ただいま聖女様に育てられてます

浦字みーる

ただいま聖女様に育てられてます

「はぁ〜」


 胸の深い所から重いため息が出た。もう三年目社員だというのに成約実績はゼロ。

 今回は企画部のエースの先輩に付きっきりでプレゼン資料を直してもらい、先方にも一緒に出向いてもらったのに門前払い同然の惨敗。


 何が悪かったのか……。


 確かに私の会社は大きな店舗デザイン会社ではないけれど、実績はそれなりにある信用できる会社なのだ。

 なのに、資料を数枚めくっただけでダメ出しを食らったのだから、余程中身がヒドかったのだろう。

 もちろん、原因は自分が考えたベース案。


「先輩、頭下げたままプレゼン相手のハゲおやじの顔、最後まで見なかったな。私の顔も」


 打ちひしがれて、帰宅の足が重くなるのに、


「ぐりゅりゅりゅ」


 住宅街に響き渡る大きな音でお腹が鳴った。


「心配事があってもお腹は空くか……」


 安アパートに一人暮らしの身としては、外ご飯は贅沢だ。だが、とても帰ってからご飯を作る気にはなれない。

 失意に落ちそうになる視線を持ち上げると、そこには昔懐かしい赤ちょうちんが目にとまった。


 割烹「静月」


 帰宅途中に毎日眺める居酒屋だ。

 上京したての頃は夢に溢れ、ここらへんのお店を全店制覇してやろうと意気込んでいたが、気がつくと会社とアパートの往復ばかりで、辺鄙な住宅街の居酒屋など記憶の底から抜け落ちていた。

 しかし、今日に限っては、ほのかに照らす朱色が目に飛び込んでくる。


「赤ちょうちん……」


 微風に揺れる縄のれん。


「昭和くさっ」


 こんな店には、頭にネクタイを巻いたバーコード頭のおっさんしかいないだろと偏見を決め込んでいたが、そうだ……こんな負け負けな日だからこそ、バーコードおっさんと一緒に飲んでやる!


「入ってみようかな……」


 気になっていたんだ。忘れていたけど、入ってみたいと思っていたのだ。


 いざ、居酒屋の暖簾をくぐる。


「いらっしゃい」


 老婦人の耳に馴染む優しい声。

 あー、なんというか。そう、子供の頃テレビで見た❝某ネコ型ロボットアニメ❞に出てくる主人公の少年のおばあちゃんみたいな声の響き。


「ども」


 入り慣れないので、気まずげな声が出た。

 自分で言うのもなんだが、こんな昭和レトロな居酒屋に、会社帰りの二十五の女が一人で入るものではない。

 だが、なんか落ち着くこの雰囲気。


 店の中は、いかにも居酒屋。

 天井の隅に斜めに置かれたテレビは、野球中継を淡々と流している。

 壁には四隅がめくれて茶色に退色した短冊メニューが、ズラリと画鋲で貼られて、お客の視線を引きつけている。

 テーブルの朱塗りの天板は、所々の色がハゲ落ち、丸い箸立てにまばらに刺された漆塗り箸が、こじんまりと何も無いテーブルを一輪挿しのように飾っている。

 古くはあるが、清潔感がある。


「ふーん、いいんじゃない」


 店を奥まで見渡すと、手前はテーブル席、奥は座敷になっているらしい。


 一通り店内をチェックしていると、女将のおばあちゃんがおしぼりを持ってきてくれる。


「ようこそ」


『おばあちゃんの声、好き。ちょー落ち着くんですけど!』


 そんな感想はおくびにも出さず、ちらりと女将を見やる。

 年の頃は八十くらいか、今日日珍しい割烹着を着ており、おっ、中は和装じゃない。


「んんっと。あの、オススメはありますか?」


 ニコニコと微笑み答えない。


「あの」


「普段どんなもの食べてはるの?」


 急な逆質問。


「あ、はい。そうですね。自炊なので簡単なものでお豆腐とか、スーパーで買った揚げ物とか」


「あらそう。お大根はお好き?」


「ええまぁ」


「飲まはりますか?」


「お酒ですか? じゃビール下さい。グラスで」


「はい。じゃ少々お待ち下さいね」


 あれ? 何も頼んでないのだけれど。


 ポカンとしていると、グラスビールとふろふき大根と小鉢に入ったモツ煮が出てきた。

 不安定なおばあちゃんの足取りに、お盆に乗せたグラスがフラフラと揺れるのが気になり、つい手を出したくなる。


「こちらをどうぞ。他に欲しくなったらこれを見てくださいね」


 それだけ言い、そそくさと厨房に戻っていく、おばあちゃん。


 モツか……。あまり得意じゃないんだよね。臭い強くて臭くて。

 思いながらグラスに口をつけてビールを喉に流し込む。


「ん!? 美味しい!」


 泡がクリーミーでなんか舌触りが優しい!

 グラスには見慣れた大手ブランドのロゴ、厨房のサーバーにも同じロゴがあるから、これは見慣れたあのビールのハズ。なんでこんなに違うのよと、思いながら苦手なモツ煮に手を伸ばす。


 粘土を溶いた色のような煮汁の中に、U字に切られたモツがプルプルと震えて、今や今やと箸に取られるのを待っている。


「これケモノの腸なんだよなぁ」


 食べ物とは思えない超弾力の物体を暫し眺め、覚悟を決めて口に放り込む。


「む、ん……、んん!? んまっ!」


 あれ? 臭くない。つーか、旨味が噛むほどじゅんわり出てきて、美味しい!

 最近、急いでご飯を掻っ込む生活をしていた顎に鞭打ち、染み出すお味が枯れるまで、ゴムゴムと噛みしめる。

 味噌味に浸された口内をクリーミーなビールで洗い流す。

 舌に残る旨味が全て液体となって流れ込み、ストンの胃に落ちて溜まる。


「いい!」


 お口がリセットされたところで、ふろふき大根に視線を移す。これは当たりの店を引いたんじゃないかと期待が募り、自然と口元が緩む自分を止める事が出来ない。

 お箸を大根のあてがい軽く力を入れると……

 まるで鋭利な刃物のように、漆の細い箸先はするりとお皿の下まで落ちていく。

 どうやって、この大根をすくい上げたのか不思議なくらいの柔らかさ。

 そして箸で切られた大根の内側から漏れる香しいお出汁の香り。


「すご、鰹節の香り」


 何とも滋味溢れる馥郁が鼻腔をくすぐる。

 このまま取り上げて口まで運ぶのは困難そうなので、器ごと取り上げ口をつける。

 切り分けた大根をするっ含むと、じゅわ~と大根の全身からお出汁が溢れてきた。


「うま~っ」


 熱すぎない温度で出してるところが優しすぎる。

 ヤバい。人の優しさを勝手に妄想して、涙が出てきた。

 これでは傍目からは、ふろふき大根も食べられない貧しい女だと思われるので、ここは感動をぐっと抑えて、敢えて豪快にビールを飲み、勢い良くグラスをコースターに置く。


「ぷはーっ」


 つい声が出てしまった。

 子供の頃は、絶対こういう大人にはならないぞと思っていたが……。


『私もこうやって社会人になっていくのね』


 ちょっと残念な気持ちと、自堕落という愉悦に浸りつつ、ご機嫌な気持ちで壁のメニューを漁る。


 このお店、メニューが多彩だ。

 普通にお刺身はあるが、芋の煮っころがしや焼き魚などもあり、晩御飯にも使えそうな品も多い。


 美味しさに味を占めた私、調子良くポテトサラダ、出汁巻き玉子、たこわさと頼んでいく。


 ポテトサラダは、想像通りのゴロゴロ食感。

 口に放り込むとマヨさんのクリーミーさと、おイモさんのホクホク感がちょうどいい頃合い。なかなかお酒に合う味付けだ。


「これは日本酒かも? だが、ビール!」


 今日の失態など完全に忘れ、二杯目のビールに突入。


『来てよかったー、このお店。なんで早く来なかったんだろ』


 そろそろ揚げ物も欲しいなと思ったあたりで、一気飲みしたビールが利いてきて、ちょっとお手洗いに行きたくなった。

 カバンを手に取り、ルンルン気分でお手洗いに向かう。

 多分、こーいうお店はお座敷のある奥の方にお手洗いがあるんだよね。きっとお手洗いも綺麗に違いない。

 だってこのお店。自慢話がウザいおっさんもいないし、渋谷とかの店によく居る、酒に飲まれて大騒ぎする学生なんかもいないのだから。


「うん、うん、住宅街の居酒屋、いいじゃない。食わず嫌いはイケけないなぁ」


 美味しいものを少しだけ、ゆっくりと楽しんで食べる。それが私のモットーなの、まさに私にピッタリなお店。


 自画自賛で、座敷を横目に見る三和土路を進むと、とんでもないものを見てしまった。


「なんじゃこりゃ!」


 ◇ ◇ ◇


 座敷には六人掛けのテーブルが二卓置かれている。そのテーブルにはところ狭しと料理が。もう一つのテーブルには、空になったお皿や器が大量に。

 テーブルには、黒のタイトニットの女性が一人。長めのボブヘアを後ろでゴムで結び、腕まくりして、一心不乱に手羽先を食べている。


 一心不乱


 まさにその言葉が相応しい程、黙々と食事を口に運んでいる。


 目が自然とテーブルの料理を捉える。

 宝船に乗ったお造り、その横にあるのはコンロに乗せられたお鍋。水菜と鶏肉、お豆腐がリズミカルに踊っているのが白い湯気の中に見える。

 大物で目を引くのは炒飯だろうか。居酒屋だから焼き飯か。エビやグリーンピースの原色系の食材が見える。だが、その大きさが四人前はありそうだ。

 あと大ボウルのサラダがスゴイ。この大きさの器なんてどの席にも無かったんですけど。

 大物の隙間には山盛りの焼き鳥ピラミッド。つい最下段を数えてしまうと十串。えーと暗算で習ったぞ。つまり五十五本だ。

 字面にすると山本五十六っぽい、五十五本!


 この店、和食かと思ったら焼き鳥もあるんだ。

 焼き鳥は大好物である。楽しい家族との思い出、大学の仲間達との飲み会。楽しい場の主役は常に焼き鳥だ。甚だ私見だけど。

 うん、後で食べよう。

 それにしても、焼き鳥と唐揚げ、肉被りしてるじゃん! そして鶏唐揚げとコロッケ、揚げ物被りしてるじゃん! コロッケとフライドポテトもポテト被りしてるし! 被りの連鎖コンボ。それが全部四皿ずつというのが、某スマホゲームを彷彿とさせる。

 一応慎ましく梅水晶もあるが、どうしてこのパワフルな注文の中に梅水晶一つが入ったかなぁてカンジ。


 まさかこれを一人でと思い、座敷の四隅や壁を見るが明らかに団体様の気配はない。普通、そういう所にカバンやジャケットが置いてあるものだ。

 そんな好奇心が知らずに勝り、中まで覗き込んだのがイケなかった。

 ご執心の女性が徐ろに顔を上げる。


「あっ」


 手羽先を食わえていた口から、くぐもった声が漏れた。

 それは私も同じだった。

 女性の目が絵に描いたように丸くなる。


「ゆりちゃん……」


 知ってる。見覚えがある。知ってるってもんじゃない。この人は。


「先輩……」


 バッチリ瞳でコンタクト。

 ああコレ、いつかのお笑いライブで見た。

 この瞬間、相手が男だったら、小田◯正の曲が流れるヤツ。

 だが、これは気まずい。


 察するに、これは我が相棒、早乙女聖さおとめひじり先輩の秘密を見てしまったのではないか。ヤケ食いドカ食いという、女として致命的な瞬間を。


 先輩は脂ぎった手を、ぷるんと光る口元からゆっくり降ろす。

 そして、にぃと不気味な笑顔を浮かべると、その手を上下にひっくり返して、コイコイと手招き。

 一瞬挑発かと思ったが、それは日本人の誤解だ。

 ここで脱兎の如く逃げる手もあるが、会計をしないと無銭飲食で捕まるし、結局は月曜の朝に先輩に詰められるのは必定。私には手招きされるままの一択しかない。


 パンプスを脱いで座敷に膝をつく。足が臭くないか、こんなときでも気になる小心者の私。


 先輩が一言。


「ふすま。閉めて」


「はい」


 目線は『私の隣に来い』である。

 ああ、素晴らしい日本の空気文化。こんな目線一つで、わたくしったら何を求められているか分かってしまいますわ。


 先輩の横にちょこんと座る。


 無言の一分数十秒。


「あの」


「いやぁ、見られちゃったなぁ」


「はい……見ました」


「会社から離れてるから大丈夫だと思ったけど」


「あの私、このちょっと先に住んでまして」


「へぇ、私もちょっと先なんだ」


「そうですか」


 沈黙ーー! 痛い! 無言のプレッシャー!


「食べる?」


 そっと差し出された焼き鳥。


「まだ温かいよ」


 先輩の差し出したモノは食わねばならぬ。それがサラリーマンというもの。


「では、遠慮なく」


 パクリと串の先端に刺さるネギとモモ肉を頬張る。

 ネギマ、うまっ! しっかり火が通っているのに、お肉柔らか。そしてジューシーな鶏油が青ネギの焦げに染みて、微かに感じる苦味と相まって絶品。

 そのトロンとした顔を見たのか、先輩は


「美味しいっしょ」


 満面の笑みで同意を求める。


 私は素に戻って、はいと一言。


「ゆりちゃんもこっち来て座んなよ。向こうに席とってるんでしょ」


 うぐ、万事休す。


「はい、お言葉甘えて」


 私もこの大量のご飯と一緒に食べられるのだろうか。


 ◇ ◇ ◇


「あの、このご飯お一人で?」


 暫く先輩の横で借りた猫だったが、考えてみれば弱みを握ったのはコチラだと気づいた。何せこのお方は企画部のエース。そして部員からは聖女様と崇められているお方だ。

 品行方正、成績優秀、入社三年目で大口の顧客のコンペを勝ち取り、部を救ったヒーロー。なのに後輩の面倒みも良く、私もお世話になりっぱなしだ。こんなダメ三年目社員の失態も怒るどころか優しく手ほどきしてくれ、さり気なくフォロー。

 何より美人! そして乳がデカい!

 私の同期の男共もメロメロだ。どうして男はそうも乳が好きなんだ?

 お前にも乳は付いているだろうに。

 そんな中身と見た目とお名前から、ついたあだ名が聖女様。もちろん皆、面と向かっていわないが、本人もそう言われているのを知っているはず。

 私も先輩と組むときは、「聖女様に迷惑かけんじゃねぇぞ」と言われたものだ。

 もちろん、かけたくてかけているわけじゃない。

 その聖女様の裏の顔を見てしまった。


 聖女様、口いっぱいにメンチカツを含みつつ、『お一人で?』の問いにお答えする。


「うん、ふぉね」


「ヤケ食いですか」


「そうとも言うかな」


 いやヤケ食いでしょ。しかも度を超えた。


「せめてふすまは閉めた方が良かったんじゃないですか」


「まったくだよね」


 ……何の沈黙!?


「わたし、手羽先が好きでさ」


 はい? 急に来たな。まぁ好きそうな顔と手をしていらっしゃるが。


「いつもは閉めてるんだけど、今日はハルさんが閉め忘れちゃったみたいで、気づかないで食べんの夢中になっちゃって。好きすぎて」


 ハルさんとは多分あの女将の事だろう。どうやらここは行きつけの居酒屋らしい。


「途中で気づいたんだけど、ほら、この脂だし、手羽先、食べ終わってから閉めればいいかなって」


 といって、手をピラピラと振って見せる。


 いや、気づいてんなら、バレたくないなら、とっとと拭いて閉めろよ。


 にへへへと、やけ食い聖女様は笑ってごまかす。


「それにしてもちょっと多くないですか。いえ訂正させてください。人の食べる量じゃないかなぁと」


「全然、まだ足りないよ! だって、食べずにいられないじゃん。こちとら一週間もかけて、あのプレゼン資料を作ったんだよ。それをチラ見しただけでテーブルに叩きつけるなんてありえなくない!」


 ごもっともにある。もっともベース案は私なので、ヤケ食いするとすれば私なのだが。

 話は仕事に戻る。

 今日、二人で行った会社のプレゼンは、部の命運を分ける大舞台。店舗レイアウトのコンペだった。

『チョロい仕事だろ』

 そう言われて、うだつの上がらない三年目社員に振られた仕事だったが、どんな力が働いたか、気づけば巨額が動くビッグプロジェクトになっていた。

 それもあって、うちの部のエースの先輩が、パッとしない私のサポートに選ばれ、先輩は一週間、全力で私のプレゼン資料を直してくれて、そして今日、見事に桜散る。


 それはいい、いや、よくはないのだが、問題は仕事ではなく、聖女様の暗部に関する取り扱いだ。

 この状況を好転させねばならない。これで関係が拗れたら、サポートは受けられない、部員からは総スカン、聖女様が闇堕ちしてイジメにでも発展したらもう会社にいられない。辞めたって転職できるか……。そうして一年たち二年たち、気づいたら汚部屋から出られないニートに落ちてしまう。

 なる、確実になる。私ならなりかねない。

 それに、こういうところで信用貯金はモノを言うのだ。私が会社で何を言っても部の皆は信じないだろう。先輩が知らないと言えばそれまで。その理不尽を学生時代の友人関係で嫌というほど学んだ。


 恐る恐る切り出す。


「あの先輩、ヤケ……」


「ここね、私の行きつけなの。実は時々大食いするのに使っててさ。ここめっちゃ美味しくない? いろんなメニューもあって、どれも外れがないのよ。美味しいから大食いしても恥ずかしくないし」


 ん? 聖女様らしくないアンロジカルなセリフが。十分恥ずかしいだろう、この量は。

 だが、ツッコミは胸に潜め、わたくし、己の未来のために、聖女様の看板、使わせてもらいます。


「先輩はご自身が企画部の聖女と呼ばれてるのをご存知ですか?」


「それね。私としては結構困るんだけどな」


「どうしてですか?」


「だって、本当の私じゃないし」


 先輩は手を拭いて体を後ろに倒すと、一段トーンを上げて、可愛らしく、んーと声を出して体を伸ばした。

 ふと視線を落とすと、はち切れそうにパンパンに膨れたお腹が、白いスーツスカートを内側から押し上げている。

 目一杯引っ張られたスカートは、つまみ上げようとしても掴むことすらままならないだろう。

 そのくらいぴっちりと、中身の存在感を強調している。

 腹部だけ丸々と突き出た曲線は、普段の聖女様のパーフェクトプロポーションを知ってる身としては、あり得ないお姿だ。


 その視線を察してか、先輩がお腹をポンポンと叩く。


「見てこの腹。私こんなだよ。ホントは隙あらば大食いしようとするし、楽しい事には目がないし、出来ればキリキリ働くのなんてまっぴらごめんだし。猫被ってるし」


 猫は、まぁ気づいてましたけど。


「でも、仕事は真面目じゃないですか」


「当たり前じゃん。仕事だもん。それを聖女って言われるとねえ」


「じゃ、会社の皆の前で大食いすれば? 皆さん夢から覚めると思いますよ」


「だといいけど、一度ああなっちゃうと……ね」


 言わんとしていることは分かる。

 神格化。

 それを自分から崩すのも勇気がいるし、崩すと勝手に失望して怒る人もいる。げに恐ろしきは人の業なり。

 いや、待て。ここで大食い披露すると、大食い性癖の男共がヒートアップしてしまうのではないか?

 動画配信で観たが、大食い動画は大人気だ。テレビ番組だってあるくらいだし。


「ナシです! 大食いカミングアウトは。逆に人気出ちゃうかもです。それに大食いで聖女なんて属性が渋滞しすぎですし」


「属性? ゆりちゃん、面白いなぁ。会社と全然違うじゃん」


「それはお互い様です」


「だね。まぁ、ここであったのも何かの縁だし、見られたのがゆりちゃんならラッキーだし、続き、食べよ」


 え、なんでラッキー?

 いやいや、それより……


「まだ食べるんですか」


「もちろん!」


 先輩は自分のお腹を自慢げにさすると、『よし』と腕まくりをして、箸を取る。


「お鍋は冷めたかな?」


 聖女様、都合良く私の存在を視界から消し、土鍋を手元に寄せる。さすが聖女、認識阻害の魔法を使ったか。


「あ、このまま食べちゃうけど、ゆりちゃんも食べていいよ。今日は、お姉さんの奢りだ」


「はいはい」


 先輩は土鍋に箸をぶっ刺すと、猛烈な勢いで食べ始めた。

 お鍋がお蕎麦をすするみたいに、ずいずいお口に吸い込まれていく。

 お鍋というものは、すいとんで受け、皆でちょいとつまむものであって、吸い込むものではない。

 まぁカレーよりは飲み物に近そうではあるが。


「あの、大丈夫なんですか?」


「何? 支払い? 任せなさい!」


「いや、そうじゃなくてお腹。もうそんなになっているのに」


「全然大丈夫。まだ二割も埋まってない」


 埋まる? お腹が? 大食い用語か?


 言ってる矢先に、猛烈に減っていくお鍋に反比例して、先輩のお腹がモリモリと大きくなっていく。

 それはそうだ。あの四人前の土鍋の中身が、すべてあのタイトスカートの中に入っていくのだから。


 ちらっと隣のテーブルを見ると、大量のお皿と器。この人、いつからここにいるんだろう。

 それにあの丼は天丼じゃないか? この人、いきなり締めのご飯モノを食べてるのかしら。さすが聖女様、常識が通じない。


「二時間前くらいかな」


「え、わたし今、声に出てましたか?!」


「ううん、そんな目してたから」


 聖女様怖いわ。この観察眼でクライアントを落としてきたんだな。決して、そのお胸の力ではないと。


「仕事に胸は関係ないわよ」


「うぐっ」


「ゆりちゃん、表情に出すぎなの。クライアントの前で不安そうな顔するし、それじゃ取れる仕事も取れないわよ」


「面目ないです……」


「まぁ、仕事の話はやめましょ。食べて忘れる! そう、先に締めのご飯を食べてもいいのだ! 美味しければ」


「また、心を読まれてる……」


 そうして私は、先輩に勧められるままにお食事に付き合うことに。

 微々たる戦力ですが、お付き合いいたします。


 ◇ ◇ ◇


 鰹節との相性バツグンのナスの煮浸し。ああ、おナスやおナス、あなたはどうしてそんなにお汁を吸っちゃうの。はふ、あつつつ!

 フワッフワのさつま揚げ。さつま揚げってもったり重いと思っていたけど、常識が変わったわ。

 角がくっきり、つるんと舌の上を滑るお刺身たち。特に中トロの程よい脂は、冷たすぎない温度で口の中でとろけて絶品。

 中締めで食べた、栗ご飯のホクホクなこと。

 そして何気なく頼んだ、ロース豚の脂の甘さ! つい中締めを忘れて、白米を頼んでしまう。

 やっぱ日本人なら、米っしょ!

 口直しに食べた菜の花のお浸しも、季節外れだったのに美味しかったな。

 先輩オススメの茶碗蒸しも良かった。私は断然プリン派なのだが、優しいお味で包みこんでくれる茶碗蒸しも悪くない。プリンが元気一杯の子供なら、茶碗蒸しは酸いも甘いも噛み分けた人生の達人といったカンジだ。

 ホント、ここ美味しいわ。


 なんて時計を見るともう、二十三時を大分過ぎている。最後にちょっとキツイけど締めのお蕎麦を食べて……。


『なに、先輩に吊られて食べてんの!』


 めっちゃ食べ過ぎじゃない!

 スカートが苦しい。ウエストがもうミチミチになっているし、何より太る! 私は、太りやすいのだ!


 まあるく膨れた自分のお腹を見て、そのあまりの醜態に手を伸ばす。

 すると青ざめた私に気づいた先輩。


「にゃはは~、ゆりちゃん少食だね」


 と、半分、いや、かなり酔っ払った、呂律の回らない口調でのたまう。


 それには激しく賛同しかねる。中高と続けていた競泳のおかげで、私は女子にしては大食いだった。競泳はとにかく体力を使う。そして無理にでもご飯を食べないと筋肉が落ちてタイムが落ちてしまう。だから高校時代は、無理をして朝食べて昼食べて、三時ぐらいにまた食べて、夜も目一杯食べて、食べて食べて食べ続けていた。下手すると寝る前に夜食も食べていた。

 そのくらい食べると、自然と胃も大きくなる。そんな生活を六年続けていたら、大学受験で部活を辞めてから、一気に十キロも太ってしまった。

 お腹一杯食べないと満足しない体になっていたのだ。

 それから痩せるのにどれほど苦労したことか。

 多分、二キロは入る大きな胃袋は、常にぐうぐう鳴るし、走り込みは目が回るし、もうこりごり。

 なのに、あの十キロは、油断すると何時でも直ぐに戻れるリバウンド範囲になってしまった。

 なのに、なのに、あーーー、あたしのバカ!


「少食ぅ? めっちゃ食べてますけど!!!」


「ホント? 遠慮してない? 私の前で遠慮なんかいらないからね」


「してませんから! 遠慮してるヤツが、食べ過ぎた自分の腹を見て後悔しますか!?」


「あははは」


 笑い事か!


 思考力が低下しまくっている先輩はスカートのジッパーを目一杯下ろして腰履きにして、お腹を揺らして笑っている。

 ウエストが巨大になり過ぎで、もはや留め具を全開にしても、腹部を収めることが出来ない。

 それはニットも同じ。

 めくれるニットを無理やり引っ張るも、引き伸ばされて編み目の粗くなったニットは、手を離すと伸縮性に任せてツルリと胸の下まで戻ってくる。

 疑問の表情を浮かべた先輩がまた引っ張ると、おへそのくぼみが透けたニットは、丸々とした曲線に被さるも、腹部全体を隠すことは出来ず、またツルリと胸の下に。

 何度もニットを下げては手を離し、ひゅんとニットが戻るのを見てケラケラと笑う。


 なにが可笑しいのか。

 聖女様、それは醜態というのですよ。


 女将のハルさんが、そろそろお時間ですが、よろしおすか? と私に問うので、ケラケラ笑う満腹怪人を無視して、はい、お会計をお願いいたします、と慌てて答える


「あーー、ゆりちゃん、ここ、私、払うから。任せといて」


 いや当たり前だろ! このテーブルの九割はアンタが食べてんだから! と半分キレて「ありがとうゴザイマス」と答えると、


「あれ? おサイフないわ」


 と、四つん這いの先輩がバックをまさぐりつぶやく。


 もう! 聖女様! お尻! ストッキング越しにパンツ見えてますよ。


「私が建て替えますから」


 クレジットカードをハルさんに手渡し、もらった明細書には、七万円の数字が踊っていた。

 二人で家賃分食べるなんて信じらんない!



 苦しすぎて外したスカートのホックを隠すために、ビジネスジャケットを羽織り、先輩の肩を支えて座敷を出る。


「やあ、今日は食べたね~。久しぶりにお腹が膨らんだ感じがするよ」


 満腹じゃないんかい!


 立ち上がって気づいたが、息をするのも苦しいくらい胃が張っている。

 限度を超えた満腹だ。

 歩くのも辛い。


 これだけ食べたのは人生でもそう多くはない。結局先輩に手渡されるままにお料理に手をつけ、あれからゆうに二時間、箸を止めることなく食べ続けた。

 もっとも美味しかったので、自分も断らず舌鼓を打ってしまったわけだが。


 結局、頼んだ料理はどのくらいだったのだろうか。明細書に料理名がないのは、ハルさんの気遣いだろう。

 絶対、私も二、三キロは食べている。先輩はその何倍にも加えて、ビールをジョッキーで五、六杯は頼んでいた。

 よく、身長百六十センチ程度の体にあれだけの食べ物が入るものだ。


「タクシー呼びはりますか?」


 ハルさんのご提案に甘える。

 さすがにお腹が辛そうな私を察したらしい。いや、本当はお腹を隠せない半ケツ聖女様を痴女扱いさせない粋な計らいだろう。


 タクシーが来るまでの間に、酔っ払いの謎の言葉を適当にあしらい、先輩の家を聞き出す。

 どうやら本当に私の家と近いらしい。

 こんなに近くに住んでるとは思わなかった。

 退社時間はいつも、私は早くて先輩は遅い。帰る時間が違うので今の部に異動して半年も経つのに、家が近いなんて、全く気づかなかった。



 先輩の部屋は、七階建てマンションの六階なのでエレベーターに乗せ、肩を取って運び、鍵を開けてあげて部屋に送り込む。

 なぜ後輩の私がここまでしてあげなければならないのか。どうだが放っておくとその場で寝てしまいそうなので仕方がない。

 お腹がパンパンすぎて「靴が脱げなーい」と、嬉しそうに駄々をこねる聖女様の靴を脱がせ、はい行きましょうねと立たせて、べッドに座らせてあげる。


 突然、キャハハと笑い始める。

 もう! 酔っ払いは手がつけられない!

 お台所で見つけたコップに水を入れながら、「何がおかしいんですか?」と声をかける。なんかこの光景は母が父に対してやっていたそのものだ。


「だっておかしいじゃん、ゆりちゃんが私の家にいるんだよ」


「送ってきたから当然でしょ」


 それがおかしかったのか、また思いっきり笑い出すが、そのせいで、先輩のスカートがビリリと裂ける。

 それが可笑しくてまた大笑い。


 これが聖女様の実態か、まぁヤケ食いしたくなるくらいストレスが溜まるのだろう。聖女という役割は。


「先輩、そのまま寝ると服がシワになりますよ」


「じゃ、脱がせてー」


 と言ってるのに、そのまま寝ようとする先輩のジャケットを肩から剥ぎ取り、破れてしまったスカートを脱がせる。なんか腰を浮かせて、「うんっ、うんっ」とかわいい喘ぎ声を出しながら、体を捻る先輩の姿がえっちい。


 このスカートは直せるのかどうかは分からないが、とりあえず近くにあったハンガーにかけておこう。



「はぁ……」


 何とか一段落。

 疲れ果ててベッドサイドにペタリと座る。


 ペロリとめくれたニットのおかげで、先輩のお腹は露わになっている。

 お腹を覆うストッキングは、お腹周りだけ色が薄くなるほど引き伸ばされ、色白の先輩のお腹には青い血管が浮き出て見える。

 ウエストはメートルを遥かに超えているだろう。

 これは人間のお腹ではない。

 豊満なお胸周り以上のサイズになったウエストが息を吸うたび、大きく盛り上がったり、戻ったり。


 それをじっとみる。


 こう見ると人間の体の構造がよくわかる。

 ここに肋骨があり、その下に内臓がある。上から見ると体の左上から右下に沿って軽い盛り上がりがあるのがわかる。これがきっと胃袋だ。

 ウエストのくびれは存在を消し、樽状に膨れている。


 何かお腹の中にラグビーボールを入れたような感じだ。

 自分も妊婦になったらこんな風になるのだろうか。

 スゴイな女の体って、いや、ここには赤ちゃんではなく、赤ちょうちんが詰まっているのだけれど。


 寝息を立て始めたのをいいことに、好奇心を抑えられない私は先輩のお腹に耳を当てる。

 温かい肌触りが頬と耳に当たり、内臓の活動がゴロゴロと聞こえてくる。

 すごい勢いで消化してる。

 そしてお腹の硬さに驚く。自分のお腹を触って確認しても、この硬さには驚嘆。


 何度か先輩のお腹をぷにっと押して硬さを確認。

 その度、ううんと唸って体を捻るので、少し可哀想になり、おいたはこのくらいにして、タオルケットをかけてあげる。


 横から見るとお山と丘陵。

 先輩はかなりの巨乳だ。聞いたことはないが、想定 G カップはあると思う。それで美人だなんて、神様はなんて不公平なんだ。


「まったく、罪な人ですね」


 とつぶやいてみるが、多分先輩には聞こえていないだろう。



 さて、聖女様も床についたし私も帰ろう。

 と、思って足を止める。


『帰っていいのか?』


 このまま大食いの直後の先輩を放置して寝かせていいのかしら。

 急に吐いたりしないかしら。いや、かなり不安すぎる。何かで聞いたことがあるぞ。ご飯を食べてすぐ寝ると赤ちゃんは急に戻して喉詰まらせて死ぬんじゃなかったっけ?


 私が連れてきて、放置して先輩死んじゃったら、めちゃめちゃ夢見悪いじゃん……。


 それにこの部屋のカギ。

 女の一人暮らしの部屋のカギを開けっ放しなんてあり得ないじゃない。

 と言って、まさか私が勝手に先輩の鍵を持って部屋を出るわけにいかないし。


「泊まるの嫌だな。お化粧も落としてないし」


 でもどうする?

 フロアーで雑魚寝!?

 お腹苦しいのに? 最悪!


 だが、唸れど妙案は出ず。

 やむなくジャケットとスカート、ブラウスを脱いで、先輩の家でマジあり得ない事にキャミにパンツ一枚になってフロアーに横になる。


「冷たっ!」


 そして背中が痛い。座布団とかないのかよ、この家! 八つ当たり。


 するとゴソゴソする音で目が覚めたのか、聖女様ったら無邪気に


「ゆりちゃんもコッチで寝る?」


 ここらへんで私の思考は完全に停止したらしく、半分ヤケクソで先輩が陣取る、想定シングルのベッドに潜り込む。


「おやすみなさいっ!!!」


 と言い放ち、先輩の香りのする布団をかぶったものの、ああもう、腹がジャマなんだよ、アンタの腹がよぉ!

 私のもだけどぉぉぉ!


 寝れるか!


 ◇ ◇ ◇


「わぁ十キロ。記録更新だよ」


 そんな黄色い奇声で目が覚める。時計を見ると朝の五時。帰ってきたのが夜中の一時だから、まだ四時間しか寝ていない。

 まだ外も暗いというのに、先輩はバスルームからひょいと顔を出して、


「ゆりちゃん、ゆりちゃん、昨日食べたご飯、全部で十キロだったよ」と嬉しそうに言う。


「はぁそうですか……おめでとうございます」


 思わず不機嫌な声が出た。

 そりゃ不機嫌にもなりますよ。私、寝たばかりなんだから。

 結局あなたのことが心配で寝つけず。うつらうつらするも、聖女様の巨大なお腹とお胸が私を横へ横へと押し出す。

 すみませんね、どちらも私にはないものですから、扱いに不慣れで!


 先輩は寝ぼけ眼の私の手を取り、わざわざバスルームまで連れて来ると、足元に置かれたデジタル式の体重計にまた乗る。


 63.2


「ほら十キロ」


 しらねーよ、アンタの素の体重なんて。


 そんな私を無視して、嬉しそうにお腹を擦って報告してくる。

 わんこかこの人。

 それ以上に居酒屋で十キロも食べる人なんて聞いたことないわ。


「ゆりちゃんも乗ってみて」


 マジか。


 何で私は昨日まで仕事のパートナーだった人の家に泊まって、下着姿で体重を晒してるんだ。


 51.3


「ゆりちゃんと元々何キロなの?」


 プライバシー!


「えっと、四十九くらいでしたかね」


「おー、結構たべてるじゃん」


「もうちょっと食べたと思いますよ。夜中にトイレに行きましたし。あーー、、、すみません勝手に使っちゃって」


「遠慮しなくていいって」


 両手をパタパタと振り、言下に私の謝罪を否定し場を繕う。


「遠慮ですか……どっちが……」


 私の低い声に、えっ、と驚く先輩。


 眠さも極まった私は理性が働かなかった。

 体重計から降り、聖女様に振り回される現状に終止符打つべく、下着姿のままバスルームであぐらをかき、先輩と相対す。


「もう止めませんか。私ってそんなに怖いですか? それとも信じられませんか?」

「無理に変なとこ見せようとしてるの分かってます。明るくふるまって隙だらけなとこ見せたり」

「馬鹿にされてるとは思いませんが、正直、私ってそんなに信用ないんだって悲しい気持ちになります」


 ポカン顔の先輩。


「ちょっと昨日はショックでした。先輩はあこがれの人で、仕事でああなれたらいいなと思ってましたし、きっと素敵な私生活を送ってるんだろうなとか勝手に思ってたんで」

「だから、幻滅してるんだろうなって思うの分かります。でも私のこと試さなくていいですから。もう先輩のこと、ちゃんとわかってますから」


 寝起きなコトいいことに、言いたいことは全部言う。遠慮するなと言ったのはソッチだ。


 口を開けたまま止まっていた先輩は、「ゆりちゃん」と一言口にし、唇を一線に閉じた。

 軽く震えるまつ毛。


『言い過ぎたか……』


 これで切れる縁ならそれまで。私は諦めも割り切りもイイ方だ。

 ふとよぎるイジメ? 知るか!


 だが先輩が、飛びついてきた!


「ありがとう……」


「ありがとう、ゆりちゃん……」


 ズっと鼻をすすった仕草に、この人も我慢してたんだなと思った。


 ◇ ◇ ◇


 勝手にお台所を使って、温かいお茶を入れて、これまた勝手に先輩の服の在り処を聞き出し、ちょっと大きめのシャツに袖を通す。それと部屋着のショーパン。


「落ち着いたみたいですね」


「ごめんなさい」


「別に謝ることでは。むしろコッチこそ目上の方に対して失礼でしたし」


「ゆりちゃんは大人だね」


「いえ、大人は寝起きで、あんな場で、あそこまでズケズケ言わない方を言うのだと思います」


「大人だよ、私のためらいを一発で吹き飛ばしちゃうんだから」


「ためらい?」


「図星だったよ。ゆりちゃんのこと怖く無かったと言えばウソになる。部署で初めての同性だし、ゆりちゃんは毎日怖い顔してるし、不機嫌だし、強く言ったら嫌われそうだったし」


 やっぱり……不機嫌というよりは、急なビッグプロジェクトの責任と、先輩付きになった緊張でテンパってた。


「だからハルさんのところで偶然会ったのは、もうチャンスだなと思って」


「ああ……もういいです。大体分かりました。何か変だと思ったんですよ、バツの悪い所で後輩に出くわして、あんなに飲み食いするもんかなって」


「すみません……、全部さらけ出しちゃおうかと」


 さらけ出すのと露悪は違うと思いますけど、という言葉は飲み込む。


「いいですって、なんか立場が逆転しちゃってますから」


「まぁ? 予期せぬ聖女様のお姿を見てしまいましたが、先輩はやっぱり凄いと思ってますし、これから色々教えてもらいたいですし、今も先輩みたいになりたいと思ってますし」


「ホント?」


「ウソついて、どーするんですか」


「じゃ、ゆりちゃん、一緒にお昼食べてくれる?」


「うんまぁ、いいですよ。では、バーターで私のことビシビシ鍛えて下さい」


「もちろん! 鍛えちゃう! 私が三年で身につけたことを半年で教えて一人前に育ててあげる! あ、一人前じゃ足りないか。十人前くらイケるように鍛えちゃうよ!」


「十人分?! そんなに働くのはちょっと」


「いや、十人分は胃袋」


「それは遠慮しときますっ!!!」



 ◇ ◇ ◇


 翌週。


 朝、いつもより早めに出社すると、先輩が先に仕事をしていた。


「おはようございます」


 先週末のこともあり、ボソっと挨拶すると、「週の始めなんだからシャキッと声を出す。自分のモチベーションは自分で切り替えていきな」と、いきなりのご指導。


「ゆりちゃん、先方に半月後のアポとったから、それまでに再チャレンジの企画作るよ」


「は、はい」


 う、う、今回は遠慮なしだ。お願いしたのは私だけど。


 こりゃ厳しくなりそうだと、思いつつカバンを置いて、ノートPCを起動。まだ、ログインもしていないというのに、ツカツカと先輩が私の席にやって来る。

 そしてコピー用紙の束をドカッと机に置いた。


「あの、これは……」


「先方の会社概要と、店舗開発事業部長の略歴、それと手掛けた仕事の一覧。あと参考になる店舗リストと、あなたの今までの議事録」


「これをどうしろと」


「これ明日までに読み込んで、頭に叩き込んでおいて」


「えっ? 明日までですか?」


「ええ」


 困惑の私を無視して先輩は続ける。


「前回のプレゼン、誰をターゲットに作った?」


「それは、あの……」


「誰が本当のキーマンなのか、プレゼンの前に探り入れてないでしょ。そういうとこ、甘いのよ」


 出社し始めた部員を前に、先輩は私の企画のダメ出しを始める。


「まず、ゆりちゃんの企画は現実を見てない。企画はアイデア集じゃない。企画書は先方の言葉にならない思いを拾い上げて、形にする現実的な提案なの。ゆりちゃんの提案はファミリーをターゲットにしたのはいいと思う。けど、例えばココのイメージ図の壁紙、なんでこの壁紙にした?」


「その方が色も落ち着いてて、おしゃれかなと思って」


「うん、確かにおしゃれ。けどそれはゆりちゃんにとってでしょ。ファミリーで小さいお子さんもいることを考えたら?」


「うーん、ちょっと高級感があり過ぎて、みんな静かにご飯食べてそうです」


「でしょ。このイメージ図はレイアウトを提案するものだから壁紙の図案は私たちのスコープじゃない。けど、プレゼン相手の辰巳事業部長は見てる。だから、このページであの人の手が止まったの」


「でも、そこを指摘されても、私たちの提案はレイアウトであって」


「そういう細部の本気度が明暗を分けるの。向こうは巨額を投じて店舗を作るのよ。レイアウトだけなんて考えてない。私たちが同じ目線で店を作る気持ちで考えないと、向こうも乗ってこないわよ。『ここが私の領域です、あとは知りません』って考えは改めてちょうだい」


「はい、すみません……」


 不満げに謝ったのが透けて見えたのだろう、先輩の顔が、急に怖くなった。


「これはゆりちゃんの企画よ、あなた以外ブラッシュアップできる人はいないんだから、やり方を選ぶのは、ゆりちゃんが結果を出してからにしなさい」


「は、はい!」


「あと、今日から午後は市場調査に行くから! やることは全部午前中に片づけておくこと」


「ハイ!」


 う、う、う。泣くほど厳しい。


 プレゼン惨敗の翌週から急に厳しくなった聖女様を見て、部員の皆様は「お前何やらかしたんだ」「聖女様を怒らせるなんてただ事じゃない」「早く謝れ」の大騒動。

 だが、ここで逃げちゃダメだ。

 茶化すメンバー達には「私がダメダメで先輩を怒らせちゃいました」と適当なことを言ってはぐらかし、相手にしないようにする。



 午後は情報を集めるために、外に出かける。


 先輩の指導はシンプルだった。

『相手の求めることを、自分事として考えろ』

『情報はネットで仕入れてもいいが、必ず自分の目で見ろ』

『徹底的にリアルに考えて形にしろ』

 たったそれだけ。


 辰巳事業部長を落とす作戦もきわめて単純で、レイアウトサンプルのイラスト一枚で勝負するというモノだった。

 文字の仔細は後でついてくるモノだから、いま詰める必要はない。

 いま必要なのは、「こいつら組んだら、このプロジェクトは成功する」という一撃を与えること。それを伝えるには絵が一番いいとのことだった。

 先輩はなぜそこまで確信を持っているのかわからないが、選べる立場でもキャリアでもないので、先輩を全力で信じる。


 今回手掛ける店舗は、新しいタイプのフードコートだ。

 フードコートといえば、壁際にいろいろな店があり、フロアの真ん中にテーブル席が一杯あるイメージだが、先方はその常識を壊したい。

 それで外部の企画会社にアイデアを求めてきた。


「ゆりちゃん、今朝渡した資料のお店は全部、行ってみるから。あと、ゆりちゃんも自分の企画に入れたいお店を見つけておいて」


 はい、といいつつ、分厚いコピー用紙をペラペラとめくると飲食店が六十店くらい。


「一日六店、見てまわっても、納期ギリギリですね」


「そうね。半月は厳しいと思ったけど、それ以上待たせると、向こうも温度が落ちちゃうから。キツイけど全部実食しようね」


「はい」


『あれ? いま実食と言わなかったか?』


「ちょちょちょ! 一日に六店回って、六回ご飯食べるんですか?!」


「そうよ」


「ムリムリ、ムリですって!」


「何言ってるの。人は一日に三食たべんのよ。ちょっと倍、食べるだけじゃない」


「倍ですよ、倍! わたし普通の女の子なんですけど!」


「普通の女の子ね。じゃ、その普通、捨てて」


 唖然! こいつしっれっと言いやがった。


「まぁ、お昼を兼ねて、まずは一件目のオムライス専門店いきましょ」


 聖女様~


 ◇ ◇ ◇


「ここのオムライス、発酵バターが香っておいしい!」


「そうね。確かに香りがいいわね」


 つい三十分前までは先輩に盾突いていた自分を忘れて、目の前の美味オムライスをパクつくわたし。

 あれ、この仕事、おいしいのでは? なんたって、おいしいご飯が会社のお金で食べられる。確かに先輩の言う通り、人間、三食は自動的に食べるのだ。それがちょっと会社のお金で増えるだけじゃない。


 ご飯にふんわり混ざる自家製トマトケチャップが、ピリッと胡椒の効いたプルプル半熟たまごと絶妙に絡まって、するするといくらでも入っちゃう。


 おいしい、おいしいと一気に食べて、早々に店を出る。


「次はどこにいきます? 先輩」


「その前に情報整理ね」


「情報整理?」


「ちょっと、そこの喫茶店に入りましょう」


「はぁ」


 と店に入って、私はこってり先輩に絞られることになる。


「ゆりちゃん、何しに実食してると思ってるの?」


「す、すみません……つい、美味しくて……」


「あなたのお腹を膨らませるために食べてんじゃないの、どのお店を誘致すべきか考えてるのよ私たちは! 店主の動きはどうだったか、店は清潔だったか、什器のセンスは? 誰向けの味だった、盛り付けや、色見、付け合わせは、どのくらいの原価か、何も見てないじゃない!」


「はい……おっしゃる通り何も見てませんでした」


「まったく……、ここは私のメモがあるからいいけど、次はちゃんと見るのよ」


 二件目。

 今度はちゃんと見るぞと気持ちを入れ替え、ハンバーグの有名店へ。


 お店でイチオシの黒デミグラソースのハンバーグを頼む。


 おお、肉の焦げる香りが食欲をそそる。香りはお客を呼ぶからね。これはいいポイントかもしれない。

 そう思い、胸ポケットからメモ帳を出し、コメントを書こうとすると、先輩がめっちゃ怖い顔でこちらを睨んでいる。


『あれ? 後ろに怪しい人でもいるのかしら?』


 ちらっと後ろを見るも、普通に小学生くらいのお子さんを連れたご婦人がいるだけ。

 勘違いかと思い、メモを書こうとすると、先輩が椅子から腰を上げて私の耳元で。


「メモを取るな」


 まじでビビりました。あんな低い声でドスを効かせて言わなくても……。背筋に冷たいモノが走りましたよ。

 ハンバーグは粗挽きの肉感たっぷりで、美味しかったけど。


 実食を終えて公園のベンチにて。


「あんた、アホなの!」


「アホって」


「あんなとこでメモとってたら、調査してますってバレバレじゃない! 印象最悪でしょ!」


「でも忘れちゃいますし」


「全部覚えるの! 暗記するの!」


 う、う、う、聖女様にアホ扱いされちゃったよ。


 三件目。

 お寿司のお店に行く。今度はメモは取らないぞ。見るべきところは見る! 覚える! ネタも一通り食べて、何がおいしいか確認するぞ。

 張り切って、カウンター越しの大将に注文を出す。


「すみません! 中トロと大トロと、ウニといくらと、あわびと、甘えびと……以上でお願いいたします!」


「ゆりちゃん……」


「はい! 今度はちゃんと食べて、見て、全部覚えますから!」


「いいわ、あとで全部話すから」


 大量に出てきた、お寿司を片っ端から味わい、お腹がパンパンになるまで食べ尽くす。


『うん、本わさびってビリビリ来なくて、お寿司本来の旨さを引き立てるわ』


 なんて、いっぱしの調査員気取りで評価を下していたが、いざ、支払いの段になって、先輩が頭を抱えた理由が分かり、私は青くなった。


「先輩の仰りたいことは、だいたい想像がつきました」


「そ、じゃ言ってごらんなさい」


「はい、この店は高過ぎです。すごくおいしいですけど、ファミリーターゲットの価格帯じゃないです」


「正解。それは三十八貫も注文する前に気づくべきだけど」


「すみません」


「先に言わなかった私も悪いし、流石にこの金額じゃ会社のお金じゃ落ちないから、私のおごりでいいわ」


「ほんとにすみません……」


 四件目は、フル定食を二つに、お寿司を四十貫近くも食べたお腹にスペースはなく、先方の社員さんが転職した先で手掛けたという店舗を見に行く。


 電車に揺られると、お腹の中が上下左右に揺さぶられて苦しい。トビウオが口からぴょんと出てきそう……。

 先輩は平気な顔してるのに。

 あれだけ食べれるのだから、このくらい食べた内に入らないのだろう。


「大手ビルの二階に作った居酒屋街ね」


「天井が凄く低いですね」


「いい着眼点ね、居酒屋は賑わい感が大事だけど、天井が高すぎると閑散としてしまって、元気がないように見えるの。だからあえて天井を下げてるワケ」


「なるほど、でも消防法で天井をふさげないから、飾り物を置くんですね」


「そう、どう? 店の密度は」


「レイアウトがうまいと思います。奥が見えない作りとか。でも掃除が大変そう」


「それもいいポイントよ。わたしはテーブルの形をそれぞれに変えてるのがいいと思うわ」


「確かに、これなら二人から六人のお客さんに対応できますし、店に変化が出て飽きがこないですね」


「先方はこのくらいの店を作れるのに、閉塞感を感じて私たちに協力を頼んできたのよ。どう? なんとなく私たちのアウトプットに求められている水準が分かったかしら」


 そういわれて、急に辰巳さんへの申し訳なさが込み上げてきて胸が詰まった。

 半月後に再プレゼンの機会をくれたということは、辰巳さんは私たちに期待してたんだ。それなのにネットで見たような企画を作って、持って行ってしまった。

 辰巳さんの危機感とか全然考えてなかった。

 悪いのは全面的にこっちだった。全然応えてなかったのだから。


 信じてくれてたのに応えられなかった自責の念。同時に自分の実力はこんなものと、勝手に限界を決めて逃げていた後悔。


 けど、その思いが深まるほどに自分の中から、今度こそは全力で応えたいと叫ぶ、強い力が沸き起こってくるのも感じる。まるで、もう一人の自分が目覚めるような。


「先輩、次に行きましょう! あの、私、このアイスのお店を見てみたいです。ファミリーで来ても、最後にデザートってあると思うんですけど、アイスクリームって子供も大人も、男も女も関係なく、嫌いがないデザートだと思います。どんな品揃えか見てみたいです」


「そうね、アイスならゆりちゃんのお腹にも入るでしょうし」


 その日は、その後、讃岐うどんのお店で「かまたま」と「ぶっかけ」、立ち食いステーキのお店で「ヒレステーキ」と「牛はらみステーキ」、そして、岩塩で食べる牛丼のお店に行った。

 二十三時に家に着くころには、私は足の裏に重みを感じるほどのお腹になっていた。


 ◇ ◇ ◇


 そんな生活を一週間続けると、さすがに体に変化がくる。


 最初のうちは、食べきれないで残すと、

「全部たべる!」

 と、めっちゃ先輩に怒られていたが、気が付くとお腹がきつくても、最後までペロリと美味しそうに食べられるようになっていた。

 ラーメンもスープまで飲み干す! 満腹でも。

 じゃないと店主に失礼だから。


 とはいえ体は正直で、スカートのお腹周りがキツイなってきてた。体を捻ると腹部が突っ張る感じに。なんか顔も丸くなった気がする。

 それは気のせいではなく、同期の男共に「ゆりっぺ、ストレス太りか」と、揶揄される始末。

 いいのだ。体も仕上がってしまったが、私たちの提案は確実にいいモノに仕上がってきているのだから。けど、あと一つ足りない。なにか目玉というか華がない。

 それは先輩も感じていて、「うーん、レイアウトはいいのよ、面白味のある場になっているし。でも磁石がないのよねぇ」と、頭をひねり続けてる。


「先輩、ちょっといいですか」


「ん、なに」


 そのことを相談に行くと、


『あれ、なんか先輩、ちょっと雰囲気違くない?』


 全体に厚みが増したような。いや、もともと胸周りの厚みがあるお方だが、なんだろう、なんか顎の辺りが……。

 ちょっと本題は横に置いて聞いてみる。


「もしかして、土日に店探してましたか?」


 先輩は一瞬軽くのけぞり、顔をほころばせる。


「あはは、ゆりちゃんにはバレるか」


「いやだって」


「まあ、ゆりちゃんほどじゃないよ」


 と、お腹を指差されても、腹は立たなかった。

 多分この人は私の何倍も店を探し回っている。あれだけ食べても平然として、大食いしても『どんどん出るから太らないの』と能天気に言っていた人が、わずか二日で体にキているのだ。たぶん休日の二日間は、朝から夜中まであのフードコートにぴったりの店を探して食べ続けたに違いない。たぶん想像を絶する量を食べているはず。


「今日は、仕事を切り上げてハルさんのところに行きませんか。私たちはちょっと冷静になったほうがいいと思います」


 先輩は胸の下で腕を組んで、カクっと首を落とす。今まで無かった顎のお肉が、苦悩を物語っていた。


「わかったわ」


 そして私たちはハルさんとの会話で、大きなヒントを得ることになる。


 ◇ ◇ ◇


「あの先輩、スーツがピチピチでちょっとハズいんですけど」


 つい半月前まで、ぴったりだった私の勝負服は、電車の改札をピッとするだけで、二の腕が突っ張るアンダーサイズのスーツになってしまった。

 胸は……残念ながら強力な遺伝子のおかげであまり変わらず。そのかわり背中と二の腕の肉付きがずいぶんよくなってしまった。なによりお腹が段になり、下っ腹がぽっこりしてるのが恥ずかしい。

 ジャケットの前留めのボタンがギリギリ。

 あとお尻まわりが。

 どうしてレディースのスーツは、ウエストが細くて、お尻が出るように作られているんだろう。


「スーツ買えなかったの?」


「時間がなくてっ!」


「でも、まぁ……」


 というと、先輩は私の全身をなめ見てニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべた。


「いいんじゃない」


 えっ、よくない。全然よくない。ていうか、先輩そういう嗜好?

 私を太らせて食べちゃう、宮沢賢治的な?



 先方の会社の受付担当に「店舗開発事業部の者がまいりますので、少々お待ちください」と、着席を促される。


 初見の担当者に案内されて、前回、門前払いを受けた会議室に通される。

 打ち合わせ時間は過ぎているが、しばらく待つ。


 まさか会ってくれないということは無いと思うが、「ゆりちゃんは顔に出すぎ」という言葉を思い出し、深呼吸して自信を自分の内側に蘇らせる。


 やるべきことは全てやった。先輩も私も出せるものは全部出した。人生の中で最も濃密な時間を過ごした。何度も先方のニーズを聞いたし、それに応える内容を盛り込んだつもりだ。


『これでだめなら……』


 これでダメでも悔いはない。それより凄い人がいたというだけで、私たちがダメなわけじゃない。


「遅れて申し訳ございません。前が長引きまして」


 辰巳事業部長が一人で入ってきた。あれなんで一人で?


 私たちは、起立して辰巳さんに頭を下げる。

 辰巳さんは、資料が置かれた席を目指す足を止めて私たちを見る。その瞬間、表情が厳しくなった。


「早乙女さんね」


「いえ、本件は東雲がメインです。私はサポートです」


「そうですか。どうぞおかけください」


 ここから私の出番だ。


「本日は、お忙しいところ、お時間を頂きありがとうございます」


 プレゼンのシナリオはバッチリ頭に入っている。目をつむっても二十分を空で話せるほどだ。


「では、ご説明を……」


「ちょっといいですか。先に資料を見せてもらえますか」


 シナリオーー!!! こっちは用意してるのに。

 一瞬動揺しそうになる心を抑えて、「どうぞ」と冷静に答える。

 その顔を辰巳さんは眼鏡を下にずらして見てくる。その姿が威圧的で怖い。


 辰巳さんはパラパラとパワーポイントの資料をめくる。

 そして最後のページまで。


「あの、ご説明を始めてもよろしいでしょうか」


「僕から質問してもいいかな」


「はい、もちろんです」


 おいおい、私のプレゼンは!? 私のシナリオは!?

 ちらっと横目で先輩をみると、おすまし顔。

 助けて欲しい気持ちが沸き起こるが、それを力づくで封印する。


「コンセプトはなぜこうしたんですか」


「はい、『家族で過ごすちょっと特別な時間』は、御社がずっと実現してきたテーマだと思いましたので」


「どういうところで」


「御社が手掛けた店舗をすべて拝見しましてそう感じました。店舗形態は様々ですが、誰かと一緒にいることが前提になっているお店作りです」


「そう」


「天井が低すぎて苦しく感じるんじゃないかな」

 資料のイラストを指でトントンと指し示し、厳しめに指摘する。


「はい、その懸念はありますが、落ち着ける空間になるようにあえて下げています。ですが、メインの通路部分は床を落としています。歩いて狭苦しい、怖いということはありません」


「小上がりにちゃぶ台は面白いね。だが足の悪い人には不便じゃないですか」


「小上がりの床をずらせるようにし、車イスでも、同じちゃぶ台を囲める工夫をします。どうしてもという方にはテーブル席もありますので、そちらをご案内できます」


「そうですか。イラストのお店は実在するのですか?」


「はい、ファミリーのお客様に特別な体験をしてもらえるお店を探しました。あくまでサンプルですが、このようなお店に入っていただき、日常とはちょっとだけ違う特別な家族との時間を過ごしていただきたいと思っています」


「……総じてですが、私の目には地味に見えてしまいます。何店か私も知っている店がありますが、どれも話題になっている店ではない。レイアウトもよく考えられてますが、モダンではない感じがします。いかがですか」


 最も厳しい質問が来た。だが、これは想定していた。


「おっしゃる通りです。地味だと思います。特別な時間と言っているのに特別じゃない。でもいいんです。❝特別❞は特別なモノから作られるんじゃない。特別な人から作られるのだと思います。だからフードコートですが、普通にちょっとおいしいお料理、気遣いなく話せる空間、そして目線の合う高さを意識してレイアウトしてます。特別は特別だから疲れます。刺激的なものは刺激だから慣れます。慣れたとき輝きは失われます。この空間には普通ですが、決して失われない思い出を彩る気遣いとサービスが入ります。それを私はとある割烹で教えていただきました」


「具体的にはどんなことを?」


「すみません、それは御社と一緒に考えさせてください。しかし、それに応えられるお店はご用意できる自信はあります」


 辰巳さんは、ふーと息を吐きだし、壁掛けの時計をちらっと見た。

 そして、手に取っていたプレゼン資料をトントンと整え、机の縁と平行に置いた。


「申し訳ございません。先約がございまして。本日はありがとうございました」


 上げ下げしていた眼鏡を、きっちりと付け直すと、スクッと席を立ち、「失礼」と言って会議室を出ていた。

 何もなかったように淡々と自然に。



 取り残された私たちは、どっと疲れて、やっとの思いで緊張という名の感情を、体の中から吐き出した。

 すっかり静かになった会議室は、ただ空調の音だけが鳴っていた。

 この場所は、わずか一時間前とは全く違う。

 もう私たちを必要としていない。

 言葉にするなら、『お帰りください』

 そんな事後の空気に満ちていた。


 そのことに気付いたら、なぜか涙が出てきた。


「すみません。あんなに力添えを頂いたのに、力及ばず」


「ゆりちゃん」


「全然シナリオを通りに話せなくて」


「しょうがないよ。準備の通りに行かないのが世の中だよ」


「あんなに教えてもらって、なのに、なのに、ごめんなさい。ごめんなさい」


 まだ先方の会社にいるというのに、涙が止まらない。

 とめどなくボロボロと溢れてくる。

 私じゃない私が泣いている。悔しくて、いままでサボってきた後悔に泣いているんだ。


「それはゆりちゃんが頑張ったからだよ。これ以上ないくら頑張ったから涙が出るんだよ」


「先輩……」


 しがみついた先輩のスーツからは、あの日、かぶった布団のにおいがした。


 ◇ ◇ ◇


 それから、二週間経っても先方から連絡はなく、あの案件は過去になりつつあった。

 先輩も来週には、私付きを離れて別の案件の担当になる。今度はアパレル関係の企画らしい。

 私も次の企画案件が決まっており、「あの大型案件は惜しかったねぇ」なんて昔話に語られるようになった。


「来週には、離れ離れか~」


 会社が入る雑居ビルのフリースペースで、先輩とお昼をしていると、遠い目をした先輩が珍しく気の抜けた声で声でつぶやく。

 事務スペースの先輩は聖女様なので、こんなぽわ~んとした声を出すことはない。


「わたしは先輩の暴飲暴食から解放されて、やっとダイエットができます」


「なんだよー、誰が七つの大罪だって?」


「言ってませんよ、聖女様が実は暴食のグラトニーだなんて」


「あー、絶対思ってる」


「まぁ思ってますけどぉ?」


 あはははと、乾いた笑いを交わして、二人してお揃いのお弁当箱からアスパラのベーコン巻をつまみ上げると、パクりと同時に口へ。


「また先輩と市場調査で食べ歩きしたいですね」


「そうだね、食べ歩きじゃないけどね。でも、くくく……」


 なに、この笑い。


「あの、くくく、最初の頃のゆりちゃんのアホさときたら」


「アホですと!」


「だって、ほんとに基礎がなってなくて、私もイラっとしたから、初日はこいつにとことん食わせてやるって思った」


「やっぱり! あれはイジメだったんだー! あの晩、私、夜中にお腹痛くなったんですよ。横になっても息ができないくらい苦しくて、食べ過ぎで死ぬかと思いましたもん」


「でも、ちゃんと私に着いてきた」


「だって、絶対負けたくなかったから」


 二人で笑い合って、自販機で買ったヨーグルト味のパックジュースを啜り、青空を気持ち良さそうに流れる雲を見るでもなく見ていると、部長がお昼休みに歓談する社員達を押しのけて、フリースペースに駆け込んできた。


「早乙女さん、東雲さん、来た! 来たよ!!!」


「はい?」


「早く来て!」


 早く早くと促されてフロアに戻り、部長のノーパソを覗き込むと、そこには一通のメールが。


 宛先にはTasumiの文字。

 本文には、


『御社への発注を決定いたしました。』


 とだけあった。


「これって……」


「取ったんだよ!!! ウチが! あの案件を!!!」


 頭を寄せ合ってメールを見ていた部員もうわーっとお騒ぎ。

 昼休みに椅子にもたれてスマフォをいじっていた同期の男共も駆け寄ってきて、私の頭をわしっと大きな手で掴み、ぐしゃぐしゃとかき回す。


「やったな東雲! 大型案件だぞ!」


 セットが乱れるだろ! 頭を触るな!


「そんなになるまで頑張った甲斐があったな!」


 そんなにだと? コイツ、さりげにディスりやがったな!


 企画部は全メンバーが集まり、まさかの受注に上へ下への大騒ぎ! ただ先輩だけは、ふうとため息をついて給湯室へ。


「すみません! ちょっとすみません!」


 私は後を追う。


「どうしたんですか?」


「なんかさ、凄く嬉しくて」


「そうですね、ホント、やったって感じですね」


 先輩は長いまつげに人差し指をあてて、涙が零れないように堪えている。


「ううん、そういうんじゃなくて、本当に胸の奥から嬉しいの。私がやった仕事の中で、今が一番嬉しい」


「先輩はもっと大きな案件も取ってるじゃないですか」


「そうだけど、ゆりちゃんと一緒に泣き笑いしてやって、ゆりちゃんがどんどん成長して、一人前になって、受注を取ってくれたのが本当に嬉しかったから」


「そんなことないですって。これは先輩がいなかったらできなかったですし、頑張れたのは先輩のおかげだし」


「ううん、これはゆりちゃんが勝ち取ったんだよ」


「でもでも、ホント、私は先輩についていっただけで、資料もアウトラインは先輩が……」


 先輩はいろいろしゃべろうとする私の口に人差し指を当てる。

 そして、ポケットから会社スマホを取り出して、画面を私に見せた。


 ‐‐‐

 東雲 悠侑璃しののめゆり


 お世話になっております。辰巳です。


 あなたの提案は本当に素晴らしかったです。

 しかし、お体はお大事になさってください。

 ‐‐‐


 私たちだけに宛てたメール。


「フルネーム……めんどくさい漢字なのに」


「辰巳さんは、ゆりちゃんがこの企画にすごくカロリーをかけて、本気で提案したのを、ちゃんと分かってくれてたんだよ」


 このメールを見て、「受注確定」メールを見たとき、部のメンバーはあんなに喜んでたのに、なんで私は同じように喜べなかったのかが分かった。

 仕事っていろいろな人の協力や、周りのみんなから応援をもらいながらやるんだ。だから結果が出たとき、『やった!』じゃなくて、『ありがとう』なんだと。


「辰巳さんいい人ですね。ハゲおやじって言っちゃったけど」


「そうね」


「辰巳さんは、どこを見てイイって思ったんですかね」


「んーーー、そうだな、ゆりちゃんがまるまるとしてたとこかな?」


「ひっどーい! 確かにこの企画にカロリーかけましたし、カロリーも取りましたけど」


「ホントだって。辰巳さん、部屋に入ったとき、足を止めて、ゆりちゃんのこと、二度見したでしょ。あの時から目つきが変わってたから。実際、ゆりちゃん、半月前とは顔つき変わってるし」


「すみませんね、丸くなって」


「あははは、そうじゃなくて、プロの顔になったってこと」


 なんて私をいじりながら、先輩はちょっと寂しげな笑みで私を見返す。


「ありがとうございます、こんな私を育ててくれて」


「こちらこそありがとう。でも、ちょっと化けるの早すぎよ」


「そんなことないですって。まだ全然、応用効かないですし、まだまだ育ててもらいたいです。それにこの企画、これからが本番なんですから」


「そうだね」


「ところで聖先輩! 提案なんですけど、今日……」


 ◇ ◇ ◇


「あれから先輩と行けそうな、おいしいお店を探してたんですけど、やっぱり先輩といったらココかなって」


 縄のれんを両手で分けて、ガラガラと古臭い音を立てる引き戸を開ける。


「こんばんはー、ハルさん来ちゃいました。今日は先輩へのお礼なんで、いろいろサービスよろしくお願いします。あ、先輩、今日は私のおごりなんで、何を頼んでもいいですよ」


「お、太っ腹だ。じゃ私はいつもヤツで」


 ハルさんは、おやおやと声に出さない表情で私を見ると、しわしわの顔でにっこり微笑み、厨房へ引っ込む。


「かっこいいですね。いつものがあるなんて」


「でしょ」


「で、いつものはどれですか?」


 私がメニューを指でなぞると、先輩は私の背中に胸を押し当て、後ろから私の手を取る。


「ここから」 


 つつつっと滑る指先。


「ここまで」


「って! メニュー全部じゃないですか!」


「そう、今日は二人で食べつくそう!」


「ちょっと! わたし今日からダイエットしようと思ってたんですけど!」


「そんなのダメだよ、だって、わたし、ゆりちゃんを育てるって約束しちゃったもん」


「大食いの方はもういいですって!!!」


 というわけで、わたくし、東雲 悠侑璃。

 ただいま聖女様に育てられてます!


 了

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ただいま聖女様に育てられてます 浦字みーる @yamashin3

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