天使の心音
まだまだやまだ
天使の心音
ステージが始まる前はいつも暗闇の中だ。両耳にイヤホンを入れ、外界の音をシャットアウトする。小型の端末を操作するとお気に入りの曲が再生される。ライブ前いつものルーティーンだった。いつもどおりにやればいいと自分に言い聞かせる。しかし、高鳴る心臓の音は収まるどころかむしろ激しさを増す。周囲の人間に聞こえるのではないかと案じてあたりを見回す。ユニットメンバーたちもみなそれぞれ好きな方法で集中力を高めているようでこちらを気にしている様子は見られなかった。
普段より緊張が高まっている理由は分かっている。今から始まるライブはアメリカで行う最初のライブだ。観客はどんな人たちか。わたしたちの積み上げてきたものは通用するのか。考えても考えても不安は拭えなかった。
聞いていた曲が間奏に入る。わたしはこの曲のボーカルも好きだったが、その裏で流れる電子サウンドを特に気に入っていた。変調子のリズムがわたしの脳に入り込む。そのメロディーを聞くと緊張や不安が霧のように消え失せてライブが楽しみだという気持ちでいっぱいになる。この曲のおかげでわたしは今もアイドルでいられるのだと思う。アイドルは人に力を与えることができる。この曲を歌っている伝説のアイドルはわたしにそう告げていた。
曲が終わるとそれまでとは打って変わって前向きになれる。今度はわたしが歌を届ける番だ。
ライブ開始時刻がいよいよ目前に迫る。それぞれで集中していたメンバーが自然と中心に集まり円陣を組んだ。人生を賭けたライブが今始まろうとしている。
わたしたちの歌で全米を魅了するんだ。
世界のアイドル史は彼女以前彼女以後に分かれる、とまで称される伝説のアイドルがいた。その名前は櫻崎天音という。およそ100年前のアイドルだ。日本で、いや世界で彼女の名前を知らないものはいない。彼女の残した痕跡は昨今のエンタメ業界に色濃く残り、現代に生きるわたしたちにも広く知られている。しかし、彼女がデビューした当時は意外にもあまり注目を浴びなかったという。今からすると考えられないが、彼女の歌もダンスもルックスも当時の多くのアイドルの中で特に秀でたものはなかったらしい。アイドル候補生時代の座学で衝撃を受けたのを覚えている。
教科書の末尾に付録として載せられているアイドル年表には昭和の時代から今に至るまでの代表的なアイドルが写真で紹介されていた。その中でも櫻崎天音は一際輝いて見えた。
そもそも、天音以前のアイドルは一般的に美人といえない容姿をしていた。過去の代表的なアイドルは皆派手な化粧をして、目が大きく線が細い輪郭に色白の肌をしている。天音と正反対な顔立ちをしていた。天音一人だけが美人なアイドル業界で、なぜ長い下積み時代を重ねなければならなかったのか理解ができなかった。
講師に質問をしたときの回答は今も記憶に残っている。彼曰く、櫻崎天音を基準に世の中の美的感覚が変わったのだという。
逆境の中でいかにして彼女がトップアイドルになったのか。アイドルを志す者なら知らない者はいない。櫻崎天音はエンターテインメントの本質を解明したのだった。
人はなぜ好きな曲を聴くと心が落ち着くのか。人はなぜ人を好きになるのか。人が幸福を感じるのは脳の神経回路の働きによる。櫻崎天音はトップアイドルになるために人の脳を研究したのだ。研究の結果、彼女は遂に発明した。その発明で彼女は頂点に登り詰めたのだ。
彼女の発明「天使の心音」は作動させることで人の報酬系に直接働きかける音を発生する。その音をライブの最中に流すことで、ライブを聞いた観客の脳はドーパミンやβ-エンドルフィンに代表される快楽物質を強制的に排出する。天音の歌を聞いた観客はもれなく彼女の虜になり、恍惚の表情を浮かべたそうだ。アイドル櫻崎天音は社会現象となり、あらゆるメディアで天音の姿を見ない日はなかったという。天音ムーブメントは日本国内に収まらず世界中に波及し、名実ともに世界一のアイドルとなった。
しかし、そのブームは長くは続かなかった。天音が飽きられてファンが離れてしまったのか。いや、むしろその逆だ。あまりにも人気になりすぎたのだ。
櫻崎天音のライブに一度でも参加したファンはその後開催される全てのライブに出向き、櫻崎天音の曲を一度でも聞いたファンは常にイヤホンを付けて彼女の曲を聴き続けた。
仕事や日常生活を放り投げてまで櫻崎天音を推し続けるファンが後を絶たず、世界経済は崩壊した。
失職者が世界中に溢れかえり、櫻崎天音が提供するコンテンツを名指しで禁ずる国も現れた。櫻崎天音は引退を余儀なくされたという。
世界を取り巻く櫻崎天音ロスはすさまじいもので、道端に元天音ファンが溢れかえり死屍累々の様相を呈していたそうだ。
もちろん日本も例外ではない。日本国民の大半が廃人となり、死んでいった。オタクはアイドルを推していないと生きられないのだ。
多大な損害を出した諸国は、自国の存続のために戦争を始めた。しかし、人殺しはよくないので「天使の心音」を使って戦争をすることにした。相手の国民全員をファンにすれば戦争に勝てるからだ。
こうしてアイドルは偶像から兵士になった。
各国に派遣されたアイドルはライブを行うことで、その国の国民に「天使の心音」を浴びさせる。アイドルは国の英雄であり、憧れなのだ。わたしもアイドルに憧れて候補生になった。
伝説的アイドル櫻崎天音は誰だってアイドルになれると教えてくれた。今もわたしに勇気をくれている。
人生を賭けたライブが今始まろうとしている。
わたしたちの歌で全米を魅了するんだ。
天使の心音 まだまだやまだ @madamada_402
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