卒業の朝、君と最後の別れをした
夜月 朔
卒業の朝、君と最後の別れをした
春が来た。桜が、校舎の周りを薄桃色に染めている。
高校生活最後の数日。教室はどこか浮き足立っていて、卒業式の準備や進路の話でざわざわしている。けれど、私は静かに、あることに気づいていた。いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。
――この日常が、もうすぐ終わってしまうことに。
彼の名前は、直哉(なおや)。三年間、同じクラスで過ごした。特別仲が良いわけでも、遠い存在でもなかった。私たちは、微妙な距離感を保ち続けてきた。
「なあ、卒業しても、変わらずにいられると思う?」
放課後の教室。誰もいない静けさの中、直哉がふと呟いた。
私は答えられずに、笑ってごまかした。変わらないわけがない。それでも、変わりたくないと思っていた。
卒業までのカウントダウンが始まる。
クラスでは寄せ書きや写真撮影が盛んになり、私は無理にでも笑顔を作っていた。友人たちは楽しそうで、未来の話をしている。私はそこにいるのに、どこか置いていかれているような気持ちだった。
あの日、直哉と二人で帰った帰り道。沈黙が、妙に重かった。
「手紙、書いたんだ」
心の中で呟く。けれど、それを口に出す勇気はなかった。
カバンの中には、何度も書き直した手紙が入っていた。彼への想い。三年間の感謝。そして、伝えきれなかった気持ち。
だけど、渡せなかった。
卒業式の朝。
式の直前、直哉に呼び止められた。
「式が終わったら、校舎裏の桜のところに来てほしい」
それだけを言い残して、彼は去っていった。
式は、淡々と進んだ。生徒たちは泣いたり笑ったりしていたけれど、私はどこか現実感を持てずにいた。
式が終わり、私は言われた場所へ向かった。
校舎裏。満開の桜の下に、直哉が立っていた。
「ありがとう。三年間、君がいたから、俺はやってこれた」
そして、彼は続けた。
「……俺、卒業したら、遠くに行くんだ。家の事情で、すぐに引っ越すことになった」
一瞬、言葉が理解できなかった。耳の奥がジンとしびれ、景色がぐらぐら揺れる。
「だから、ちゃんと伝えておきたかった。……好きだったよ」
桜が風に舞い、彼の姿を少しずつ霞ませていく。
私は手紙をカバンから取り出した。でも、その手が震えていた。何かを言おうとした時には、彼はもう背を向けていた。
そのまま、彼は歩き出し、振り返ることなく行ってしまった。
残された私は、ただ桜の花びらの中に立ち尽くすしかなかった。
数日後。
私は机に向かい、あの手紙を読み返していた。
『もしもこれを読んでいるあなたが、あの日の直哉くんなら……』
読み進めるうちに、涙がこぼれた。書いた自分の気持ちが、まるで誰かのもののように感じられた。
でも、不思議と心は穏やかだった。
あの日、彼が言った言葉の意味を、やっと理解できたから。
卒業は、終わりじゃなかった。別れは、新しい一歩の始まりだったのだ。
春風が吹く中、私は校庭に出た。
満開の桜の下、一人で立ち止まり、空を見上げる。
花びらが舞い、手紙が風に運ばれていく。
私は静かに、そして少しだけ笑った。
――卒業の朝、君と最後の別れをした。
でもそれは、きっと私の人生の中で、
一番、優しい別れだったのかもしれない。
* * *
春休みが明け、新生活が始まった。
私は地元の短大に通うことになり、毎朝同じ時間に電車に乗って通学するようになった。
新しい制服、新しい環境、見慣れない景色。
そのすべてが、自分にまだ馴染んでいない。
ふと、駅のホームで見かけた背中に目が留まった。
似ていた。どこか、直哉に。
でも、違った。あれはもう、過去の幻。
私のスマホには、送信されなかったままのメッセージが残っている。
『あのとき、ちゃんと気持ちを伝えればよかったね』
けれど今は、それを後悔していない。
なぜなら、あの時間も、言えなかった想いも、すべてが私を育ててくれたから。
放課後、桜並木の通学路を歩いていると、風が吹いた。
あの春の日と同じ香り。記憶の奥に眠っていた気持ちが、ふと蘇る。
胸の奥が、少しだけ痛くて、でも温かい。
私は今日も前を向いて歩き出す。
卒業とは、きっとそういうものだ。
* * *
それから数ヶ月が過ぎ、季節は夏になった。
短大での生活にも慣れ、新しい友人もできた。けれど、ふとした瞬間に思い出すのは、やっぱり彼のことだった。
ある日、近くの図書館で勉強をしていると、窓の外から懐かしい声が聞こえたような気がした。
まさか、と思いながら外に出ると、そこには見覚えのある背中。
「……直哉?」
彼がこちらを振り向いた。
「やっぱり、君か」
それは、幻じゃなかった。
彼は一時的に地元に戻ってきていたという。わずかな時間だけれど、私たちは再会を果たした。
駅前のカフェで、ぎこちないながらも会話を交わした。
「元気だった?」
「うん。そっちは?」
「まあまあかな」
言葉少なに話す彼を見て、不思議と涙は出なかった。
もう、あの頃の私じゃない。だけど、どこか繋がっているような安心感があった。
「また、どこかで会えるといいな」
「うん……きっと」
その再会も、あっという間に終わりを迎えた。
でも、それでよかったのだと思う。
過去を抱きしめながら、私は今を生きている。
それこそが、私にとっての『卒業』だった。
* * *
夏が終わり、秋の気配が校舎の隅々に染み込む頃。
掲示板のボランティア募集が、再会のきっかけになった。
偶然のような必然で、彼とまた出会う。
そこからまた、一歩が始まった。
* * *
春が近づいていた。大学では進級の時期を迎え、周囲は就職や実習の話題で慌ただしくなっていた。
そんな中、直哉から「会いたい」とメッセージが届いた。
指定されたのは、あの高校の裏の桜の木の下だった。
約束の時間、私は少し早めに着いて、木の幹にもたれて空を見上げていた。
つぼみが膨らんだ枝が、風に揺れている。
「やっぱり、ここが一番落ち着くな」
振り返ると、直哉が少し照れたような顔で立っていた。
「この一年、いろんなことを考えたよ」
そう言って、彼は私の隣に座った。
「君と出会えてよかったって、卒業してからのほうが強く思った」
「……私も。あのとき、何も言えなかったけど、本当は、好きだった」
ようやく伝えられた言葉。
胸の奥で、何かがそっとほどける音がした。
彼はゆっくりとポケットから小さな箱を取り出した。
中には、小さな銀のペンダントが入っていた。
「これ……君に渡したかった。ずっと」
私は驚きで言葉を失った。
「気持ちを伝えるって、こんなに怖くて、でも、こんなに嬉しいんだなって」
私はペンダントを受け取り、小さく頷いた。
「ありがとう。大切にする」
その瞬間、風が吹いた。
枝のつぼみが、ひとつ、ふたつとほどけて、小さな花が咲き始めた。
「……咲いたね」
「うん。まるで、始まりを祝ってくれてるみたい」
私たちは見つめ合って、そして同時に笑った。
卒業の朝、すれ違った二人が、季節を巡ってもう一度出会い、ようやく同じ歩幅で歩き出す。
過去は過去として、今の私たちを形づくっている。
それが、今なら素直に受け止められる。
だからこそ、また歩き出せる。
この春は、別れではなく、出会いの春になる。
そう、あの日言えなかった「好き」の続きを、これから一緒に紡いでいく。
そして――その週末、私たちは再び高校を訪れた。
校舎のガラス窓には、変わらない風景が映っている。
けれど、私の気持ちは、確かに変わっていた。
「来年もまた、ここで桜を見よう」
「うん。そのときは、もっとたくさん話そう」
春風が吹き抜ける。
枝に咲いたばかりの花びらが、一枚、私の肩に舞い降りた。
私はそっとそれを指に乗せ、微笑んだ。
これが、私たちの「本当の卒業」なのかもしれない。
卒業の朝、君と最後の別れをした 夜月 朔 @yoduki_saku
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