第7話 やぶきの危機

 誰かが私の名前を呼びながら開いたドアから車内に飛び込んで来た。

 私の身体は何者かによって強く引っ張られ、そのまま勢いよくホームへと飛び出した。

「はぁ……はぁ……」

「はぁ……はぁ……」

 荒い息遣いと、高鳴る胸の鼓動。暫くの間、私たちは互いに何も言わず肩で息をした。

 しばらくして、私は顔をゆっくり上げた。

 そこには、心配そうな表情をした優ちゃんがいた。

「やぶきさん、大丈夫ですか?」

 私は目の前のそれが、優ちゃんだと認識するのに数秒を要して、ようやく状況を把握し、思考が徐々に戻って来るのを感じた。


 私はこの信じられない状況に混乱していた。何故なら、ホームにへたり込んでいる私の前には優ちゃんがいて、私のことを見下ろしていたからだ。

 私は優ちゃんに助けられたのだ。

「優ちゃん、どうして、ここに…?」

 私は何とか言葉を絞り出した。

 優ちゃんは凛とした顔のまま

「スマホ! 通話モードになってましたよ? 

 あたしに掛けたんじゃないんですか?」

 スマホ…? あ、さっきスマホを手に取ったような…。でも、よく覚えていない。


「何だあ、こいつ!?」

 突然、背後からあの男の声が聞こえた。

「ひっ!」

 瞬間、私は頭を押さえるように丸まる。そこには、同じく電車から降りてきた男が立っていた。

「やぶき、誰だよそいつは!」

 私は男の姿を確認すると、全身が硬直し、指一本動かすことができなかった。恐怖で足がすくみ、へたり込んだまま動けない。

「おい、無視すんなよ! やぶき! 聞いてんのかよ!」

 男は叫びながら近づいてくる。私は必死に立ち上がろうとしたが、膝に力が入らない。

 その時だった。私と男の間に割って入る人影があった。


「…優、ちゃん…?」

 優ちゃんは大の字に両手を大きく伸ばし、男と向き合うと静かに口を開いた。

「あたしの友達に手を出すのは止めてください」

 優ちゃんは毅然とした態度で言った。

「ああん? なんだと、ガキ!」

 優ちゃんの言葉を聞いた男は怒りを露わにした。

 しかし、優ちゃんは怯むことなく続けた。

「やぶきさんはあなたなんかには渡さない」

「優ちゃん! 駄目! 逃げて!!」

 私は声を振り絞った。

 すると優ちゃんはゆっくりと振り返り、いつもの優しい笑顔を見せた。

「やぶきさん、あたしを信じて下さい」

「優ちゃん……」

 優ちゃんは、また前を向くと今度は私ではなく、その先を見据えた。よく見ると優ちゃんの体は震えている。

「いい度胸じゃねえか。女だからって容赦しないぞ?」

「残念ですけど、あなたの相手はあたしじゃありません。今のうちに言っておきますが、先程車内で話していた内容はやぶきさんのスマホを通して全て録音させてもらいました。下手な抵抗はしないほうが身のためですよ。今後やぶきさんに近付くようなことがあった場合、この録音を警察に提出します。あなたとそのお友達は婦女暴行罪で仲良く刑務所暮らしになるでしょうね」

 優ちゃんの口調が急に変わった。まるで別人のような威圧感があり、一気に捲し立てる。男は一瞬たじろいだように見えた。

「その録音データをよこせ!」

 そして再び優ちゃんに詰め寄った。

「優ちゃんっ!!」

 私は叫んだ。


 だが、次の瞬間、男の身体がホームに崩れ落ちた。

「間に合いましたか…」

 と、優ちゃんの安堵した声。

 そこには、駅員と警察官が数人いた。

「駅員さん! この人が痴漢です!」

 優ちゃんは、倒れている男に向かって叫んだ。駅員と警官は男を取り押さえると、どこかへ連れて行った。

 私はまだ状況が把握できず、その場にへたり込んだままでいた。


「やぶきさん、立てますか?」

 優ちゃんが手を差し伸べてくれた。

「あ…。ありがとう……」

 私は、優ちゃんの手を取って立ち上がった。

「良かった……。怪我はないみたいですね」

 優ちゃんはホッとした様子で呟き、微笑んだ。

 私は改めて優ちゃんの顔を見た。

 その顔を見た瞬間、堰が切れたように私の目から涙が、喉から嗚咽が溢れ出た。

 私は優ちゃんの胸で子供のように泣いた。

 優ちゃんはそっと私の頭を撫でてくれていた。



 暫くして、ようやく落ち着いた私は恥ずかしくなり、「ごめんなさい」と謝りながら慌てて離れた。

「いえ、気にしないでください」

 優ちゃんは優しく答えてくれる。

 私は深呼吸をして気持ちを整えると、まだ気になっていることを訊いてみた。

「どうして、私が助けを求めてるって分かったの…?」

「それはさっきも言いましたけど、家に居てスマホが鳴っているのに気付いたんです。最初はメールかなと思って見ていたら、通話の着信で。それで出てみたらやぶきさん応答ないし、でも外の音は聞こえるしで少し様子をみてたんです。そしたら何だかピンチなことになってそうでしたので、居ても立っても居られず、家を飛び出してきました」

「そう、だったの……」

 私は辛うじてそう言うと、優ちゃんは続けて

「電車の音も聞こえましたし、この時間なら帰宅途中の電車内かなと。もしやぶきさんが朝と同じ位置の車輌に乗っているのなら、この駅で会えるんじゃないかと思って。ドンピシャでしたね!」

 優ちゃんは誇らしげに拳を突き上げる。

「そしてホームに降りるまでに、駅員さんと近くに居た警察の人に痴漢がいると言い来てもらってました。間に合って本当によかったです」

 私は優ちゃんの洞察力と行動力にただ驚くばかりだった。私なんて何も考えず、恐怖で震えていることしかできなかったというのに……

「あ、ちなみに、会話を録音してたっていうのは嘘です。流石にそこまでする余裕はなかったですね」

 優ちゃんは悪戯っぽく舌を出した。

「え!? そうなの? あんなこと言っておいて?」

「はい。まぁ、脅し文句としてのハッタリですよ。これであの男は二度とやぶきさんに近付こうとは思わないはずですよ」

 優ちゃんは笑顔を見せた。まったく、優ちゃんときたら…

「ロックったらないね、優ちゃん」




 その後二人で軽く駅の構内で事情聴取されてから解放となった。男の方は近くの署まで連れて行かれたらしい。こういうことは駅ではよくあることなので、必要なら警察にストーカー被害の届けを出すようにと、駅員さんから言われた。

 私たちはホームのベンチに座り、自販機で買った缶コーヒーを手に持ち少し呆けていた。


 色んな事があったせいで、お互い精神的に疲れ切っていた。そんな空気を察したのか、優ちゃんが口を開いた。

「ここ、あたしの家の最寄り駅なんですよ」

 毎朝彼女がこの駅から乗ってくる姿を見ていたので私は「うん」とだけ、短く答えた。

「やぶきさんのお家は?」

 彼女が続けて訊いてくる。

「私は、ここから三つ先の駅だよ」

「そうなんですか。割と近いですね」

 私は優ちゃんに気を遣わせてしまっている。分かってはいるのだが、今は中々上手く言葉が出て来ない。

「今日、うち両親当直と夜勤でいないんですよね…」

 そういえば以前、優ちゃんちのご両親は都内の病院に勤める医者と看護師だと聞いたことがある。


「もし良かったら、今夜泊まっていきませんか?」

 優ちゃんが唐突に言った。

「えっ……? 泊まり……ですか?」

「はい。明日土曜日だし学校もやぶきさんの会社も休みだから問題ありませんよね?」

「う、うん、それは大丈夫だけど……。急でびっくりしちゃって」

 確かに、今日は金曜日で、土日はお休み。

 特に予定もない。

 けれど、私は優ちゃんの家に遊びに行ったこともなければ、優ちゃんが私の家に来たこともない。

 ましてや、一晩一緒に過ごすなんて初めてのことだ。

 どうしよう、いきなり過ぎて心の準備が出来ていない。だけど、今夜自分のアパートに戻って一人でいるより、今は誰かと一緒にいたい気持ちの方が勝っている。それに、きっと優ちゃんなら安心して過ごせるはずだ。

「決まりですね? はい、決めました。今晩はあたしの家に泊まって行ってください」

 優ちゃんは半ば強引にそう言うと、嬉しそうに微笑んだ。

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