第4話〜頭が、揺らいだ〜

 泉は先に焼肉屋に着いていた。黒のタートルネックのセーターは、彼の長い首と白い肌を際立たせ、どこか憂いを帯びた美しさを醸し出している。七輪の煙が揺らめく中で、彼はスマートフォンに視線を落としていた。相変わらずの美貌に、私の心は小さく跳ねた。


「やあ、久しぶり!」


 そう声をかけながら、同い年であることを良いことに遠慮なく彼の肩を叩いた。奥の席へと体を滑り込ませ、隣に腰を下ろす。三ヶ月ぶりの再会だ。


「おー、元気そうだね」


 泉は顔を上げ、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。その懐かしい穏やかな表情に、少し安堵を覚える。


「どう?新しい仕事は順調?」


 言葉に出かかった軽薄な問いを飲み込み、代わりに自社アプリの決済音を真似てみせた。「アゲアゲ?…ああ、違うか。アーゲーアーゲー、だった?」泉は小さく笑った。


 「そんな浮かれた仕事じゃないんだよ。入社して三ヶ月だけど、もう疲弊してるよ。」私は彼に向かって、自嘲気味な笑みを浮かべた。


「え?マジで?!インドネシアであんなに活躍してたのに?」


「だって今は、ほとんどフルリモートなんだ。」


 そう答えると、泉は顔を上げて、堪えきれないように笑い出した。


「なんだ?あのミサキ・フジサワが、まさか引きこもり?頭に雷でも落ちたのか?あなたは外に出てなんぼでしょうよ。」


「そんなんじゃない!わかってんだよ。もう、酒だ……」


 私の表情は自然と陰った。タッチパネルのメニューに手を伸ばし、ハイボールのダブルメガを注文する。喉の渇きと共に、心の奥底に澱んだものが湧き上がってくるようだった。


 泉とは、前の会社で知り合った。その会社は外務省から業務委託を受け、東南アジアの国々でのスタディツアーを主催していた。日本国内の人手不足を補うため、海外からの人材派遣に関わる企業の関係者が主な参加者だった。介護、建築、宿泊業など、多岐にわたる業種の人々が、現地の状況を視察し、関係を構築することで、より良い人材の受け入れを目指していた。英語力を買われた私は、社長直々にそのツアーのコーディネーターに任命された。


「滅多にない外務省からの仕事だ。頼んだぞ!外務省には、うちのエースを派遣したと言っておいたからな」


 社長の輝かしい笑顔が、当時の私の焦燥感を際立たせていた。本当にこの大役をこなせるのか、全く見当もつかなかったのだ。


 ツアーの訪問先はインドネシアだった。現地の労働局をはじめ、日本語学校や人材仲介会社など、息つく暇もないほどのスケジュールが組まれていた。出発前に通訳を探し、現地ガイドを手配し、ホテルや車両の予約を行う。それまで全く接点のなかったインドネシアとの繋がりを、短期間で無理やり作り上げていった。出発までには、日本語も英語も中途半端な現地のインドネシア人と、なんとか意思疎通ができる程度には漕ぎ着けた。泉は自動車部品メーカーの人事担当で、国内の職人不足を憂い、インドネシアからの人材輸入を検討するために、あのツアーに参加してくれた。陽気な性格と、唯一の同い年という共通点から、私たちはすぐに打ち解けた。


「そういえば、インドネシアでさ、あの白バイはどうやって追い払ったの?」


 焼肉が焼き上がり、煙が立ち上る中、泉はハラミを一口食べながら、興味深そうに尋ねた。


「ああ、白バイね。まず前日に、ガイドから五十万円払えば白バイに先導させられると言われたんだ。一瞬、怪しいと思ったんだけど、必要ないと断ったのに、結局翌日、白バイが来て強引に案内してきたじゃない?もう断れない状況だったから、そのまま従ったんだけど……訪問先の日本語学校の経営者に、あの白バイにお金を巻き上げられそうになったと話したら、向こうが何か話をつけてくれたみたい。」


「そういうことだったのか。いきなり白バイが先頭を走り出したから、驚いたけど、藤澤さんはずっと冷静で、気がついたらもういなくなっていた。さすが藤澤さんだ、インドネシアの警察まで手懐けたのかと思ったよ。」


「そんなわけないでしょう。だから最終日にみんなに、『白バイを退治してやった』って冗談で言ったのよ。」


 私はすでに、二リットルのメガハイボールを半分以上飲み干していた。喉を通るアルコールが、徐々に思考を鈍らせる。


「あんな短時間で、シビアな交渉ができるなんて、本当にすごいな、あなたは。そういえば、藤澤さんが見つけた通訳のファリズくん、うちの会社と正式に業務委託契約を結んだんだって。」


「本当?それは嬉しいな。私がSNSで求人を出して、何人も面接して決めたんだもの。皆さんのビジネスの役に立つことが、あのツアーの最大の目的だったから。」


「彼はね、日本語が上手いだけじゃなくて、頭の回転も速いんだよ。藤澤さんの人を見る目のおかげだね。」


 泉はまっすぐ私の目を見て、力強く言った。その言葉は疲弊した私の心にわずかな光を灯した。


「えっと……紹介料は……」


「紹介料は、このホルモンだな。」


 泉は箸で網の上のホルモンを指し、いたずらっぽく笑ってみせた。


「チッ、つまんね!」


 そう言って、私は残りのハイボールを飲み干した。わずか三ヶ月で、私は名実ともに会社のエースから重点指導対象になって、失意の底へと転落していた。この落差に今更ながら眩暈がするのだった。

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