第3話~指が、動いた~
まずは整理だ。前職で必死に覚えた、事業会社特有の言葉たちを、藁にも縋る思いでリストアップした。
上場関係の言葉
IPO:新規上場
機関投資家
投資家説明会
ストックオプション
普段の会社運営で使う言葉
役員会:あの忌まわしき「役会」
予実管理:予算と実績の、残酷なまでの比較
KPI:経営を縛り付ける、重要指標
ARPU:ユーザー一人当たりの、血も涙もない取扱高
営業利益:売上という名の、儚い夢
利益率:10%?神話の世界の数字だ
これだけの知識が現在の私の唯一の武器になった。これからの業務の中でこれらのワードにまつわるものが出てくると積極的に食いつき発言し、中身のある人間と見せようと決めた。
出社二日目にして、もうリモートワーク。画面越しに、川村マネージャーだけでなく、部署全員と顔を合わせた。誰もが有名企業の出身者で華々しい経歴の持ち主ばかり。でも、彼らが知らない私の経験だってある。臆する必要なんて、微塵もない。そう、私は私だ。手元の言葉リストを睨みつけ、脳内に会社員モードを叩き込む。
大丈夫、大丈夫。どんな仕事にも、普遍的な法則がある。私は、その法則を知っている。結局、全ては自然の摂理なのだから。
「それでは、藤澤さんの今後のプロジェクトについて説明するね。」全員の自己紹介が終わり、川村マネージャーの耳ざわりの声が容赦なく私の鼓膜を突き刺さった。
「去年立ち上がったばかりのプロジェクトで、NPSですね。今は事前調査が終わったところで、藤澤さんにはWBSを作成してもらいたい。主担当は岡山さんなので、しばらくアシスタントとして入ってください。」
え?ええ?頭が真っ白になった。重要な言葉が二つもあるのに、どちらも分からない!
愛想笑いを浮かべながら、高速にキーボードを叩き、NPSとWBSを調べた。
NPSとは、顧客がどれだけその製品を他人に勧めたいかというアンケート調査。つまり、顧客満足度のようなものか。なるほど。次はWBS。これは、スケジューリングのことか。名前は初めて聞くけれど、スケジュール表なら見たことがある。まだ、慌てる時間じゃない。
「あ、それと、一部の施策はすでに始まっているので、施策の部署からシーケンス図をもらうために、顔合わせをお願いしますね!」
施策、ね。漢字を見れば意味は分かる。次はシーケンス図。設計図みたいなもの、か。五秒ほどの検索で分かったのは、ここまでが限界だった。
「藤澤さん、岡山です。何でも聞いてくださいね!」柔らかい雰囲気の女性、岡山さんが声をかけてくれた。何でも聞けそうな、優しい人だ。救われた。また、川村マネージャーのような波長外れじゃなくてよかった。
「はい、こちらこそよろしくお願いします!リモートワークはほとんど初めてなので、至らない点が多いかと思いますが、積極的にコミュニケーションを取っていきたいと思います。」とりあえず、言い訳を一つ挟んでおく。
「そうなんだ。前職では、コロナ禍でもリモートワークはしていなかったの?」川村マネージャーが尋ねる。こいつ、鼻につくけど、けっこう鋭い。
時系列を思い出せ!そうだ、前職の期間はコロナ禍と丸被りだった。「はい、最初は少しだけやりましたが、その後は電話対応が中心になり、結局ほとんど出社していました。」画面越しに張り付いた笑顔を浮かべる。おそらく初対面の彼らは、これが私の素顔だと思っているだろう。
別に、心配なんてしていない。彼らは優秀な人材かもしれないけれど、所詮は会社員という敷かれたレールの上しか生きていない。世界的に有名な教授の下で科学研究をしたことも、三十歳前に自力でアメリカ留学を実現したこともない。大丈夫。私は、大丈夫だ。きっとやっていける。
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