第2章 

「ほぅら着いたよ、二人共……って、アレ」

 「うぅ…僕、たぶんもう死んでるよ」

後部座席に縮こまるなぎさだけでなく、

「あ…着いたんですね……うっ」

助手席の千夏ちなつでさえもげっそりしている。

「もう二度とみすゞさんの車には乗らない…」

「同じく…ってそれより、ここ何処どこですか?」

「依頼主の、家の前だよ」

「い、依頼主…ってことは!?」

「うん、あの女の人、」

「え゙ぇ゙っ!」

『…っ、ごめんなさい…お願い…許して……』

あの必死な声を思い出し、ゾワァ゙っと寒気がしてきた千夏は、幼馴染の方を救いを求めるように見つめる。しかし…

「…みすゞさん、ちょっと降りて」

「なんだい?悩みがあるならお姉さんに言ってみなさい」

「えぇ今から言おうとしてるんですよ!」

ムカムカしている汀は、その綺麗な顔立ちをギュウッとしかめて、車のドアを開けて外に出ようとする。

「って!」

ゴンッと頭をぶつけていたけれど、それも気にしないで、運転席側のドアを開けた。

ぺいっとみすゞを外に出すと、ドアをきっちり閉めて、みすゞの耳元に口をよせる。

「…ここで………が……えるだけ………ったら…を…して………ですよね?」

「あぁ、そのつもりだ」

「つもりって何ですか!?」

途中からは声が大きくなったため聞こえるが、最初の方は、少しも千夏の耳には届かなかった。

「まぁ、今は取りあえずだろう?」

「…そうですね」

吐き捨てるように言ってから、汀は千夏の座っている側にまわり、ドアを開けてくれる。

「ほら」

そう言って差し伸べられた手をとる。その手は角ばっていて、あの頃の柔らかさは微塵も残っていなかった。

「まったく最近の若者は、人目も憚らずイチャコラと…」 

「「これのどこがイチャコラですか!?」」

すぐに全否定したが、その憂いを帯びた表情は、悔しいが絵画のようにさまになっている。腹立たしいことだが、美人は得なのだ。

(汀だっていつの間にかイケメンになっちゃって…私みたいなのが幼馴染とはね…トホホ)

千夏は苦笑いしながらふと顔を上げて、ギシッと固まった。

「ウワァ…ここか」

みすゞはヒクリと口の端を引き攣らせ、を見上げる。

「ハァ、ボロ家じゃないか」

そこにあったのは、小屋…だ…。ツタが纏わりついていて、お世辞にも綺麗とは言えない。

「犬小屋ってことは、あれは飼い主だったのか。犬猫のためにここまで来たのか…チィッ」

「ハァ、僕は犬苦手なんでアレですけど、あなたは今、全国の犬好きを敵にまわしましたね」

そうか。愛車がポルシェの時点で、みすゞは金持ちなのだ。そしてもちろん、汀も。

確かにコレはだが、間違ってもではない。

あぁ、流石さすがお金持ち…と嘆息しかけて、

「いやいやいやいや、これ犬小屋じゃないですから。多分たぶん人が住んでたヤツです」

ブンブン首を横に振る。

「何を言っているのかい?…これに?人が?」

冗談ではないようだ……金持ちめ。

「まぁとにかく!ちぃちゃんが言う通り、これは家なんですよ…多分」

多分っていうワードに引っかかった千夏だが、ここで口論しても仕方がないので黙っておく。

「で、私をここに連れてきた理由は何ですか?」

「わお、いきなりぶっこんでくるね」

「いや普通これ聞くでしょ。ほぼ拉致ですよ?」

「まぁ、そうだね。連れてきた理由はね…」 

みすゞは得意げに鼻をならし(理由は不明だが)、ビシィッと指先を千夏の額に押しつける。

「使えるかもしれないからさ」

「は…?」

「うん、まぁ、そーゆーことだ」

(そーゆーこと!?そーゆっ、そーゆーことって何!?全っ然理解できないんですけど!?)

「まぁまぁ、見てたら分かるよ」

「みっ、見てたらって…」

「ほら、君のヒミツ…普通じゃないからね」

(…!)

みすゞから――この危なげな笑みから離れたくて、千夏はジリジリと後ろに下がる。しかし、遠ざかった分だけ――いやそれ以上に、みすゞは近づいてくる。

「ねぇ?キミの秘密、知りたいんだろう?」

「っ…」

千夏は、毛を立てた猫のように警戒心を丸出しにして唸る。

「みすゞさん。約束、破ったらどうなるか分かってますよね?」

静かな声。だがそれには隠しきれない怒りが滲んでいる。

「ちょっとからかっただけじゃないか。そうカッカするんじゃない」

「からかいもよしてください」

バチバチっと二人の間に火花が見えるようだ……

「そっ、それより!この家に何の用があるんですか?」

千夏は、とっとと本題に戻そうと、睨み合う二人をベリっと引き剥がした。

「まぁ、まずは、依頼主とご対面しないとね」

「い゙っ、依頼主って…」

ゾワゾワっと震え上がった時、

「……あのぅ、あなた方は…?」

いつの間にか、そのボロ家…改め古民家から人がでてきていた。三十代くらいだろうか。黒縁くろぶちのメガネをかけた男性だ。

「加山さんですね?…怪しい者ではありません。私らはご依頼いただいたです。私は大鴻おおこう、こちらは桐生きりゆう、そして見習いの佐竹さたけと申します」

先ほどまでから打って変わって、気持ち悪いほど(酷い)丁寧に対応している。

「あっ、あぁ、母の件で…」

(ウケトリモノって何?ナマケモノ?いやそんなわけない……そして何でこの人私の苗字知ってるの?…あの声の女の人って、この加山さんのお母さんだったの?)

はてな』で頭を埋め尽くしている千夏

を気遣わしげに見て、汀はボロ…古民家へと視線を移した。

「失礼ですが、お母様が亡くなられたのはいつ頃でしょう」

「…えぇと、私が七つの時でしたから……今年で二十八年ですかね」

「それまでずっとお母様は現れなかったのですか?」

(現れ……?…よく分かんないけど、不動産かなんかなのかな……いや、まさかとは思うけどニセ除霊師とか…?)

「え、えぇ…ここに来たのが前の月の中頃でしたから、詳しいことはわかりませんが……」

眉を寄せて、加山は答えた。

「…そうですか」

(一緒だ……)

母と祖母。七歳と十四歳。少し違うところがあるけど、境遇が似ていると思った。ズクっと胸に小さな痛みが走る。

「あぁ、では、お母様を場所に案内してくださいますか?」

「あ、はい」

二人はテキパキとを進めていく。あまり混乱せずにいられているのは、理解できていないからか、理解しようとしていないからか……。

「ちぃちゃん?ちぃちゃんも来なよ」

「え、あ、うん」

ガラガラッと戸を開けて、みすゞがツカツカ先に入っていった。

「…うっ、カビ臭ッ」

そう呻いたのを、千夏はガッツリ聞いてしまった。

「あ、ここすぐに取り壊すので、土足で良いですよ」

加山はそう言ったが、千夏にはそれがとても冷たいことに思えた。

「あぁ、どうも」

もっとも、みすゞはそれをありがたく思ったようだが。

「…ここです、ここ」

加山が案内したのは、縁側(と思われる場所)だ。小さい庭(だったもの)が見える。

「あの木は?」

そう言って汀は茂った草の向こうを指さした。そこには、枯れ木が残っている。

紫陽花あじさい…ですね。あの人は、紫陽花が好きだったんです。最初は父が植えたそうで…しかしそれが枯れてからは、あの人が別のを植えて、せっせと世話していました。」

確かに、小さい花が集まっている。紫陽花は木が枯れても花は落ちない。

「お父様は?」

「…他に女がいたらしく、帰ってくるのはいつも夜中でした。…私を引き取ったのは父ですけど」

「では…お母様は……」

「あぁ、いえ。自殺した訳ではありません。母にも、他の相手がいたみたいですしね。事故で亡くなりました。6月末の雨の日でした。まぁ綺麗に真っ白の紫陽花が咲いていましたよ」

(紫陽花の花言葉は、『浮気』……)

「そうですか…」

汀は、ポツリと呟いて、そのまま黙りこくってしまった。

「お母様のご様子は?」

「録音したものを送りましたよね?ごめんなさいと…ただただ繰り返していました」

汀は、なるほど、と口びるだけ動かすと、ふっと笑みを作った。

「ありがとうございました。では、ここからは私達の出番ですね」

加山は、よろしくお願いします、と言って去って行った。

(嫌な予感がする…)

幼馴染の、その作り物のような笑みを見て、千夏は知りたくない事実が近づいている恐ろしさにおののいた。

汀は、トッと庭に降りると、枯れた紫陽花の側まで歩き寄る。そして右手をその枯れた葉に添えた。左手でそっと葉の上をなぞる。その繊細な指が、滑っていく。

「――――――……――…」

何かを唱えているようだ。声は聞こえない。口だけが微かに動いている。

みすゞは、その様子を目を細めて見守っている。

突然、ふぅっと寒気のような…だが優しく温かいものが、身体からだの中を通り過ぎたような気がした。いつの間にか目を閉じていた。それに気づいて、慌てて目を開けようとして……思いとどまる。

…汀とみすゞの仕事は、不動産屋でも、あこぎな商売でも、ないのかもしれない。それが、ウソじゃないことは、千夏自身が1番分かっている。

だが、に気づいてしまったら、もう戻れない。目をそらしていたものを、見なければならなくなってしまう。どうすればいいんだろう。(みすゞさんは、何で私を連れてきたの?なぎは、私にを知っていてほしいのかな…)

「…ちぃちゃん」

足音が、隣まで近づいてきた。千夏の右手を汀の左手が包む。

右手を握る手の強さと温かさを、確かに感じる。

(そうだ。もう…もう逃げないって決めたから)

口びるを強く噛み、そっと目を開けた。 

紫陽花の花のすぐ手前。

そこには…

1人の女が立っていた。

白銀の着物を身に着けている。

「…」

(綺麗な人…)

千夏は、その女人の儚げな美しさに、少しの間見惚みとれていた。

坂谷さかたにめぐみさんですね」

汀は、柔らかな物腰で問いかける。少しも驚いていない。客人に対応するかのように、手慣れている。

「よろしければ、少々お話させてください」

―――あなた、何者?

鈴のように透き通った声だった。

「さぁ?あなたの息子さんの知り合い…ですかねぇ」

―――何をしにきたの?

「何だと思います?」

―――私を…成仏させるために?

「…そうだと、いいですか?」

―――……そうね…

恵は、ゆっくりと思考したあと、そっと頷いた。

「お、それは話が早い。では、必要なところだけ話していただきますね」

汀の横からひょこっとみすゞが顔を出す。

「亡くなった時のこと、教えてください」

―――……分かったわ

恵は、遠いところを見るような目をした。

―――………死んだ日のこと…何ででしょうね、覚えているところははっきりしているのに、まるで覚えていないところもあるわ…大雨の日でね、道路も濡れていたし、視界も悪かった。家に帰ろうと思ったの…夫とは別の人のもとから……。誰かの庭に、紫陽花が咲いていたから……でもこれも何かの因果ね、紫陽花は…夫が植えたのよ

泣いていたのかもしれない。声が、小さく震えていた。

―――自分でも吃驚びっくりするくらい呆気なく死んじゃったわ。ぼんやりしていて、近づいていた車に気づかなかったのよ、かれたのでしょうね、目が覚めたらここにいた…あの世という存在があるのなら、何でそっちに行けなかったのでしょうかねぇ

はらり、とその瞳から涙が零れ落ちた――ように思えた。幽霊に、涙なんて流せない。…実体が無いから。

それでも、彼女は泣いていた。

それからも恵は、細かなこと――息子が生まれた日や夫と出会った日のこと――も話し続けた。

―――あの子はね、私の宝物だった。幸せだった…愛していた……。でも、いつの間にか、変わってしまった。いいえ、愛していたことに変わりは無かったわ、あの人との仲が冷え切って、接し方が分からなくなってしまった……

恵は、一旦そこで言葉を切った。

―――何度も何度も自分を責めた。不甲斐なさが悔しかった。頑張ろうとすると、全部空回りしてしまって……守るべき息子に八つ当たりしてしまったわ。今でも覚えてる、あの子の目。恐怖と衝撃と反抗と悲しみに見開かれた、あの目。澄んだ瞳に、あんなモノを映してしまった……

幽霊になっても、こんな感情に揺さぶられ、懺悔しないとならないのか…

―――もう、あの子の瞳は濁ってしまったの…もう戻らないわ…

誰も、一言も発さなかった。少しの間、沈黙が流れた。

その沈黙を破ったのは、みすゞの声だった。

「はっきり訊きますけど、恵さん、あなたは、息子さんのことが心残りなのですね?」

「「!?」」

いやはっきり過ぎるだろっ、と思わず千夏と汀がみすゞをガン見する。

―――ずいぶん単刀直入ね…でも…、うん、そうよ。あの子のことだわ…

苦笑を混じえて、恵は話す。幽霊なのに、こんなところは人間みたいだなと思う。

―――…あなた方、受取者うけとりものでしょう?

(受取者って…さっきも出てきた………)

「えぇ、記憶を受け取ってもよろしいでしょうか」 

バッサリとみすゞは言った。

―――そうね…そうしてもらいましょう……もうすぐきっと、私は私じゃなくなってしまうでしょうし…

「亡くなられたのは二十八年前。もう相当な年月が経っています。魂だけの状態では、そろそろけがれが心配ですからね…」

みすゞはこう見ると、ガッツリ営業ウーマンである。

「穢れって、何…?」

千夏は、隣の汀にそっと問いかける。

「この世の…悪いのこと。生きているときの魂は、肉体の中で守られているから大丈夫なんだけど、死んで魂だけの状態になったら、その穢れに染まりやすくなってしまうんだ」

「なる…ほど?」

(あんまりよく分かんないトコロもあったけど…)

「ほぅら、受取者のお役目だよ。私がから、汀、お前が受け取りなさい」

汀は、ええ…と呻きながらも嫌々みすゞと恵のもとへ歩き出した。

(受取者…それは一体なんなの)

その問いを見透かしたように、みすゞはニィッと笑った。

みすゞは、そっと恵の胸に右手を置いた。そして目を瞑り、眉を寄せて何かを探しているように手を微かに動かす。

「…っ、見つけた、汀!」

みすゞが叫ぶ。

みすゞの左手を汀が握る。

「恵様、貴方の記憶、受け取りますっ」

汀が叫んだとき、恵の胸元から溢れた光がみすゞの右腕、胸、左腕を通って汀の両腕を滑っていって汀の胸におさまっていく。

光が完全に消えたとき、みすゞは大きく肩で息をして、汀は顔を歪めて座り込んでしまった。

「だっ、大丈夫!?」

慌てて汀に駆け寄った千夏に、みすゞはニヤリと口の端を上げて見せた。そして、唐突に話し始めた。

「肉体を持たない魂を、この世に縛りつけるかなめとなる記憶を、それが受取者だ」

千夏は、汀の背をさすってあげながら、みすゞの方を見た。

「記憶を、抜き取る……?」

「簡単に言うと…うーん、幽霊のになる記憶を、貰ってあげるんだよ…。恵様の場合だと、息子の加山さんにまつわる記憶全て」

汀が、座り込んだまま、細い声で呟くように言った。

「そういうことだ。受取者は汀、私は読視者よみもの。受取者も読視者も含めて、『記憶ノ守り人』って言うんだ。読視者ってのは、魂の記憶を読んで、その要の記憶を探し出さなければならない。キミにはこれをしてほしいと思ってね」

「え…、でもそんなの私には、」

そんな力無いから。そう言おうとした千夏を、言葉に被せるようにして止め、みすゞは笑う。

「いいや、君は素質しかないよ。この力はね、血筋で決まるんだ。佐竹家は特にでね。私も、一応は君の遠縁だ」

「えっ…」

みすゞさんが、遠縁…?

「ええぇぇえええッッッ!!!!???」

あまりの衝撃に尻もちを付いた千夏の驚きようとその声量に吃驚したのは、みすゞと、彼女よりもずっと近くにいた汀。

「…驚くところはそこかい?まぁいいさ。…そうだ1週間。1週間、迷いなさい。また答えを聞きに来るよ。キミがだったら、汀も喜ぶし」

そう言ってほがらかに微笑ほほえんだみすゞは、千夏の目には汀の母親のように映った。

「いや、今はこっちだね。ほら汀、とっとと起きなさい」

「うぅ…。キモチワルイ…」

みすゞの言葉とは反対に、汀はさらにぐでーんと伸びてしまう。

「なぎ…ほらつかまって」

千夏は汀の両手を握って、引っ張り上げようとした。しかし、汀の方が大きい。しかも梃子てこでも動こうとしないので、よろけて転びそうになってしまう。すると、みすゞも千夏の手の上から汀の手を握り込み、グイっと引っ張った。

「ウワッ」

汀もこれには立ち上がる。

「今は仕事中だろう、なまけるな」

「これホントに疲れるんですもん」

えぇ…と、汀は不平の声を上げた。

ハッとして恵を見ると、その身体は透き通っていた。その瞳には、涙の跡がくっきりと残っている。だが、瞳の光は失われており、空中に溶けていく。

水の入ったガラスの入れ物に塩を入れ、それが溶けていく様のようだ。

哀しく。

優しく。

冷たく。

柔らかく。

嘆きつつ。

笑って。

泣いて。

もう掴めない、もう戻れない日々に…

もう直せない愛に…

透き通ったように美しかった。

罪も、愛も、彼女の生きた日々も、命も、全て。

透明な身体が完全にそらに消えたとき、何とも言えない物悲しさが千夏の胸を満たした。

だが、みすゞはいつも通り飄々ひょうひょうとして、

「ほら、千夏は加山さんを呼んできなさい」

と言った。

(まさかの千夏呼び……)

「え、あ、はい」

なんとなく頷いてしまって、千夏は居間に向かった。

「あのぅ、加山さま…みすゞさ、じゃなくて、えっと…こちら?から?……話がありますので、どうぞ縁側までおいでください」

私ただの幼馴染なんですけどねっ…と心の中で叫んで(もちろん口には出さずに)、加山をともない歩き始めた。

互いに無言。とてもとても気まずい。…これくらいの年代の人と話したことは、ほぼないためか、

話題がない。

その気まずさを隠すように、早歩きでみすゞ達のもとへと向かう。

「お。来た、」

「いらっしゃいましたね」

みすゞの失礼な言葉を、汀がそれに被せるようにして訂正した。二人ともちゃっかり縁側に座っている。

「少々お話、よろしいでしょうか」

「は…はぁ、いいですけど……」

加山の顔には、困惑がありありと見て取れる。

「加山さまは、お母様が好きでしたか」

「は…っ?」

加山は驚きに目を見開いた。当たり前だ、千夏も内心とても慌てている。

(無礼極まりないでしょーが!)

汀も同意見らしく、みすゞの口を塞ごうと躍起やっきになっている。…が、ビシッと額にデコピンを食らわされて涙目になった。

「えぇ…と、それは、」

「答えてください。依頼費の値切りに応じたのは、このためですから」

(あ、依頼費値切ってたんだ…じゃなくて!)

「……分かりました。はっきり言って嫌い…憎んでいますよ、子供を捨てた母親なんて」

淡々とした口調である。

(嫌い…憎んでいる……)

加山のこれまでの苦労は、どれほどのものだったのだろうか。その日々が、今の言葉を生んだ……それがとても悲しく、寂しかった。先ほどの恵の切なげな顔が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。

「あの!」 

思わず、叫んでいた。汀は、みすゞを見ようとして、声の主が違うと気づき、唖然あぜんとして千夏へと視線を移した。その汀とは逆に、みすゞは満足げに笑っている。

「な、何でしょう」

加山は、まだ何か?とでも言いたげな顔でこちらを見ている。

「お母様…恵さんは、紫陽花がお好きだったのですよね?紫陽花の花言葉はご存知ですか?」

「えぇ…。『浮気』『移り気』『無情』。どれもあの女にピッタリです」

「その通りです」

趣味で知っていた花言葉。紫陽花のそれには、皆の知らないもう一方の面がある。

「しかし、他の花言葉もあるんです」

「は…、はぁ」

まだ、千夏が言いたいことに気づいていないようだ。もっとも、千夏が加山の立場であっても、気づかないだろうが……

「『家族』『団欒』『和気あいあい』……家族に関するものも、とても多いんです」

千夏はギュッと拳を握り込んだ。

「このお庭の紫陽花の花は、白色だったとお伺いしましたが……。白色の紫陽花には、『一途な愛情』という花言葉もあります」

「は…ッ、一途…」

加山は、それを鼻で笑おうとする。当たり前だ。恵は、そうされても仕方がないことをした。2人の間には、複雑に糸が絡んでいる。もしかすると、もうほとんどが切られてしまったのかもしれないが。

「白い紫陽花は、もともとそういう品種なので、色が変わることはありません。確かに恵さんは、夫以外の人を愛したのかもしれませんが、あなたへの愛は、一途で、揺らぐことをしなかった」

恵が生涯で持った子供はひとり。夫と別れて、他の人と結婚しようとも考えていたらしい。もちろん、息子…加山は己が引き取って。

「もしも、あの日、恵さんが事故に遭わなかったら、あなたにも違う人生があったんです。恵さんは、そのために、多くのことを犠牲にしたのです…ですので、」

千夏は、加山の目をしかと見つめた。不思議と、恐怖や躊躇いは消えていた。

「恵さんの、全てを恨まないでください。恵さんが、あなたを愛していたことだけは、認めてあげてください」

お願いします、と深く頭を下げた。それを、みすゞは満足そうに見つめている。汀も、少し眉を下げて、心配そうに見守っている。

(ん…?)

「あっ!あの、出過ぎたことを申しました…」

ハッと我に返った。千夏は、慌てて、先ほどとは別の意味で頭を下げる。

「いえ、大丈夫です。…白い紫陽花、ですか…」

加山は、息を吐くように呟く。

「そうですか…」

と、何処か遠くを見つめていた。その顔には何の表情も浮かんでいないように見え、また声も硬く、千夏にはその気持ちが読み取れなかったが、それは複雑すぎる感情に、そんな表情しかできない為かと思われた。

「…幸せだったときもありました。僕も心が小さくなったものですね……親になって、母の気持ちがほんの少し分かった気もしたんです」

一度言葉を止め、紫陽花の方を見つめた。

「しかし、認めるのは怖かった。これまでの努力は、半ば母への、見返しでやろうという気持ちから生まれたものでしたから、その努力の意味が消えたりだとか、そういうことが怖かったんです…」

言葉の感じがほんのり、優しくなった気がした。

「あぁ、本当に……似た者母子おやこだ……」

上を向いて、宙を見た加山がどんな表情をしていたのか、千夏は知らない。見ようともしなかった。見てはいけないような気がした―――


✤✤✤


「いやぁ、あの時は本当に大丈夫かと思ったが…流石さすがだ、私が見込んだだけのことはある」

帰り道、ハッハッハッと豪快に笑うみすゞを、じとっと睨んで千夏は言う。

「絶対あの話振ったの、わざとですよね?」

あの話とは、加山に訊いた、母親が好きかという質問である。

「何のことかな。ふふっ。それから…もう一度訊こう、君、読視者にならないかい」

「は!?みすゞさん、それはダメです絶対!」

またもや後部座席に入れられた汀が、全力で拒否した。そして、けほっと咳をすると、道端の自動販売機で購入したスポーツドリンクをコクリコクリと飲み干した。

「言い方を変えてみよう。キミ、汀の奥さんにならないかい?」

「ッあ!?ゲホッゲホ、ゴホッ」

「え…?今、なんと?」

耳を疑う千夏に、みすゞはニッコリと笑った。

「汀と結婚して、ついでに読視者にならないかいって言ってるんだよ」

「…これって、嫌だと言ったら…」

「ふふっ、何もしないさ。汀の仕事が増えるだけで。というか、君のお祖母様と約束してるからね」 

「え?」

「桐生家の読視者は、ここのところ長らく出ていなくてね、本家を束ねる私以外、汀とペアを組める相手がいない。それじゃあ、君が嫁に来てくれたらいいってことさ。それから…」 

みすゞはミラーで汀を見た。

「君たちは、子供の頃にもう、儀式は終わらせてしまっているからね。戸籍上じゃ違うけど、実質…魂同士は夫婦の縁で結ばれているからね」

「は…えぇ!?」

「まぁ、だから…汀との結婚は確定したことさ。読視者になるかは別としてね」

「…みすゞさん、これで僕フラれたら可哀想だとは思わないんですか…」

お礼にと加山に貰った饅頭の横で、汀が呻く。しかし、みすゞはそれをガン無視する。

「まぁ、政略…政ではないけれど、仕事柄?結婚することは確かなんだからさ」

(私…なぎなら、全然いい…というか、ちゃんと、嬉し、)

って何考えてるの!?っとブンブン首を振った千夏。

「なぎは…、なぎはいいの?そっその…わ、わた私で…」

俯いて聞く。

みすゞがニヤニヤと見つめているのを感じる。

「僕は…ちぃちゃんなら、いい、けど。…っちぃちゃんが相手なら、嬉しい、し…」

「じゃ、決定で」

みすゞの声で、若者二人はかぁああっと顔を赤らめてしまった。

「……1週間、あるんですよね?」

「うん?」

「え。その読視者?に、なるかならないか、決める期間」

「あぁ、そんなことも言ったっけ。うん、そうだ、そうだよ」

「ちぃちゃん、しっかり悩んで決めたほうがいいよ、絶対に。後で後悔するから」

汀の言葉をことごとく無視して、みすゞはスピードを上げた。

「よし、飛ばすぞ〜!!」

「「え゙ぇ゙っ」」

ピキリと固まった2人に気づいているのかいないのか、みすゞは楽しそうに笑っている。

「警察に捕まりますよ!!」

「いやぁ、そこら辺は伝手つてがあるから、見逃してくれるさぁ。記憶ノ守り人当主に手は出せないからね」

「はっ、当主……っ?」

ポカンとしたのも束の間、

「よぅし、まだまだ飛ばすぞ!」

「事故りますよ、みすゞさん!」

「本当にそれです」

まだスピードを上げようとするみすゞを止めるのに必死になる。

この1日が夢だったような気がする。いや、逆に素晴らしい現実世界を楽しんでいるようにさえ思えてきた………。

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