幽明のチェロ奏者
赤宮マイア
第1章
第1話
もういいかい。
まぁだだよ。
子供の声がする。
闇の中にぼんやりと人影が浮かんでいる。
本当は、暗闇のはずはない。
あれが起きたのは昼間だった。
人影は二つだ。大きいのと、小さいの。
大きな人影は、小さな人影の手を引いている。
二つの人影は、だんだん近づいてくる。
小さな人影は女の子だ。
大きな人影は……手に、なたを持っている。
ピアノの優しい旋律がどこか遠くから響いてくる。
モーツァルトの、ソナタ11番。
もう、いいかい?
男の声がする。
幼馴染みの家だ。
耳の奥でじじじじ、じじじじ、と鳴る。
なたの刃から赤い液体が滴る。
感情のない眼が箱の中を覗きこみ、言う。
「み つ け た」
「
同僚の女性教師に声をかけられ、
「いや、何でもないです」
「そうですか? もう予鈴鳴りましたよ。皆月先生、五限ありますよね」
言われて見回すと職員室の大半の教師たちはすでに午後の授業へと出払っていた。
皆月は慌てて教科書や副教材を抱えた。
「ありがとうございます」
「いいえ」
女性教師は小さく微笑んだ。
職員室を出ると、皆月は廊下を速足に歩きながら片手で上着のポケットからスマートフォンを引っ張りだし、画面を見た。
『足立区一家惨殺 玄関は血の海 隣人の聞いた阿鼻叫喚』
ネットニュースの扇情的なタイトルを凝視する。
それから、まだ既読をつけていないメッセージ。
話がある
今夜、来れるか
俺は公演があるから、午後十時以降
皆月は深く息を吐く。
午後十時以降って、こっちは明日も仕事があるんだぞ?
それから、教室にたどりつく前に既読をつけたが返事はまだしなかった。
皆月涼太は二十六才。この私立高校の英語教師である。
上位の進学校というほどではないが生徒のほとんどは進学する。中には問題児もいるが、総じて生徒たちは子供っぽく素直で、あまりやる気もないが特別反抗的でもない。
つまり、ごく普通の高校だ。
授業中も皆月は上の空だった。
前のほうの席なのに二人の女子生徒が私語をしているのも、面倒で注意しなかった。
しかし、二人は何か揉めている気配でそのうちに本格的に口喧嘩のような様相を示してきたので、途中から授業内容をリスニングに切り替えることで静かにさせた。生徒たちにリスニング問題を解かせている間は、自分がやることは音響機器の操作だけだ。
授業の後半をそのようにしてやり過ごし、チャイムが鳴ると、皆月は黒板を消し始めた。
消しながら、さきほど何か揉めていた女子生徒二人を観察した。
上野ひなと
「ほんとだってばあ」
と、上野がやや大きな声を出したのが耳に入った。
「馬鹿馬鹿しい」
と瀨尾が撥ねつける。
皆月が見ると、瀨尾と目が合った。
瀨尾がすかさず、
「せんせ、こいつバカみたいだから注意してよ」
と、投げやりな口調で言った。
「どうした」
皆月は顔をしかめながら二人の机のところに行った。
「こいつ、霊が見えるって言うのよ。小学生じゃないんだからさー、そんなこと言ってるの、幼稚だよ」
「ほんとだもん。タイガたちと
「やだー! あたし怪談苦手って言ってるじゃん」
「怪談じゃなくて」
「おいいいかげんにしなさい。くだらないことで喧嘩するな」
皆月がたしなめると二人とも不貞腐れた顔をした。
本当にくだらない。
「もう先生は次の授業あるから行くぞ」
踵を返そうとする皆月の肩のあたりを、上野ひながすっと手をあげて指差した。
「でもあたしほんとに見えるから……ほら、先生の後ろにも……いる。先生の、知っている人たちだよね」
「ぎゃーーっ、やめてよね!!」
「瀨尾うるせーっ」
「オメーがうるせぇよ」
近くの席の男子が
皆月はため息をついた。
「お前ら次、音楽じゃないのか」
それを機に、生徒たちは音楽室への移動のためにバタバタし始め、皆月も廊下に出た。
上野ひなは注目を浴びたいために適当なことを言っているだけだということはわかっていた。しかし、動悸のするような感覚に皆月は陥っていた。
先生の、知っている人たちだよね。
耳の奥で蝉の鳴き声がする。
違う。
ただの耳鳴りだ、これは……。
ふいに目の前が昏くなった。
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