れた。
「どうして人は死ぬの?」店の長椅子に座って、七歳のイサミは訊いた。
「全てに終わりがあるからさ」ハジロは紫煙を吐き出しながら言った。「そうでなければ、救いがない」
「お母さんは救いを求めていたの?」
「苦しみと無縁な人なんていないさ」
「お母さんは楽になれたの?」
「僕はそう願っているよ」灰皿で煙草の火をもみ消しながら、ハジロは言った。「ヒルコは、イサミ君のこれからをいつも気にかけていたよ。なにがあっても屈することなく、道を切り拓いていってほしいって」
イサミの目の端に涙が溜まった。けれど、涙は零れ落ちなかった。手の甲で涙をぬぐうと、イサミは長椅子から立ち上がった。どこかから隙間風が吹き込んで、ハジロの汚れたコックジャケットの裾が揺れた。
「行くのかい?」
「行くよ」イサミは頷いた。「でも、また来てもいい?」
「もちろん」ハジロは微笑んだ。「いつでもどうぞ」
イサミが外に出て振り返ると、ハジロが大きく手を振った。イサミは手を振り返せなかった。
※ ※ ※
同じ季節がやってくる。冬の気配をすぐそこに感じて、イサミは枯れ葉を踏みつけた。乾いた音がした。カシグネとヤムイと一緒に、歩いて家に帰った。
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