小説を書く

万願寺

小説を書く


 僕が小説を書く。

 この場には僕がいる。この場には僕がいるが、それ以外に確かなことがほとんどない。でも僕は小説を書けると思う。この世界で。

 なぜかというと、この世界は小説を書くのに適したほとんどの植物や鉱物、それらを化石化したようなひかる石、宝の石と書いて宝石というらしいのだが、僕はこの響きが好きではない。せめてほとんど、硝石、と言ってみたらどうだろうと思うのだが、それだと色のない透明の、いわゆる、「がらす」のことになってしまうという。感慨だ。もとはみな同じ、いや同じでなく、ひとつとして同じでない違う石なのだが、石なのに宝になったり成らなかったりしてしまう。それはどうに誰が願っても選別されカッティングされ、磨かれ、ひとの鑑賞にたえうるものになってしまうのだろうか。

 小説を書くのに適した石の類が多くあるという話だった。硝節。小雪。それらを掛け合わせて産ませて育ててやっと僕らの目に映る小説というある物語めいた語りの力になる。卵のかたちで生まれるそれは、通常白い部屋で育てられるとされる。でもそこに海の柄のカーテンがかかっていたり、もみの木色のタペストリーがかかっていたりしても、結局白い部屋と呼ばれるので、その実、みんなはどんな部屋でも育てていいと思っている。壁や天井が青だったとて、そこにかかるのが白の天幕であれば、白い部屋をいったい満たさないなにかがあるだろうか。そして白い部屋で育てられた卵(ようするに、まっくらやみでは育てるなということだ)は、ひにひに小さくなっていき、そのうち貌を整え、いつか小説のはじめの一字になる。今回僕が書こうとする小説の初めの文字はつまり「渇」だ。渇の一文字(これがそもそも一文字に見えない御仁も居るそうなのだが)のなかに、小説を始めるにあたっての全て、つまり、終わりまでが「全て」入っている。パッキングである。石の、硝節の、小雪の、情報を、卵の一文字におさめるまでに、人間(とよぶ、ここでは便宜上)たちは10億年は要したという。そんな果てしのない時間をついやして、人間(くりかえすが、便宜上だ。僕は人間主義者ではないと一応のお断り)は小説を、どうにかして一日、また一日と生き延びさせた。そうまでしてこの語りの形式がかれらになにを齎しただろうか。

 と、は、い、え、僕はかれらに感謝はしなければならないだろうと思う。僕はこのほとんど何も確定していない世界で小説を書く。この世界で僕が小説を書くということだけは確かなことで、確かなことというのは気持ちを落ち着ける、僕を生かすことに決めたという156代目の僕(僕にとっての唯一の知合い、「じいちゃん」だ)がよく言っていた。じいちゃんは僕の成長にはとんと関心がないらしかったが、というのも僕が何をできるようになり、何を食べ、好み、女の子や男の子と恋をし、どこでまぐわおうとも、それは全部157代目の僕の決定であり、なんの制限もないからだ。制限のない世界で、僕がどのように振る舞おうとも、そんなもの、もう何もしていないのと同じであるからして、自分のすることにいちいち興味を持てないのも道理らしかった。そんなじいちゃんの理路を理解できない僕は、ただ食事をくれるいい人と、そう思え、と「親」とよばれる機関から強く教えられていたので、そのようにした。わりと素直なたちなのかと思う。ただし156代目、じいちゃんがただひとつ細やかな欲望のさざ波を寄せたのが、僕の書く小説だった。今回も「渇」の字が出始めた時に、じいちゃんはうん、とうなずいて、その動作だけで、心が弾んでしかたないことを僕に伝えていた。このあたりは同遺伝子体として、利便がある。

 卵が「渇」になって、その後、いつかこの小説が完成するだろうが、「じいちゃん」は「渇」を読むことはないだろう。それでも楽しそうに頷いた。「渇」の内容は想像したのだろうか、内容は卵から成鳥になるまで、小説を書いた本人にしか知れることはなく、同遺伝子体でもそうである。僕がこれまで書いた小説は「幾」「霊」「沓」「輪」の四篇で、じいちゃんはそれらをそれぞれ一度だけ読んだ。それから「ファンレター」を書いていた。これは親とよばれる「機関」が定期的に回収に来て、僕のあとに生まれる同遺伝子体の細胞の隙間に流し込まれるということだ。僕の小説に宛てた「ファンレター」が僕に関与することはない。そんなことをしたら小説が汚れてしまうというのが上位のものたちの理論だ。横暴だな、と思うものの、10億年はだてではない。この方法で小説が存続してきたのなら、無為に踏み越えてはいけないものもあるのだろう。

 小説はきれいなまま、できるだけ日当たりのいい部屋で、風を通しておくのがよい。小説を書く遺伝子体は、できるだけすくない他個体との接触に抑えるのがよい。決まりはいろいろある。情緒というものはあまり推奨されない。ただ、心配しなくても、僕には生まれつき情緒の値がぜろに近く設定されていたので、小説が壊れるという事故にも今後見舞われないだろう。じゃあ、それで、僕はあまり何もものをしらない(発生から15年しか経っていないのだ)まま、それなりに小説を書いて、それなりに他の個体からのファンレターを貯めている。じいちゃんの手腕、つまり、育て方がよかったのかもしれない、じいちゃんは僕を育て、僕は卵を育て、字になり、つまり成鳥になったその小説を、静かにスープにして飲み込んで、小説を書き始める。ファンレターが多ければ多いほど、次の同遺伝子体は、書ける小説の数が増えるというが、じいちゃんは「迷信だ」と切って捨てていた。小説がこの世に増えるのは上位のものたちにとって喜ばしいこととはいえ、僕や他個体にはその恩恵がない。それでも小説は生まれる、石を掛け合せて、翔節が、消雪が、詳説が届く。卵は白い部屋で育つ。成鳥をスープにして僕が飲む。

 渇。

 始まる。



 渇いた手足を潤すのに、素晴らしきキスはいかが?

 この街は生きる性暴力だ。

 そこかしこにそんなコマーシャルを携えた、裸に近いような格好の、たとえば赤いバニーガールとか、黒い逆バニーボーイなどで溢れている。ここを歩かなければいけないたび、本来フーバードは辟易しなくてもいいはずだ。生殖機能および性交機能を有していないし、性的な欲望を刺激する一連のどぎついパフォーマンス、あるいはキスやセックスなどの単語、目にもあやかに溢れる肢体のかずかずに、おそらく何も感じないのが「本当」なのだろう。これらを嫌悪する個体というのは基本的に生殖機能や性交機能を有していて、それを知るがばかりに忌避するというのがセオリーだ。本来フーバードにはそれにプラスもマイナスも無いはずだが、「うう気持ち悪い、」とどうしても零してしまう。隣を歩くハウハイは、いちいち繊細なやつだな、と目を細めて今回も呆れている。

 依頼は簡単だった。この色恋を商売にする、または性的行為が世界の中でもっとも尊いという価値観で生きているものどものホール・シティでひとりのピンクミドリガメ(メス体)を探し出し、伝言を伝えろというものだ。街に入ったばかりでもうやる気をうしなっているフーバードを尻目に、ハウハイはてきぱきと聞き込みを進めている。基本的に優秀な男だ(ポンコツ同士を組ませても仕方がないだろうので、上はよく考えているものだと思う)。

「理論河沿いの、なんとかいうサーカス小屋だそうだ」

「早いな。踊り子?」

「それが、どうもそうでもないらしい」

 街の南北を感情河が走り、東西を理論河が突き抜ける。街の狂った猥雑さに対して、交通は整然としている。二つの運河と通りは平行に、あるいは垂直に通っていて、運河沿いに一番流行りの店が並んでいる。もう少し手が掛かるかと思ったが、大店(おおだな)で働いているラッキーに見舞われ、意外にすぐ割れた。

 今をときめくとびきり刺激的なエロチック・サーカス広場、であるらしい『シャイニー・ストッキングス』、今夜の開演はお待ちかねの270時。人体時間にして、まだあと二時間は先だった。二人はサーカスの客ではないので、何の遠慮もなく裏口からカーテンをくぐり、そのへんでまぐわっていたシロカネクロエビの男女は無視して、けだるい目線を呉れているアカバネバトの女に、もの言われるまえに訊ねた。

「ここの小屋にピンクミドリガメはいるかい?」

「警察? 探偵? ならず者? なんでもいいけど開演前に揉め事はやめてね」

 すぐには答えてもらえるとは思わなかったが、フーバードのことばに女は(もちろん男である可能性もあるが、声色から女と呼んでも失礼には当たらないだろうと判断)逆に聞き返した。

「善良な運び屋だよ。ピンクミドリガメのメスを探してる。伝言を伝えるだけだから、おっかないことは何もしないよ」

「……うーん、残念ながら、いない、かな」

「今まではいたってこと? 逃げた?」

「今までもいない。逃げただの逃げないだのおっかないこと言わないで、ここはべつに無法地帯ってわけじゃない」

「わかってる。ごめん。じゃあここのサーカスにピンクミドリガメのメスは今までも今もいない、しかしこれからはわからない、と」

「くどいな。聞かれたことに素直に答えてるってのに、やくざはこれだから好きになれない」

 ハウハイが、フーバードの左肩に手を置いて軽く力を込めた。ここは一旦引こう、の合図だ。アカバネバトはこの辺りでは珍しく紙煙草の愛好家らしく、灰皿に殻があふれている。ハウハイが一歩進み出て、よければ、と水色のパッケージが眩しいハイライトだかなんだか言う紙煙草の箱の開け口を向けた。

「ありがとう」

 女は少し浮かされたそれを箱の中から一本取って、すぐに口に持っていき、火をつける。薄暗いサーカスの舞台裏に一瞬光が生まれ、女のうつくしい容貌がつかの間照らされた。鳥類のなかではそうとうな美女に入るだろう。踊り子という格ではなさそうだ。

「今日のショーが終わった後に来なさい。ピンクミドリガメなら一匹いる、ただしメスじゃない。会わせてやってもいい」

 女が明らかに声色を変える。多くの者を束ねる冷たい威厳を漂わせて、なぜか少しの慈悲を見せた。

「あれのことは私もまあ気にしていないわけでもない。不憫な子だよ」

 フーバードとハウハイは一瞬の目配せをして、そのまま黙ってサーカスの小屋を出る。

「いや、おっかねえ」

「支配人はクロイロニジトラの男と聞いていたが」

「手術の跡もなにもない綺麗な鳥に見えたがな」

「人相見はお前のほうが得意だろう」

「おれでもお手上げだよ、あんなスーパーマン。元軍人らしいからな、もともと変装も得意なんだろう、まあそんな『前世』の話は無粋か」

「軍人か」

「案外お前の顔も割れてたのかもしれんな」

 煙草のための灯りで面が照らされたのは、女だけでなくこちらもだったのか。ハウハイもそれなりに高位にいた軍人だ、どこかですれ違ったことくらいはあるのかもしれない。

「これからどうする、と聞いても意味がないか」

「できるだけいかがわしくない店で酒が飲みたい」

「そうだろうな」

 平気な顔をしていても、先ほどひっきりなしに上がっていたシロカネクロエビの男女の交合の声が、フーバードのいわゆる「繊細」を消耗させていた。

 感情河と平行する南北の通りを東側に二つ入る。運河から離れたそこはほとんど街の辺縁だった。ホール・シティは大きな街ではない。旅人が活用するタイプの宿屋の一階の粗削りで朴訥としたバーには、もうそこまで性のにおいはなかった。こんなことでほっとするのも情けないような、面倒なような気もするのだが、ともかくフーバードは人心地ついて、やっとラズベリーの(ハウハイによれば「およそ信じたくないほどの甘さ」の)酒をごくごくと飲んでいた。ハウハイはいつもの、なんとかいうシングルモルトだ。仕事中だからというわけでもなく、もちろんそんな殊勝な精神は二人とも持ち合わせていない、ただ単に話すことがないので、二人はよく黙って飲んでいる。つまみのチーズはとくにまずくはないし、店主は寡黙そうな、というより草臥れて声を発さないであろう雰囲気のクロモクフクロウのじじいであったし、それなりに良い酒だった。

「カップル?」

 浮ついたような、年齢を判断しがたい高い男の声にふたりが目をあげると、シロツメヒツジのオスだった。年齢はまあ四十代といったところだろうが、それにしても軽薄な印象をあたえる男である。瞬時にかかわりあいたくないなと判断した二人は首だけでノー、の意をしめす。

「なんだ、違うんですかい。旅で?」

 上は宿屋なのでそう問われても不思議ではないのだが、意図がわからないし、これ見よがしにうさん臭かった。

「用事があって来ただけだ。何か用かな」

 こういう時の渉外役はフーバードと決まっているので、面倒くささを出しつつも、邪険にしすぎない程度のテンションで応じる。酒場は情報の売買の場でもあるし、大物には見えないが、だからといってぞんざいな対応をしていい相手と決まるわけではない。

「今夜のショーのチケットはもうお手配済みで?」

 サーカスを出るところから尾けられていたらしい。一瞬フーバードが嫌な顔をすると、まあそう警戒せずに、と宥めてくる。

「今日のはとくに人気の演目ですから、当日券の販売はもう昼に終わっちまったんですよ」

「……ダフ屋?」

 にしても、ダフ屋がこんなところまで営業をかけに来るか? と、フーバードはハウハイを一瞥する。「警戒強め」の表情を崩していない。

「とある筋からの特別招待券なんてものを余らせていましてね、紙くずになるよりはあなた方に譲ったほうが券もよろこぶかと」

 にこっと本人は笑みを作ったつもりなのだろうが、胡散臭さが前面に出てしまい、にやついているようにしか見えない。

「……はぁ。それで? アンタもピンクミドリガメに用なのかい」

「こりゃ、頭の切れるお方は話が早くて助かるってもんで。なに、『そいつ』にある言葉を伝えてほしいだけなんですがね」

 フーバードが片眉だけ上げて面白がると、ハウハイもわかりづらい仏頂面をやや驚かせていた。

「その言葉ってのは」

 問えば、なにやら圧縮された言語でシロツメヒツジは三語ほどつぶやいた。意味はわからないが、フーバードは耳がいいのでそれをそのまま復唱した。それを聞くと、おや、発音もいい、などと相変わらず小ばかにしたような口調で称賛され、その蹄がチケットを二枚差し出してきた。

 フーバード達は別にショーを見る必要はない。アカバネバトの女からはショーの後に来いと言われただけだ。ピンクミドリガメが出演者なら、その風貌を確認しておくくらいしか、ショーを見る意義はなかったが、ここにきて二方向からの伝言となると、なかなか首を突っ込まずにはいられなかった。さっさと伝言を聞いてチケットを受けとったフーバードに対して、俺は関与しない、の顔で早速ハウハイが澄ましている。

「じゃ、確かに頼みましたんで。物語に羊がいると、喜ぶ御仁も多いでしょう。それじゃ旦那方、お願いしまさあ」

 言うとシロツメヒツジはスツールからぴょいっと降りると、勘定もせずにそのまま酒場を出て行った。

「似ているな」

 ハウハイが言う。伝言のことだ。上のじじい連から貰ったはした金の仕事だが、シロツメヒツジの伝えてきた伝言(おそらく暗号だろう)は、最初にピンクミドリガメに伝えろと言われたもの、これもフーバードの記憶と舌の上にしかないのだが、は、非常に酷似していた。ただ、最初の伝言は二語で、今のは三語、真ん中に新しい語が入っていた。

「相反する二つの命令というところか」

 こういう時に挿入されるのは否定語と相場が決まっている、などと格好つけて考えてみるものの、フーバードの推理もハウハイと同じであったし、全部先に言われた。

「さてミドリガメのお嬢ちゃんはどっちを選ぶのかねえ。俺たちに関係なきゃいいけど」

 しばらくまた黙って飲んで、270時の550刻み前で店を出る。

 感情河まで突き当たってから理論河に向かうと、サーカスの前はもはや結構な人出であふれていた。ホール・シティのサーカスなのだから、内容も当然性的だったり過度に恋愛的だったり、あかるく色情的だったりするのかと思うと、フーバードはすでにげっそりしてきた。そしてもちろんその予想は正しく、ショーが始まって、やはり一旦外で時間を潰してこようか、と元から青い顔をさらに青くさせ、本気で逡巡していると、ハウハイがちらりと視線を向けてきて、『二つ目の依頼を受けたのは自分ではなくお前である』と目だけで如実に語ってきたので、仕方なくステージに顔を戻した。特別招待券といっても特別席への案内があるわけではなく、入った順の立ち見だったため、ふたりは後方の右手側で、男二人が目立たないように(といっても、男のカップルも女のカップルも男女のカップルもあふれているので目立ちようがなかった)ショーの客としては及第点はつけられない態度で棒立ちしていた。

 フーバードが「なんらか」を耐えているうちに、約90時間のショーはあっという間にフィナーレを迎え(演目の紹介は割愛、ご想像にお任せしたい)、演者のほぼ全員と思われる面々が、可能な範囲で体を動かし、これまたどぎついダンスを踊っていた。表情はみな晴れやかで、これはどのような舞台にも見られる、汗の飛沫がスポットライトにかがやく瞬間が隔てなく訪れていた。客の足元の間をフラワーガールと呼ばれる、チップを集めるためのまだ幼体のものたちが頭上に大きな籠を支えながら、客のチップと往復するように、せっせせっせと花を撒いている。フーバードもルード紙幣を二枚、やけくそな気持もありつつ近くをちょこまかとうろつく籠に投げ込んでやった。

「おい」

 その瞬間、ハウハイに強く右手の袖を引かれる。

「あ」

 と同時に間抜けな声を上げたが、優秀なものはこういうときにいつも僅差で早いからして、優秀と呼ばれるのだ。

 ワタボウシウサギやモリネコの幼体に混じって、ピンクの前脚が覗く。なるほど、確かにそのピンクミドリガメは便宜上フワラーガールの衣装をつけてはいるが、性分化前の個体らしかった。メスではなく、踊り子でもないピンクミドリガメは、花を撒き終わっても一生懸命に手を振りながら、頭上の籠を抑えて歩き回っている。客席の歓声もまばらになってくると、フラワーガールたちはおのおののコースで舞台へ帰ってゆき、それぞれ一礼して暗幕の束の後ろに消えていった。互いに目で合図して表へ出、フーバードとハウハイは昼間くぐった裏口へ回った。

 律儀なたちなのか、裏口からすぐの舞台裏に、アカバネバトの女が足元にピンクミドリガメの幼体を連れて、きっかりと仁王立ちで待っていた。

「手短に」

「わかってるよ」

 釘を刺されたフーバードは早速ピンクミドリガメと目線を合わせるようにしゃがむ(尻尾が湿った床について不愉快だった。)。昼とは違い、豆電球程度の灯りがかしこに点いており、どうにかその表情が窺えた。想像していたような怯えは子供になく、フラワーガールとしての仕事を遂行していた際の笑顔は別人だったかと疑うほどに感情がない。

「どこかの大人から、きみに伝言があるから、よく聞いてほしい。誰からかは俺たちにもわあからないんだが。悪いな」

 とうに達者に言葉をあやつる年齢と見えたが、そのフラワーガールはフーバードの目こそ見返したものの、無表情のまま何とも発さない。

「ん?」

 いいか? の意を込めてもう一度意思確認をしようとするが、子供は沈黙して、ただフーバードの目玉の奥の眼窩まで見透かすようにして、動かなかった。

「口がきけない子供だ、いいからそのまま続けろ」

 叱責ともとれるようなトーンでアカバネバトに急かされ、はいはい、と心の中だけで返事しながら「じゃあ行くぞ、」と最後の確認をその湿った黒目に語りかけた。少しだけ子供の頭が揺れた気がした。

『エる クォターん』

 フーバードがそのスペルを舌に乗せた時に、その瞳孔がはっきり開いたのが見えた。少女の格好をしたそのミドリガメは今までの制止が嘘のようにいきなりに体の向きを変え、

「エlクォツmn」

もはや聞き取れない程の速さでそのスペルを「唱えた」。

 そして、アカバネバトの女の全身が炎に包まれる。舞台裏は一気に熱と光のもとに曝け出され、ちかくの燃えやすいものはすでに灰になって燃え始めている。

「おいおいおい口がきけないんじゃなかったのかよ!?」

「行くぞ」

 強くハウハイに腕を引かれたが、そして本能から激しくその場から身を逃すべきと伝えられていたが、これで終わるわけには行かなかった。

「いや待て! 伝言はもう一つあるんだ!」

「そんな場合じゃない」

 強くなった力を振り払い、ピンクミドリガメの後ろ姿に近づき、両肩をつかむ。子供自身の衣装も、もはや燃え始めている。それでもまた貼り付けられたように、そこに棒立ちだった。

「なあ、伝言はもうひとつあるんだ、聞いてくれるか」

 ピンクミドリガメはゆっくりと振り向く。

『エる ドム クォターん』

「……える、どむ、くぉたーん……」

 その黒目は相変わらず昏く深かったが、よく見ると涙がうかんでいた。フーバードの鍵つめの先にもいまにもほのおが移りそうだった。暑いというよりも頬の皮膚が痛い。

「エる ドム クォターん」

 正式なスペルがその口から発されると忽ちに全ての炎が消え、そこに膨大にあった光と熱もまるで嘘だったかのように感じられた。ただし、燃えたものは戻っていなかった。

 アカバネバトの黒焦げの体が横たわっている。ピンクミドリガメはそのそばにしゃがんで、しくしくと泣き始めてしまった。


「あんた達が救急を手配してくれたんだってね。礼を言うわ、ありがと」

 ごく軽くそう言うと、包帯の間から覗くひとみは穏やかそうだった。やはりおそろしいほど整っている容貌なのだろうが、今回は白い布でぐるぐる巻きでまたそれを確かめることはかなわなかった。アカバネバトの口調は初めに舞台裏で迎えられた時のものに戻っていた。

 そばのスツールには、例のピンクミドリガメの女の子が(病院での一応の検査の結果、幼体からメス体への変化の途中であるとのことだった)足をぶらぶらさせて大人しくしている。

「いや、それはいいんだが、……正直、俺たちには何が何だか」

 とりあえずホール・シティのレスキューにコールして隊が到着するまで、フーバード達は黒焦げのアカバネバトのからだを動かしもせず見守っていただけだ。レスキューから、ショックで気絶しているが、表面がこんがり焼けただけで命に別状はないと聞き、仕事も終えたので二人は街をあとにした。その二日後。じじい連から差し出されたのはホール・シティの市長のサインがなされた、市立病院の住所だった。

「例の呪文を覚えてる?」

「呪文……俺たちが『持たされた』伝言のことか」

「あれは、ピンクミドリガメの幼体だけが使うことのできる、防衛の魔法なの。あんなもの伝えるのがわかってたらあんた達、出禁にしてたのに」

「そりゃ悪かった。が、ピンピンしてるってことは、お前さんもそうとう変梃な体になってるみてえだな」

「そうね。まあ普通の動物とは言えない」

「それにしてもわからねえのが、二つ目の伝言……といってもお前さんには伝わらないか。まあ忘れてくれ」

「羊に会わなかった?」

「……胡散臭いシロツメヒツジのじじいか?」

「市長よ」

 声には出さなかったが、フーバードもハウハイも、うげ、という表情になるのは隠せなかった。

「さいわい、小屋の大部分は燃えずに済んだ。市長はほんとうに昔からの、うちのご贔屓様なの。別にお忍びってわけでもない、これは公開情報だから安心して」

「……まあしかしうまく使われたんだろうが、ずいぶん目の効く羊だな。さすがは『物語の羊』」

「……あの人は街によそものが来ると、趣味でつける癖があるのよね。それで例の呪文を聞いたのかもしれない。あの呪文には意味があって、『お前の親の仇を取れ』、そしてその否定形が、魔法の打ち消しを意味する。よくある仕組みでしょ」

「だからってなんでお前さんが燃えたんだ」

「その子の母親を殺したのは私だから」

「……本人を前にしておっかねえことを言うなあ」

 でも、事実なの。これはその子も知っているし、私が何度も教えてきたこと。聞けば、ピンクミドリガメの子は、およそ2億拍、人体年数にして三十年は卵のまま還らなかったのが、先年の秋に急に殻から出てきたらしい。冬を越えた今時期が、あの呪文を使える最後の期間だったのだろう。アカバネバトの暗殺は未然に防がれた訳だが、純粋な暗殺というわけでもなさそうだった。

 お前の親の仇を討つな。打ち消しのスペルは単純に考えればそういうことになる。お前の親の仇を討つな。スペルにする前に、子供は一度、くちのなかで転がすように呟いていた。

「その気になったらいつでもあたしを殺しなさいって、その子には言ってあるんだけど」

 本人には、どうもその気はなさそうに見えるが。思ったがこれも言葉にはしなかった。正直、この子供にとって、育ての親はアカバネバトなのだろう。普段から親の仇である自分のことを殺せとけしかけていたのなら、最初のスペルに躊躇がなかったのも、そのあたりの事情はあるのかもしれない。それとも、心の底からの憎悪で、反射的にスペルを唱えたか、また何も喋らなくなったらしいこの子を前にして、誰もわからない。

「これで粗方の謎は解けたんじゃない? どう、納得できた」

「まあ、いいよ。俺たちは報酬はそもそも貰ってる。ただあんたに死なれたら目覚めがわりいなとは思った」

「やくざにしては優しくて、あんた気持悪いわね」

「ありがとよ」

「でも、こちらこそ、あと一つだけ礼を言う。今日ここに来てくれて、ありがとう」

「ん?」

「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」

 聞き慣れない響きの惑星語だったが、隣の男が反射的に背筋を伸ばして踵を鳴らしたので、ぴんと来た。

「生きていたのだな。よかった」

「……」

 対して、ハウハイは何も発さない。仕方ない、この男には、じじい連の事務所に拾われるまでの記憶がないのだ。

「じゃ、ふたりとも、もう喧嘩すんなよ」

 言ってフーバードが病室から出ていくと、続いてハウハイも目礼だけして付いてきた。

「お偉いさんと話さなくてよかったのか」

「今の俺ではなく、前の俺の知り合いなら、俺の知り合いではないからな」

 しかし怖いな、軍隊ってのは。名を呼ばれただけで、敬礼までしそうになってたぜ、お前。そうからかおうかと思ったが、それもまた意味がないかと、やめた。代わりにスモーククロヒョウの相方の背中をばん! と音がするほど叩いた。ハウハイは少しもよろけずに歩き続け、フーバードはまた街の看板やら呼び込みの文言やら、そのあたりに散らばる性的なコマーシャルに辟易し始めた。


 「渇」にパッキングされた中身はつつがなく僕の小説になったが、案の定「じいちゃん」は去っていった。もちろん書かれる前の小説にファンレターを書くことはならず、じいちゃんが「渇」に対して示した動きはうなずき一つということだった。158代目がすぐに来て、僕のことを「兄さん」と呼び始める。

 僕は小説を書くが、158代目は小説を書くわけではない。じいちゃんも書かなかった。不確かなものばかりのこの世界で、小説を書く個体は多くはない。(少なくもない。)158代目のことは、僕は「弟」と呼ぶことに決めた。弟は飛行機を作り、飛ばし、みずからもそれに乗る技量を持ち合わせていた。飛行機はわたあめくもの雲母を食べて飛び、世界に小説を届ける仕事をする生物群だ。その仕事のために弟はよくいなくなる。きれいなもので、小説を有理数の曲線でびゅんびゅん上位のものの家屋に飛ばしていく。その小説は誰の書いたものであるのか、何ができて、何ができない小説なのかにより、飛行機が判断して容赦なく飛ばしていく。上位のものは、小説を読んでどうするのか、そもそも読むのか、いったい読んでなにになるのか、僕達には知る由もない。じいちゃんは小説を一度だけ「読んで」いたが、僕達のような個体にはそれが限界のようだ。個体は小説を「読む」ものだと思っているが、なにせ10億年かけて人間(重ねて言うが、便宜上)が存続させ続けた機構なのだから、相当重要なものではあるはずだ。小説がないと生きてはおれない、とでもいうふうに。不思議な存在だ。【これ以上のかれらへの思考権限は僕達にはない】

 弟が今日も帰ってきて、あといくつの小説を書いて僕が去るかを言い当てた。それが幾つでも、僕はこの卵たちが小さな字にすがたを変えていくようすを注意深く毎日見守る。見守るだけが仕事といってもいい。

 と、は、い、え、仕事などというものの内容も概要も僕はよくわかっていない。これをするだけが僕の動いている理由で、上位のものは僕の小説を待っている。弟は僕の小説を読まないが、それを飛ばすことに燃えていて、やはり僕が小説を書くのを心待ちにしてくれる。書かなくてもいい。書かなくてもいいのだが、僕は小説を書く。ほんとうは、理由はない。ただ植生が。鉱物が。植物が。そう。

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