新幹線で乗り合わせた隣の席の女性から「君はかわいい」と告げられた
まつめ
第1話
あと1年で定年の6月、私は有給を使った。
盛岡駅から東京行きの新幹線に乗る。出張で新幹線を利用することは年に何度かあった。けれど今日の私は不安に落ち着かなかった。
車内は7割がた人で埋まっていた。予約していた窓際の席まで来ると、2列席の通路側に女性が座っていた。すみませんと言う前に、スーツケースを持った私に気付いて、彼女はさっと通路に出てくれた。
会釈をして座席に入ろうとし、少し迷った。スーツケースを棚に上げたいが、自分が持ち上げられるか自信がなかった。
「私がやります」
きっぱりとした声の後、女性が迷いなく持ち上げて、少しふらつきつつもやり遂げた。「ありがとうございます」と車内にしては大きな声がでてしまい、はっとした。けれど彼女は笑顔で答えてくれて、私達はそれぞれの席に腰を降ろした。
座ってからもう一度、今度は小さな声でお礼を伝えた。彼女は20代後半だろうか、きちんと化粧をしてよく似合うブラウスを着ていた。足元にビジネスバッグがある、これから仕事なのだと見て取れた。
大きな声をだしてしまった気恥ずかしさが残っていて、いい訳っぽく「あまり慣れていないので助かりました」とお礼を繰り返した。そして慣れていないのは本当のことだった。
「今日は東京で乗り換えて高知まで行くんです。乗り換えがちゃんとできるか不安で」
「高知ですか遠いですね。仙台から飛行機に乗るんですか?」
若い人らしく砕けた調子で話しを返してくれる。
「すべて電車で行くんです。岡山まで新幹線で、そこから瀬戸大橋を通って松山駅へ、その後は何度か乗り換えます。四万十までいくんですよ」
わあと驚いた口で彼女がまた笑顔を見せてくれた。
「いいところですね。テレビで見たことしかないけど、すごく綺麗な川がある」
「はい、私も初めてなんですけど息子夫婦が住んでいて、孫がいるんです」
「それはいいですね」
そこで会話がすとんと切れた。彼女は会釈のような頷きのようなものをして前を向いた。まあこの辺でお終いにするのが常識的だろうという、いい塩梅で彼女は話しを切ってくれた。自分も楽しくお喋りがしたい気分ではなかった。ただ、いつもの自分でいられないのも確かだった。旅行のために有休を使うなど、40代から管理職を務めていた自分には一生できないことだと思っていた。
窓を見ると花巻を過ぎて北上辺りに来ていた。盛岡から車で来れば1時間はかかるのに新幹線だとあっという間だ。景色が流れていくのを眺めながら、頭の中で今日の乗り換えスケジュールを確認した。東京駅の乗り換えで時間が少ないので、間違いなくできるだろうかと思い巡らせていた。
鼻をすする音がした。
隣の彼女が口元を押さえて目をきつく閉じ、鼻をスンスン鳴らしている。その音は必死に泣くのを堪えているが、まさに泣き出す寸前のように見えた。とうとう息を吸い上げ、押し殺しながらも明らかなすすり泣きに変わった。
「大丈夫ですか?」
極小さな声で顔を寄せて尋ねたが、彼女はこちらも見ずに首を振った。足元の鞄を開けるとハンカチを出して口元に当て、大丈夫と伝えるように手を振り顔を伏せた。
具合が悪いというよりは、何か感情があふれて泣いてしまったように見えた。
私も長く生きてきた。どうしても涙が止められない日もあるだろう。そっとしておくのが1番であろうと窓の方を向いて流れる景色を見ることにした。
彼女は静かに、けれど泣き続けた。懸命に息を殺し、されど堪え切れず苦しそうだった。
「すみません」
泣き声に呼ばれて彼女を見た。
「変だと言うことは自分でもよく分かっているんです」
若いのだから、気にしなくてもいいのにと思った。けれど彼女が真っ赤目で何だか必死な様子だった。
「それでも、もう言わずにはいられないんです。頭がおかしいと思われてもかまいません。それでも、もうどうしても言いたい。言わなきゃいけない」
尋常では無い感じだった。彼女はいったい何を言っているのか? 私達は知り合いではないはずと記憶を探るが顔に全く覚えはなかった。
「君はかわいい」
彼女の目が迷いなく真っすぐに私を見ておかしなことを真面目に言った。
女性の若い声で、紛れもなく隣の彼女がそう言ってきた。
不自然で、この場にも私にもそぐわない言葉だったのに、私の心を力強い何かが掴んだ。それは男性の拳の力だった。
君と言った。
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