10話 "HIDDEN"
風が強い島だった。
エイヴァが生を受けたバハマは、対岸にあるアメリカ本土まで150kmの位置にある島国だ。かつてはエメラルドグリーン色の海に高い空が魅力で観光地として生計を立ていた国だった。らしい。
らしい、というのも、母親が子供の時に起きた世界的な核戦争のせいですべてが変わってしまっていたから。
彼女が覚えているのは紫色をした海と高い波だ。放射線のホットスポットとなった近海は、魚がとれても向こう30年は食べられないと言われていた。アメリカ大陸から吹く風は放射性物質を運び、雨となってバハマの土を
「おなかが痛いんよ」
母はよくベッドの上で腹部をさすっていたのを思い出す。父はエイヴァが物心つく前に亡くなっていたから、母と私のふたり暮らしだった。母が若いころの蓄えで女ふたりなんとか暮らしていた。
「エイヴァも20歳。はやく結婚相手を探してあげんとね」
これが口癖だった。高校を卒業してからたいした仕事もなく、農作業の手伝いをしていたわたしは無限の牢獄の中で行き場をなくしていた。
エイヴァは豊かな赤毛と口元を布で被い、埃っぽい農場で手を動かす。茶褐色の農地の先に紫色の海が見え、その先に一筋の白い雲が天空に向かって伸びていく。
「今日も飛んでるね」
同じ年代の友人が、振り向かずに声をかける。
「アメリカさんの金持ちはどんどん月に移住しとるんやって」
「――、月」
「こんだけ地球をめちゃくちゃにしておいて、迷惑をかけて、自分たちだけ逃げるんや」
友達が言った「月」という響きはどこか現実味がなくて儚げだった。月に行けばなにがあるんだろう。汚染されていない食べ物をおなかいっぱい食べられるのだろうか。だとしたら「許せない」な。エイヴァは思った。私がこんなにも苦労している様を見ようともしないでアメリカ人だけが良い思いをするなんて。
この世はまちがっている
町にひとつしかない病院で母が4回目の精密検査を受けたとき、胃がんだと宣告された。高額な手術費用と継続的な治療を受けるためにはアメリカの病院に移る必要があるという。食いつなぐのもギリギリだったわたしたちにとっては、死刑宣告にも等しい内容だった。治す方法があるというのに、母が徐々に弱っていくのを見守ることしかできないなんて。エイヴァは強い怒りを感じた。
ある朝、男が訪ねてきて言った。髪の黒い、アジア人の風情だった。
「詳細はお伝えできないが、ある夫婦の代理出産をしてくれる女性を探している。相応の返礼をお渡しできると思う。例えば、あなたのお母さんの治療費を払ったとしてもなお、あり余るくらいには」
悪魔の囁き聞こえた。周囲にはキリスト教徒が多く、代理出産に対する否定的な意見がほとんどだったから。ただ、暗闇が視野を狭めていく日々。末に差し出された手が、救いの手だとも破滅の手だとも当時のエイヴァには判断はできなかった。
こんなままで、いいはずがない。
座して死を待つことを強いられる現実に、無責任で無慈悲な現実にどうしても納得がいかなかった。だったら、答えはひとつだ。
「産むわ」
決断した後はあまり悩まなかったと思う。3ヶ月目、数回連れて行かれた病院で私はついに身ごもり、まずは報酬の半分を得た。母には「私のいい人」がお金持ちで立て替えてくれたと伝えた。病気が悪化しつつあった母をアメリカの病院へ移送し、すべては上手くいくはずだった。
「お母様はお亡くなりになりました。懸命な治療を行ったのですが。残念です」
電話を受けたとき、悲しみよりも怒りが先行した。なぜ? なんでですか? 助かるといったじゃないですか。私をだましたんですか? この人殺し!
どうせアメリカがちゃんと治療してくれなかったからに決まっている。と同時にこんな選択しかできなかった自分を呪った。
妊娠から30週目の健診から家に帰ると、ちょうど膝の上に乗るくらいの段ボール箱が玄関のそばに放置されていた。開けると白い粉が薄らと舞いエイヴァの鼻腔に入った。火葬され、灰となって返送された母の亡骸だった。驚くほど綺麗な白で、なんとか母の面影をさがそうともしたが見つからなかった。
生きていくのがなにもかも嫌になって、お腹の子供もろとも海に飛び込もうと迷ったが、ついにできなかった。地球をめちゃくちゃにした奴らが。母を見殺しにした奴らが。のうのうと月で生きている。このまま死ぬわけにはいかない。
怒りの力のみで生き延びた後、産まれた子は女の子だった。その小さな小さな幸せをモネと名付けた。あれほど
しばらくして残りのお金は振り込まれたが、子供とふたり、先行きの不安を紛らわせるように酒に逃げていたら3年ほどでそのお金も尽きていった。
ある日、昼間から店に居座り安酒を浴びていたら急に体調が悪くなって倒れ、そのまま入院した。1週間後。家に戻ったとき、娘はいなくなっていた。それはそうだ。こんな母親なんてありえない。いないほうがいい。
まず自分を呪った。でもその次に自分以外を呪った。身勝手に戦争をし、母を取り上げ、娘を取り上げていった原因、
※
「どうだー!みてみて、自由自在だろー!」
ボナン号の無重力化でカケルはその四角い身体をジグザグに移動させ、何回も回転させて見せた。
「きンも」
ま、まあ? 羨ましいのはわかるけどさモネさん。そこは素直になろうよ。カケルは
「こんなこともあろうかと実装してもらっておいて良かった-」
「最初は壊れたおもちゃみたいに壁にぶつかりまくってたくせに、よく言うよ」
「子供のとき友達が自転車乗れるようになったときめちゃくちゃ喜んでたけどこういう気持ちだったのかな」
「カケルのときは嬉しくなかったの」
「俺は自転車に乗れる年齢になる前に車椅子に乗ってたからさ」
「・・ごめん」
「いいって。そのおかげで無重力体験ができたんだから長生きはするもんだよな」
(( ご乗船のみなさまにお知らせします。当船はまもなく太陽フレアと接触します。ですがご安心ください。当船は非常に強力な磁気バリア発生装置を有しております ))
(( 船長より業務連絡。クルーは安全を期してお客様を中央客室へ誘導してください ))
それから10分後、ボナン号はイオンエンジンを停止させ、40分ものあいだ太陽フレア下で耐え忍んだ。通常の宇宙船なら分厚い壁に被われた部屋に乗員を避難させ、高エネルギー粒子による被爆から守る必要があるとのこと。この船は外装の一部を除きほとんどの空間を磁気バリアでカバーすることができる最新鋭の装置を備えていた。
(( お近くのモニターをご覧ください ))
船長のアナウンスに促されて天井から伸び出たモニターを見る。船の一部と思われる突起から緑色の光が発せられて、船体を包んでいる映像が映し出されていた。人の乗っていない翼端にはオレンジの発光が花火みたいに断続的に起こって、高エネルギー粒子が衝突している様子が見て取れる。
「綺麗だけど、なんか怖い」
はじめてみる宇宙空間ショーにモネがつぶやく。
「粒子に貫かれた人は短時間で死んでしまうらしいよ。俺の脳は外殻と保護液に守られているから大丈夫だけど」
「まるでチートね」
「人の身体から進化したのさ」
「それと同時に人間らしさを失ってしまったってわけね」
「妙につっかかるな。なんか嫌なことあった?」
「なっ…もう忘れちゃったの? 正気で言ってる?」
まだ根に持っているのか。昨日カケルがモネの着替えをシャワー室で洗ってからずっとこの調子だ。
「ひょっとして洗濯のこと?あれは仕方なかったと言っただろう?モネは着替えをほとんど持ってこれなかったじゃないか。毎回ランドリールームを使うとお金もバカにならないし」
「だからって、床掃除のローラーブラシで洗うことないじゃん、そんななら洗ってくれなくてよかったよ。せっかく安娜ちゃんにもらったワンピースなのに!」
「無重力だとフワフワするからもう着ないって言ったのお前だろが」
言ってないし。 言った。
言ってないってば。 言った。
「あたしの下着も手洗いしたしさ。信じらんない!」
「アー、アー、わたシ掃除ロボット、綺麗にスルのシゴト」
「ーー記憶力のない掃除ロボのカケルなんてしんじゃえ!」
しんじゃえ、か。一度死んでるようなもんだけどな。と自嘲しつつ、カケルはおとなしく自分の座席に戻る。体躯はそろそろ充電しなければならない電池残量になっていたけど、しばらく声をかけないほうが良さそうだ。太陽フレアの磁気嵐も怖いけど、モネの感情嵐も収まるまでじっとしているしかない。
1時間後、磁気嵐を抜けた船は正常運転に戻り、みな落ち着きを取り戻していた、そのタイミングだった。
(( 船長よりお客様へご案内いたします ))
落ち着きのなかにこわばりのある声だった。
(( 当船の前方、進路方向より民間船の救難信号を受信しました。本船は国際人命安全条約に則り遭難者の救助活動を開始いたします。緊急制動をかけます関係でお客様におかれましてはシートベルトのある座席にお戻りいただき・・・))
続けざまに、明日の予定だった月への到着は3日後、地球到着は4日後になることが船長より告げられると明らかに不満の声が周囲から漏れた。救難信号の発進元は推進機関の不調に陥っており、船の曳航と、急病人の搬送を希望しているらしい。
座席のシートが身体ごと後ろに倒され、ゴッというエンジン音とともに船は減速した。カケルには感じにくいが、他の乗客は腰と足置きに強いGがかかりつらそうだ。
(( 船長よりお客様へご連絡いたします。当船は安全に停止状態に入りました。こののち救難船とドッキングをし救助活動を開始いたします。しばらくそのままでお待ちください ))
船外活動のできるスタッフが宇宙服を着込み宇宙へと飛び出していく映像がモニターに映し出された。救難船と数本のワイヤーで結ぶためだという。そのうちの1本をたどって急病人と付き添いのスタッフがボナン号に乗り込んできた。
「まってください。そちらは客室です。戻ってください」
行き先を間違えたのか、紺色の宇宙服を着た救難船のスタッフたちはボナン号の乗務員の制止を振り切って、医療用ポッドを客室の最前列に置いた。四人の紺色の宇宙服にはヘルメットが固定されておりスモーク加工のため中の表情は窺い知ることができない。
なんなんだコイツら・・?
※
「ちょっと!いうことを聞いてください。医務室はこちらではありませんよ」
パン
乾いた破裂音とともに、手を広げ制止しようとした乗務員の背中から赤い華が咲いた。丸い粒の液体が飛び散り、無重力下の室内に広がる様は打ち上げ花火のようだ。
近くの乗客の顔に飛沫がかかる。なにが起こったのか誰にも理解できない、そんな静寂が訪れる。少し間を置いて、顔についた液体を手のひらで拭った乗客は、わっと騒ぎ出した。
「血だ! 銃で撃たれたぞ!!」
あわててシートベルトを外し後方へ逃げはじめる乗客。医療用ポッドを運んできた四人の宇宙服は極めて冷静に、背を向け逃げる人々を拳銃で撃ちはじめた。
銃声をかき消すように乗客たちの悲鳴が暴れまわる。まるで蜘蛛の糸に絡めとられるように乗客が立ち往生し、また背中から撃たれていく。その繰り返し。腰を抜かした老婆、乗客を守ろうとする乗務員。座席で頭を抱える中年男性。この一瞬にどれほどの人生が空中に投げ出されただろう。
その間、カケルのワンハンドはモネの視界を覆い座席の下に隠れるように頭を押し込んでいた。
次第に銃声は減り、悲鳴は減り、周囲に動く者はなく、長い沈黙がその場に居座った。
座席の隙間から客室前方を恐る恐るのぞき見る。ちょうど運び込まれた医療用ポッドの上面が開き中から青い法衣を着た女性が産まれるところだった。
フードの裾からは燃えるような赤髪がこぼれ、瞳はモネと同じ緑色をしていた。以前、火星テロ事件のテレビ中継でみた首謀者「ノライ真教」の教祖そのものだ。
(この場所に留まると殺される)
そう判断したカケルは、座席の影に隠れたままモネを客室の外へ誘導しようとする。モネの呼吸は荒く手は震えているが落ち着くのを待っている時間は無い。床を這いながらゆっくりと移動を開始した、そのときだった。目線の先に長い足が立ちふさがる。
「へたに動かないでくれカケル、モネ。彼らは敵じゃない」
聞き覚えのある声だった。しかし理性が受け付けようとしない。だって、だって。彼がこの船に乗っているはずがないのだから。
「――ミンジュン!どうしてこの船に!?」
その問いには答えず、ゆっくりと客室の前方に目をやるミンジュン。
「エイヴァ様、お約束通りモネを。あなたの娘を連れてきました」
「良くやったわ」
「さあ、ふたりとも立って。教祖様のお側に行くんだ」
モネの表情は放心して固まっている。無理もない。カケルにとってもこの展開は最悪を意味している。
「ーーミンジュン、いつからなんだ」
「ハハ。カケルには感謝しているんだぜ。鉄壁のオフィニナからなかなか外出せずに手が出せなかったモネを外に連れ出してくれた。あのときはまさにノライ様のお導きだと確信したよ」
「・・・じゃあ、警備ロボに襲わせたのも」
「ああ。でなきゃお前らなんか助けたりするかよ。最後はガエタンのせいでこの船に乗せられないんじゃないかと思ってヒヤヒヤしたけど。運命は存在するんだ。エイヴァ様!俺はやりましたよね!?」
束の間の静寂に応えるのはエアコンの動作音だけだ。
「――ええ。そうね。よく務めを果たしてくれました。誉めてあげる。さっそくあなたにはご褒美をあげないとね」
「ありがとうございます!」
「じゃあ、一足先に安息の地に旅立つことを許すわ。ノライ様の膝元に
えっ?
室内に響いた銃声よりもミンジュンの戸惑いが最後まで耳に残った。手で突き押されたように、ミンジュンは後ろに飛んだ。他の大勢の
「その薄汚い掃除ロボットは連れてくるなと言ったでしょう。言いつけを聞かない子はいらないの」
「どうして・・!俺たちが何をしたって言うんだ」
エイヴァに近づいていくカケル。
「黙りなさい。この死に損ないが」
お前の!
せいで!
どれだけ!
不幸が!
まき散らされたと!?
カケルは銃口を向けられた瞬間、順番に発射された五発の弾丸を避けようと圧縮空気を噴射。姿勢を失いながら撃ち込まれた脚部と後頭部に強い衝撃を受けた。回転する視界に、4輪タイヤと後部スピーカーを喪失したことのインジケータが点滅。冷却装置と主電源も失ってまもなく、カメラ視界もシャットダウンした。
ひさしく感じたことの無い完全な黒。光の存在など微塵も期待させない圧倒的な闇。そこにひとり、膝を抱えていた。手足は先から順に冷え、動かない。そのなかで微かに周囲の音だけが伝わってくる。
『もうやめて! ああ、、カケルの保護液が』
泣いているのかモネ、ごめん。もう何も見えない。できない。
『よくも・・この人殺し!』
『それははじめから人間などではありません。風通しの良くなった中身をよく見なさい。人の脳なんて入ってない。ただの機械です』
『・・・』
『これで
カケルに残されていたノイズのような意識にも、ついに深い闇が落ちた。
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