第2話

「まだに決まってるでしょ。あなたに話してから……どうしようかって」


 俺は空になったグラスをもう一度口に運びかけてからそっとテーブルに戻す。


「幸枝はどんな顔するかな?」


 言いながら苦笑が漏れた。それにつられるように雅美も同じ顔を作る。


「ちょうど五十歳。高齢出産もいいところだな」

「なんだかお医者さんに行くのも恥ずかしいっていうか……」


 そこで雅美は少し表情を引き締めた。


「それとも幸枝には知らせないでおく?」


 伏せられた意味を瞬時に掴んだ俺は口元に力を入れた。



「……堕ろすってことか」

「わからないからあなたにこうして相談しているんじゃない」


 もっともだと頷きつつも、即答は出来なかった。雅美同様俺も迷っているからだ。だが、迷いは僅かの間に消散していた。


「せっかく授かった命だしな。いろいろリスクはあるだろうけど」


 穏やかな口調で切り出す言葉に雅美も肩の力が幾分か抜けたようだ。


「そうよね。そのことも含めてお医者さんに一度行ってみようかしら」


 その後は同じテーマでも笑いを伴う会話がテーブルの上を行き交った。



 幸枝が帰宅したのは夜の八時頃だった。幸枝も俺と同様、車で通勤しているためヘッドライトの光が窓に射し込む。食事は会社の同僚と済ませて来たと、軽く言葉を交わしただけで足早に二階へと上がっていった。その後ろ姿に二人で目をやってから、さすがに今日の今日じゃまずいよなと瞳で語り合った。


 幸枝の部屋は六畳の洋間。そしてその隣に俺達夫婦が寝ている和室がある。こちらも六畳だ。もう一つ、四畳半があるが、そこは物置代わりに使われている。いつもと同様、並んだ布団に潜り込んだものの、今夜は隣までの距離が気恥ずかしくも感じられた。


「今夜も本を読む?」


 雅美の問いかけに軽く首を振る。


「いや、今夜はいい。灯りを消してくれ」


 ほどなくして視界に映るすべてのものが暗闇に包まれた。雅美の息遣いは聞こえたが、寝ている風でもなかったため、そこへ届くほどの声で囁いた。


「来年生まれたとして俺は五十三……か。小学校に上がる頃は還暦ってことか」

「でも今は結婚が遅い人もいるからそんなに珍しくもないんじゃないかしら」


 同じような声が返って来る。


「そうだな」


 相槌を打った後で子供が成人する頃はいくつになるのだろうかと考えていた。


「二月頃よ」


 不意に聞こえた言葉の意味が理解できず雅美の方に顔を向けると、「十月十日って言うでしょ。今は四月だからそのくらいかなって」


 真っ暗な闇の中でも雅美がこちらを向いているのがなんとなくわかった。



 翌朝、三人で卓を囲んだ。いつもと何ら変わらない風景だが幸枝は何か違った空気を感じ取ったのだろう。


「なにかあったの?」


 俺達の顔を交互に見てからそう呟いた。さすがに長年共に暮らして来た娘だ。思わずあげそうになった口角を寸でのところで堪えた。


 いずれは話さなくてはならない。しかし、今は早い気がする。それは雅美も同じなのか何もないわとお澄ましを決めた。

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