江戸に行った話

青崎衣里

江戸に行った話



昨夜、録画してあったNHKの「歴史探偵」という番組を視聴した。

今期の大河ドラマ「べらぼう」とコラボしたテーマ、吉原と日本橋を取り上げた回だった。


この番組は最近よくVR映像を作成して流してくれるので、それをかなり楽しみにしている。以前見た合戦のようすや平安京、安土城なども素晴らしい出来で、とても分かりやすく面白かったからだ。こうした技術は日進月歩、どんどん良くなっていて、見るたびに心躍る。今回も見事に吉原や日本橋のようすが再現されていて、実によかった。


そして、アナウンサーの方がVR映像の中で日本橋川を渡っている(自身が船に乗って川を渡っているように感じる映像を作成して流している)とき、その横をスーッと猪牙舟ちょきぶねが通ったのだ。

猪牙ちょきだッ!」

思わず口に出してしまった。





猪牙とは江戸の庶民が利用していた交通手段の一つ、水上タクシーのこと。水路が張り巡らされていた江戸の町では、荷物の運搬だけでなく、長距離移動の足として小舟がよく使われていたらしい。

私がそれを知ったのは杉浦日向子先生の著作からだった。


杉浦先生は江戸風俗を題材とした漫画でデビューされた方だが、漫画だけに留まらず、エッセイなども多く執筆、NHKでは江戸を題材にしたテレビ番組も担当されていた。悲しいことにご病気で早逝されてしまったが、先生の著書「一日江戸人」や「江戸アルキ帖」は大好きで何度も読んだ。


ちなみに「一日江戸人」はまさに江戸のガイドブック。

イラストも多く含まれていて、服装や売り物の流行り廃り、人々の生活スタイルなどがたくさん描かれている。


そして「江戸アルキ帖」は、言わば未来人の江戸観光日記だ。

タイムトラベルが発明された時代の人が資格を取って江戸時代へと赴き、その時代の人々に紛れて江戸観光したようすを日記風に綴っている。もちろん歴史改変につながるような事を行ってはいけないし、現地の人々の邪魔をしてもいけないので、未来人だとバレないように注意しながら「ごく普通の江戸の人の暮らし」を体験する単身ツアーといった感じだ。

私はこれが大好きなのだ。


「江戸っ子に紛れてこっそり(過去なんだけど未来人にとってはほぼ)異世界を楽しむささやかなお話」を読んでいると、いつも不思議な気持ちになった。自分が知らない外国を旅した人のエッセイと何ら変わらない。それほどにナチュラルで、すんなりと読み手をその世界に誘ってくれる。

きっと先生は本当に(頭の中で)江戸に通っていたんだろうなぁと思うのだ。


魚河岸でたらいに入った魚を手に売り買いする人々の熱気。大きな橋を荷物を担いで移動する配達業者。大店が建ち並ぶ日本橋はまさに巨大なショッピングモール。買い物客に声をかける唐辛子売りは、出張販売や実演販売の先駆けだろう。

大変よく作り込まれたVR映像を眺めながら、これこそまさに杉浦先生が執筆の際に思い浮かべていた光景に違いないなと思った。





物語を読むという行為は、異世界への小さな旅のようなものだ。

私の知らない世界に繋がる扉を開けて、ほんのひととき、そこで起こる出来事を覗き込む。

物語を書くときも、そういったつもりで綴っている。拙作の魔道具店のお話などは、まさにそのものと言っていいだろう。



現代では優れた技術によるVR映像で江戸の町を垣間見ることができるけれど、文字で私にそれを教えてくれたのが杉浦先生だった。


「ここに扉がありますよ」

「この頁を開いたら、あなたはいつでも江戸に行けますよ」


本棚に収まっている文庫本が、今も私に語り掛けてくるのだ。

久しぶりに思い出したので、そのうちまた江戸に行ってみよう。




そして、私だけが知っている異世界のことも少しずつ書き綴り、見知らぬ誰かにそっと扉を開けてもらおうと思っている。




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