第3話
海が見える。
その丘は、まるで大きな水槽を抱いているようであった。
風に吹かれて、彼が居た。
昨日とは打って変わって、木の一本も立っていない寂しい場所だった。
夏の風は肌を撫で、心の奥底に突き刺さる。
彼は今、鬱病のような色彩の、海原と対峙していた。
「……昔はベンチがあったんだ」
もう、そこに居るのは分かっていた。
「なんか、静かな所だね。公園…じゃ、なさそうだけど」
「うん、多分、ハイキングコースの休憩所だと思う」
「ふーん……今度はここなんだ」
彼は、かつて二人で座っていたあの場所に、腰を下ろした。
彼女は海の方を見ているばかりで、微動だにしなかった。
「…なにも無いだろ、この町」
「うん、まぁ…田舎だね」
「子供の頃は…山ぐらいしか無かったんだ。遊ぶ所が」
「なるほどね。じゃあここも…」
「……うん」
「いつ?」
「……中学」
今夜は、星は眠りに落ちている。
辺りは暗く、お互いがよく見えなかったが、大した問題ではなかった。
「なんかさ、邪魔だよね。叶わなかった約束って」
蒸し暑い、夏草の声がする。
「そんなもの、置いてきゃいいのにさ」
晩景の夜は、どうしてこんなにも、こんなにも。
「もう、誰も来ないよ」
死にたいと思えるのだろう。
「……条くん」
彼は、自分でも気づかないうちに、立ち上がっていた。
彼女の瞳は、どんな夜よりも、ずっと暗いと思っていた。
そうではないことに気がついたのは、唇が触れ合ってからだった。
星空はここにあったのだ。
眠りに落ちてなどいなかった。
「………ごめん」
「……ほんとにね、馬鹿みたい」
「自分でも……驚いてる」
「『僕はこんなに大胆だったのか』って?」
「……いや」
二人は、座り込んだ。
いや、諦めてへたり込んだのかもしれないが、もう二人にも分からない。
「……生きたかったんだな」
「生きたかったんだ」
「僕は」
彼女は、何も言わず、抱きしめた。
さざ波が、蒼い絶叫をあげた。
彼女の瞳が滲む。
涙でも流しているように。
抱き合って、ただ、抱き合って。
「………ありがとう」
「……条くん」
風は、もう何処かに旅立っていた。
「……君が居なかったら、僕は……」
「……うん」
二人は、夏草の上に寝転んで、寂しくて、静かで、暖かい真夜中を迎えた。
「……もう大丈夫だね」
彼は、彼女の名前すら知らなかった。
しかし、その抱き寄せた体は、どこかで、
ずっと知っていたはずの温もりだった。
「条くんなら、きっと大丈夫」
彼は、一人になった。
温もりを胸の中に残して、彼女は、居なくなった。
いや、はじめから、居なかったのかもしれない。
あの教室を、彼は思い出していた。
あの杜を、思い出していた。
あの約束を、この温もりを。
忘れないように、忘れないように。
長かった夏が、ようやく、終わってくれた。
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