最高の居場所

くまのこ

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 久々に定時で退社した俺は、自宅の最寄り駅を出てから、夕食に何を食べるか迷っていた。

 まだ早い時間だし、居酒屋で一杯やってから帰っても余裕がある。

 いや、いつものスーパーで値引き弁当とビールとツマミでも買って帰るか……そんなことを考えていると、スーツ姿の男が声をかけてきた。


「おーい、俺だよ俺」


 一瞬、相手が誰か分からなかったが、高校時代の同級生だと気付いた。

 彼とは高校の三年間を同じクラスで過ごした仲であり、俺は胸中に懐かしい気持ちが湧き出てくるのを感じた。

 時間があるからと、俺は同級生と共に、気に入っている居酒屋に入った。

 同級生は、単身赴任で一時的ではあるが近くに住んでいるという。


「しかし、凄い美人な嫁さん貰ったんだな。驚いたぜ」


 近況を報告し合っていた中で飛び出した相手の言葉に、俺は目を丸くした。


「いや、俺はまだ独身で、わびしくワンルーム暮らしだよ」

「えっ? 先週の日曜日、近くのスーパーで、お前が若い美人と仲良く買い物してるところを見たぜ? 恋人というよりは、どう見ても夫婦って雰囲気だったし、邪魔になりそうで声をかけそびれたんだ」

「それだけは、ありえないな……その日、俺は休日出勤で遅くまで会社にいたし」

「そうか? まぁ、世の中には似た人間が三人はいるっていうからな。あとは、ドッペルゲンガーとか」

「ドッペルゲンガーって、会ったら死ぬってやつじゃん。お前、相変わらず、そういうの好きだな」


 他愛もない話に、俺たちは笑いながら酒を酌み交わした。



 それから数日ほど経った、休日の夕方。

 備蓄してあった食料もビールも残り少なくなった為、俺は近所のスーパーへ買い出しに出かけた。

 すると、いたのだ。

 俺によく似た……というか、瓜二つな男が。

 傍らには、上品そうな若い美人、それも、あつらえたように俺好みの女がいる。

 俺は、先日会った同級生の話を思い出した。


――そっくりさん、本当に、いたんだ……しかも、生活圏が被ってるのか。俺が見たのは今日が初めてだし、最近、近所に引っ越してきたのかもしれないな。


 何となく、相手の視界に入りたくなくて、俺は商品棚の陰に引っ込んだ。

 よく見ると、「そっくりさん」は髪型も服装も俺より垢抜けていて、雰囲気的には向こうのほうがイケメンだ。

 おそらく妻であろう美女と仲睦まじく買い物をしている「そっくりさん」の姿は、自分が未だ手に入れられずにいる「幸せ」のような気がして、俺は少し憂鬱になった。

 俺も、これまで生きてきて付き合った女くらいは幾人かいる。

 ただ、一生添い遂げたいとまで思える相手はいなかったというだけだ。

 しかし、「そっくりさん」の妻は、見た目だけでも俺の理想そのものだった。

 なぜ、その隣にいるのが自分ではないのか……醜い嫉妬と分かってはいても、俺の胸の中に生じた不快なモヤモヤは、簡単に消えてはくれなかった。


 翌日、出勤する為に最寄り駅へ入った俺は、混み合う改札口の前で、誰かに肩をぶつけてしまった。


「すみません!」


 そう言って見た相手の顔は、俺……の「そっくりさん」だった。

 向こうも出勤途中なのか、スーツ姿だ。


「あ、いいえ、私こそ不注意でした」


 一瞬驚きの表情を見せた「そっくりさん」は、軽く頭を下げると改札を抜けていった。

 近くに住んでいるなら最寄り駅も同じだろうし、出勤時間が被ることもあるだろう。

 先刻、彼が見せた驚きの表情は、向こうもまた自身に瓜二つの人間がいるのに気付いた為かもしれない。そんなことを考えつつ、俺も職場への道を急いだ。

 それからも、「そっくりさん」を見かけることが度々あった。

 明らかに、互いの存在を認識する時もある。

 単なる偶然と自分に言い聞かせ、気にしないようにしていたが、ふと、ある時点から「そっくりさん」の姿を見かけなくなっているのに気付いた。

 引っ越しでもしたのだろうか――などと思いながら、いつものスーパーで買い物をしていた俺は、「そっくりさん」の妻が一人で買い物をしているところに出くわした。

 向こうが俺の存在を認識するのは、おそらく初めてと思われた。

 彼女は、俺の顔を見た途端、大きな目を更に見開いて、足早に立ち去った。

 旦那と瓜二つだから驚かせてしまったのかもしれない……「そっくりさん」の妻の背中を見送りながら、俺は思った。

 それから、俺は出勤途中や近所への外出の際に、「そっくりさん」の妻と顔を合わせる機会が増えていった。だが、やはり「そっくりさん」本人と会うことはなかった。

 ある休日の午後、俺は消耗品の補充をする為、近所へ買い物に出た。

 用事を済ませて帰宅しようとしたところで、背後から女の声が聞こえた。


「あの、すみません……少し、お時間よろしいでしょうか」


 振り向いた俺の前に立っていたのは、あの「そっくりさん」の妻だった。

 

「突然で驚かれたと思いますが……どうしても、貴方にお話ししたいことがあって」


 どこか思いつめた様子の「そっくりさん」の妻を無視することもできず、俺は、彼女と共に近くの喫茶店へ入った。

 アイと名乗る「そっくりさん」の妻が俺に告げたのは、夫が事故で亡くなった、という事実だった。

 言葉を交わしたこともほとんど無かったとはいえ、自分と瓜二つの人間が死んでしまったという事実は、俺にとって衝撃であると同時に、奇妙な安堵感に似たものをもたらした。


「貴方を初めて見た時、あまりにも亡くなった夫に似ていらしたので驚いてしまって……それから、外に出た時は無意識に貴方の姿を探すようになっていました。別人とは分かっていても我慢できず、とうとう声をかけてしまいました。ご迷惑に思われたでしょうし、申し訳ありません」


 そう言ってハンカチで涙を拭うアイは、仕草も表情も美しかった。

 

「迷惑だなんて、そんなことありません。あなたの慰めになるのであれば、これからも、お会いしたいと思うのですが……」


 言ってしまってから、初めて会う相手に対して、さすがに図々しいのではないかと俺自身も思った。

 しかし、そんな思慮分別など吹き飛んでしまう程に、目の前のアイは魅力的なのだ。

 俺の言葉に、アイは、ほっとした表情を見せた。どうやら、悪い印象を持たれずに済んだらしい。

 その日を境に、俺は時折アイと会って話すようになった。

 近所の喫茶店やカフェなどで、日常の他愛ない事柄や趣味について話すといった、淡い付き合いだ。

 アイは俺に亡き夫の面影を重ねているのだろうが、俺にとっては、彼女と過ごす口実になるのであれば何でもいい。不謹慎かもしれないが、「そっくりさん」が死んでくれて幸運だったと思わないこともなかった。

 最初は一、二週に一度くらいだった「デート」の間隔が次第に詰まっていき、やがてアイが俺の部屋へ食事を作りに来るほどに、互いの距離は縮まっていた。

 一緒に過ごす時間が長くなっても、アイは変わらずに俺を気遣ってくれるし、料理や他の家事も完璧で、正に理想の女だった。

 アイを誰にも渡したくない……そんな思いが強くなった俺は、とうとう、彼女が部屋を訪ねてきた機会を捉え、告白した。


「たとえ亡くなった旦那さんの代わりでも構わない。一生、貴女の傍にいさせて欲しい」


 言ってしまってから、俺は判決を待つ被告人のような気持ちだった。

 アイは、長い睫毛に縁どられた大きな目を見開いた後、可憐な花のような微笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。きっかけは、貴方が亡くなった前の夫に似ていることでしたけど、今の私は、貴方そのものが好きです。これからも、一緒にいてください」


 アイの言葉を聞いた俺は、たまらずに彼女を抱きしめた。

 俺たちは、早速、二人で暮らす為の準備を始めた。

 アイが住んでいるのは、前の夫が生前に一括払いで購入した一軒家で、当然ローンの支払いなどもなかった。

 更に、前夫が事故で亡くなった際に多額の保険金が入った為、アイ一人なら暮らすには困らない程度の貯金もあるらしい。

 別に彼女の資産など俺は気にしていなかったものの、思わぬ幸運と言えた。

 籍を入れて同居するようになっても、アイは妻として甲斐甲斐かいがいしく俺に尽くしてくれる。

 専らコンビニ弁当か社員食堂の定食だった昼飯は愛妻弁当に、仕事から帰れば温かい食事が用意されており、既に沸いている風呂にのんびりと浸かって、清潔なベッドでぐっすり眠れる毎日……掃除洗濯など細かい雑用に煩わされることもない生活は、夢のように快適だ。

 まるで「そっくりさん」の居場所を、そのまま貰ってしまったかのような気もするが、自分が何かした訳でもなしと、俺は訪れた人生の春を謳歌していた。


 やがて、結婚してから一年が過ぎた。

 今日は記念日ということで、何とか定時に退社した俺は、予約したケーキを店で受け取り、家路を急いだ。

 帰宅すれば、アイが御馳走を作って待っている筈だ。

 うきうきとした気分で歩いていた俺の目に、道の向こうから歩いてくる誰かの姿が映った。

 互いが接近するにつれ、俺は胸の奥に、ざわざわとした何か不快な感覚を覚えた。

 こちらに向かって歩いてくるスーツ姿の男の顔を見た俺は、思わず声をあげそうになった。

 そいつの顔は、俺と瓜二つだった。

 すれ違う瞬間、俺に瓜二つな男が、にやりと笑ったような気がした。

 偶然だ、世の中には似た人間が三人はいるというではないか……そう思い込もうとした俺は、一方で「ドッペルゲンガー」の話も思い出していた。

 自分と同じ顔をした正体不明の何か……そいつと出会ってしまったら死ぬという都市伝説。


――待てよ、もしかしたら、今の男は、俺の居場所を奪おうとしているんじゃないか? 俺が、いなくなった「そっくりさん」……アイの前夫の居場所に収まったように……


 先刻すれ違った男は、自分でも区別がつかないと思えるほどに俺と瓜二つだった。

 奴が先回りして、俺の家に入っていたら?

 俺の居場所を取って代わられたりしないか?

 脳内に浮かんだ不穏な考えを打ち消そうと、俺は足早に自宅への道を歩いた。

 しかし、一歩ごとに胸中の不安と焦燥感は膨らんでいき、いつしか俺は半ば駆け足になっていた。


――奪われてたまるか……せっかく手に入れた最高の女と幸せな生活を……!


 と、目の前に、いつも通っている横断歩道が現れた。

 歩行者用信号が青い光を点滅させている。

 ここの信号は、一旦赤になると、次に青になるまでが長い――まだ行けると判断した俺は、横断歩道を駆け抜けようとした。

 突然、激しい衝撃を感じたかと思うと、俺は自身の身体が宙を舞っているのを感じた。

 なすすべなくアスファルトの道路に落下した俺は、頭の後ろで、何かがぐしゃりと潰れる音を聞いた。持っていたケーキの箱だろうか。

 もはや指一本動かすどころか、声すら出せない。

 自動車の急ブレーキ音の後、大勢の人間が騒ぐ声が遠くから聞こえたような気がした。

 そして、俺の世界は急速に色を失っていき、暗転した。


【了】

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