本物の恋に変わるとき
「ローレンスと、呼んでくれないのか?」
悲しげな声音で紡がれる言葉に、はっと顔を上げる。
婚約者のふりをしていた間は、彼のことは名前で呼んでいた。他でもない本人から要望があったからだ。
しかし、そんな不敬が許される間柄ではもうない。ローレンスはこの国の第二王子であり、ヴィオラはただの子爵家令嬢。いくら学園内は平等にという規律があろうと、臣下としての心構えを忘れてはいけない。本来、気安く話せる間柄ではないのだから。
この婚約は解消されなければならない。赤の他人に戻るだけ。難しくはない。だって、最初にそういう取り決めをしていたのだから。
ならば、他の女子生徒と同じように彼を殿下と呼ぶのは何らおかしくない。そのはずだ。けれど、正しいことをしたはずなのに、なぜか胸が締めつけられるように息が詰まる。偽装婚約中、じっと見つめられるのは慣れていたはずなのに心拍数が上がる。視線が痛い。
ヴィオラは浅い呼吸を繰り返しつつ、口を開けた。
「…………わ、わわわたくしは! 教養も機転も人脈も足りていなくて、とてもお妃様なんて務まりません。殿下には他にもっとふさわしい方がいます……! 決意を固めたわたくしの心をもてあそぶような言動はお控えください」
「そんな寂しいことを言わないでくれ。ヴィオラ、俺は君じゃなければ意味がないんだ。君をこんなにも愛しく思っている。この想いを消せと言われても、もう無理だよ。お願いだ、君はただ頷くだけでいい。教養はこれから身に付ければいい。機転はそういうのが上手な者に手ほどきを受けたらいい。人脈は一緒に築き上げていこう」
優しい声音はするりと心の中に染み渡っていく。
彼の言葉は、不安をひとつひとつ丁寧に取り除いてくれる。あれだけ固かった決心が鈍りそうになる。その隙を突くように、ローレンスが言葉を重ねる。
「……それとも、俺と一緒の未来はそんなに嫌かい?」
「い、嫌だなんて滅相もない。どんなときも共にあれればいいと、わたくしも願っています。けれど、ダメなんです。わたくしは……腹芸とか駆け引きとか、そういう小難しいの! たとえ学んでも実践なんてできません! だって……だって、わたくしは自分の性格を直せるとは到底思えませんから」
「…………。それが拒む理由?」
「は、はい。そうです。三つ子の魂百までと申しますように、わたくしはきっと死ぬまで今のまま変わらないでしょう。人間の根本的な性質はそうそう変わらないのです」
胸を張って言うことではないのは百も承知だ。
けれども、夢と現実を混同してもらっては困る。取り繕い方をいくら学んだとしても、根本的な部分は変えられない。だからこそ、自分は王族にはふさわしくない。うっかりボロが出て周囲に迷惑をかける未来しか想像できない。
彼の隣にいるべきなのは、身分も教養も美貌も兼ね備えた名家のご令嬢である。野山を駆け回り、美容やファッションより食欲を優先する残念な令嬢はお呼びではないのだ。
立ちすくむヴィオラに、ローレンスは柔らかく笑いかけた。
「直す必要なんてないよ」
「……へ?」
「素直な性格はヴィオラの長所だ。変える必要なんてない。俺が好きなのは、ありのまま君だからね。どうかそのままでいてほしい」
「いやいや、何を言っているんです。顔にそのまま感情が出る王族なんていないですよね!? 絶対に無理なやつですよね!? うまく丸め込もうったって、そうはいきませんよ。わたくしは騙されませんから」
セルフォード子爵家は取るに足りない弱小貴族だが、ヴィオラは何でも信じる父親とは違って警戒心は人並みにある。乳母から世の中の危険な事例を口を酸っぱくして注意され続けてきたのだ。
つまり、都合のいい話には裏がある。甘い汁を吸うだけ、リスクなんてひとつもない。そんな夢のような話は存在しない。
世の中には慈善事業ばかりする善人だけではない。悪事に手を染めた貴族は息を吸うように人を騙す。帳簿の数値を偽装する。裏社会の人間に一度カモにされれば逃げることは許されない。軽い気持ちで頷いたら最後、無事では済まされないのだ。あとから、あえて伝えていなかった、なんて可能性だって充分にあり得る。
むむむっと口を尖らしていると、ローレンスはゆっくりと起き上がった。それから警戒心の高い猫を手懐けるように、優しい口調で諭していく。
「嘘なんて言っていないよ。君みたいに純朴で優しい子は珍しい。裏表がないヴィオラと話すだけで俺はとても心が安らぐ。言葉の裏を読まなくて済むからね。肩の力を抜いて過ごせる相手というのは、案外なかなか見つからないんだ。ヴィオラのような癒やしを与えてくれる存在は貴重なんだよ。……君が離れてしまうと、俺は睡眠不足と食欲不振で過労死するだろうね」
「そ、それはダメです。ちゃんと休んでいただかないと」
どんなに万能な人でも休息は大事だ。
体力を過信し過ぎるのはよくない。若さを武器に無理をできる期限は決まっている。蓄積された疲労は忘れた頃にやってくる。「睡眠と適度な運動は、健康で過ごすために欠かせないものですよ。お嬢様」とは乳母の言葉である。ヴィオラはその教えに従って、テスト前だろうとなんだろうと、しっかり睡眠は摂っている。
王族に課せられた公務は多い。彼が不摂生な生活を送るようになれば、彼だけではなく周囲の人間も困ることになることは想像に難くない。
本気で心配しているヴィオラに、ローレンスは力なく微笑む。
「俺が心置きなく休むためには、ヴィオラが必要なんだよ。君がいてくれるだけで力が湧いてくる。頑張ろうと思える。君の笑顔はそれだけの力があるんだ」
「え、笑顔……ですか?」
「うん。特に美味しいものを食べるときの君の顔は特別だ。見ているだけで疲れが取れる。ああ、そうそう。王族の責務について思い悩んでいるようだったけど、難しいことは従者に任せればいい。優秀な側近を君につけよう。もちろん、俺がそばにいるときは俺が対処する。それで万事解決だ。サポートは任せて」
「うう。ローレンスさま……」
「素直になって、俺の気持ちを受け入れて? ヴィオラは俺が嫌い?」
自信なさげに苦笑され、心臓がキュッと締めつけられた。
この人を一人にしてはダメだ。
ヴィオラは貴族らしい建前をぽーんと放り投げ、心の衝動のままローレンスに飛びついた。力の限り、ぎゅうぎゅうに抱きつく。締めつけると言い換えてもいい。
苦しいだろうに、ローレンスは何も言わずにヴィオラの背中に腕を回し、昂ぶった感情を落ち着けるようにポンポンと軽く叩く。
その弾みで情けない涙がポロポロとこぼれ落ち、彼のワイシャツを濡らしていく。
「す……好きですうううう」
「うん。俺も好きだよ。これで晴れて両思いだね。俺と結婚してくれるよね?」
「ひぐっ……今すぐは無理ですけど……。妃教育に合格できた暁には、ローレンスさまの花嫁さんにしてください」
「ふふ。そういう現実的なところも好きだよ」
目尻に溜まった涙を人差し指ですくい、瞼にそっと口づけが落とされる。
キャパオーバーで目元を潤ませてローレンスを見上げる。彼はヴィオラの両頬を包み込み、こつんと額を合わせた。至近距離で澄み切ったアイスブルーの瞳が見つめてくる。
「ねえ、ヴィオラ。君はこれから妃教育で王宮に出向くことが増えると思う。その中でいろいろな出会いもあるし、将来の不安や課題も出てくるだろう。けれど、変わらないこともあるのだと覚えておいてほしい。俺は君との約束をこれから先も守るよ」
「……約束、ですか?」
「君に美味しいお菓子を届けること。今度、外国のお菓子も取り寄せてみようか」
魅力的な提案に、透明な膜を張っていた瑠璃色が輝きを増す。
「ローレンスさまは神様ですか!?」
「違うよ。今は君の婚約者。そして未来の夫だよ」
ローレンスは華やかな笑みを浮かべて訂正する。ヴィオラは感極まって婚約者に再び抱きついた。
偽装婚約しませんか!? 仲室日月奈 @akina_nakamuro
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