【1-2k】異世界転生は床ペロから
人は「生まれた瞬間の記憶を持っている」と言う。それを思い出せないのは、思い出したくないからなのかもしれない。
冬の寒い朝、布団の中で体温が布団と同化すると、鼻から入る冷たい空気を避けるように丸まって、顔を布団の中へうずめる。自分の作り出した温もりに包まれるのが好きだった。
けれど、やがて起きなくてはならない。やるべきこと、やらされていることが待っている。学校なのか仕事なのか治療なのか、あるいは誰かのためか、自分のためかはわからない。それでも、もうすぐここを出なくてはならないのだろう。ひとつため息をつく。身体が覚醒に近づくにつれ、ゆっくりと血が巡りはじめ、寝る前に頭の中で書いたToDoリストの輪郭がはっきりしてくる。
――このまま布団の中にいても息苦しくなるだけだ。温もりに浸りきれば、逆に外へ出たくなる。そうわかっていても、もう少しだけ……
バシャッ!
突然、水音とともに冷たい石の床へ叩きつけられた。冷たい! 寒い! 痛い! ぬるま湯のような心地よい世界から放り出され、泣き叫びたくなる。
周囲を見ると、ぼくを覆っていた温かくてぬるりとした透明な液体が、ぼくを中心に飛び散っている。まるで、その中にいたかのように。まだ背中には微かな温もりを感じるが、左の頬には冷たい床の感触がある。焦点が合わないまま視線をめぐらすと、こぼれた液体の周囲に小さな光の粒がホタルのように漂っていた。実際にホタルを見たことはないけれど、アニメの綺麗なシーンで見たそれに近いかもしれない。こんなに明るいなら、豆電球やLEDなんて発明されなかったんじゃないかと思うほどだ。
光の粒はふわふわと浮かび、ぼくの周りを円を描くように舞っている。テトリスのブロックのような記号や文字の断片らしきものも一緒に踊っては消えていく。
頬の冷たさから逃れようと、鈍く動く身体をなんとか操作して顔を上げる。すると視界に入ったのは、つま先が丸い靴と白いストッキング――というより厚手のタイツだろうか。おそらく女性の足だ。革靴は硬そうに光り、くるぶしから足の甲にかけてはゆるやかなアーチを描いている。ふくらはぎの起伏、膝の台地、内もものラインをたどって自然に視線を上げていくと――
…わお。
最近のアニメなら白い光で隠されそうなくらい、眩しいほどに白い。パンツなのか、それとも最近のアニメなら水着と言い張るのだろうか?
そんなことを考えるより先に、目の前が光に包まれた。
ゴッ!
鈍い衝撃音。頭がくらっとして視界がチカチカする。どうやら踏みつけられたらしい。しかもかなりの勢いだ。痛みと混乱に加えて、「ごめんなさい」「ありがとう?」という奇妙な感情が湧くが、うまく処理できない。再び視界は床へ倒れこみ、おでこが冷たい。
彼女――そう呼ぶしかないだろう。あの太ももの肉づきは女性だとしか思えない。その彼女が何か言葉を浴びせる。シュ、シャ、ヴァ…まるで俳句を超えた謎の音だけの言語だ。そして次の瞬間、首筋に鋭い痛みが走った。
そこからは、勢いと混乱の嵐だった。まるで動画サイトをつけっぱなしで寝てしまい、自動再生でヘビメタバンドのライブ映像が急に流れ出して叩き起こされたかのようだ。ヴォーッという轟音とともに、彼女の声がまた響く。
「 」
「 」
「基礎言語モジュール(公用語)をインストール実行中」
「基礎道徳を書き換え(v6.13β)」
「領域確保のために前世記憶を圧縮」
「サイズが大きいので圧縮できません。そのまま削除しますか?」
「はい」 「いいえ」
(上位管理権限の挿入…)
→「はい」
なんだこれ。なんだこれ!? 頭の中にいくつものウィンドウが開いては消えていく。まるでネットの怪しいリンクをクリックしたときにポップアップが大量に出てくる感じだ。そうだ、あの記憶…部屋?教室?どこかの場面?でも思い出せない。それがどんどん暗くなる。エッチなサイトを開いたときみたいに、制御不能なほどウィンドウが増えていく。それどころか、そういうときの記憶さえ消えていく気がする。
(削除を実行中。そのままお待ちください)
記憶が、思い出が、ぼく自身が――どんどん消えていく。名前も家族も住んでいた場所も好きだったものも、すべて思い出せない。焦ったぼくは手で顔を覆う。右手の中指が硬い。ペンだこだ。ぼくは何か勉強していたのだろう。あれは寒い冬だった。窓の外は…白かった?思い出せない。頭の中で書いた文字も白く溶けていく。関連性が失われ、ひとつひとつが繋がらなくなる。頬を冷やすのは汗なのか涙なのか。
「検知 対処 AUG自動詠唱 トランキライザ レベル1 パラライザ レベル1」
画面にそう表示されると、ぼくは自分の記憶や思い出がどうでもよくなった。思い出せなかったことなのだ、きっと必要のないものだったのだろう。本に書いてあった気がする。「過去も未来も存在しない。あるのは今だけだ」と。著者の名前もタイトルも思い出せないが、どうせ忘れてしまうなら読んでいないも同然だろう。
そんな納得さえ、やがては忘れてしまうのだろう。だから「今」だけでいい。いままでなにものにもなれなかったのなら、これからもなにものにもなれない。
ぼくの口元からは、妙に心地よいよだれが、だらしなく垂れていた。
「再起動してください AUG自動詠唱 スリープ レベル3 介入詠唱 HEW 〜おやすみなさい よいゆめを〜」
そうして、ぼくの視界は真っ暗になった。
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