序章

——冷たい雨と、終わりの夜——


雨が降っていた。


冷たく、重く、すべてを押し流すような雨。

ビルのネオンが水たまりに滲み、歪んで揺れる。


足元を見つめる視界の端で、車が水しぶきを上げて通り過ぎていった。

誰も、立ち尽くす私には気づかない。


「……もう、どうでもいい」

そう呟いた声は、雨音にかき消されて消えた。


このまま、世界から消えてしまえたらいいのに。


傘を持つ気力もない。

髪も服も、とうにずぶ濡れだった。


寒さも、濡れた感触も、もうよく分からない。


どこへ行けばいいのかも分からない。

誰を頼ればいいのかも分からない。


唯一の拠り所だった場所を失った。


—— 一緒に暮らしていた彼氏が、他の女と抱き合っていた。


それを見た瞬間、全てが崩れた。


「……はは、バカみたい」


笑ったつもりだった。


でも、喉の奥から漏れたのは、ひどく弱々しい声だった。


信じていたのに。

愛されると思っていたのに。


結局、私は誰の特別にもなれないまま、ひとりぼっちなんだ。


このまま歩き続けたら、私はどこへたどり着くんだろう。


それとも——

この雨に溶けて、何もかもなくなってしまえばいいのに——




——行き場のない猫——


車の中で、和輝はタバコを咥えたまま、スマホの画面をぼんやりと眺めていた。


未読のメッセージがいくつも溜まっている。


窓の外では、雨粒が次々とガラスを叩き、街の景色を滲ませていた。


「……そろそろ行くか」


そう思ってスマホを手に取った瞬間──


視界の端に、″ずぶ濡れ″の女が映った。


傘もささず、ただ立ち尽くしている。


まるで、行き場をなくした″猫″みたいに。


—— 妙に、気に障る。


通りすがりの他人。

関係のない女。


なのに、なぜか目が離せなかった。


気づけば、和輝は待ち合わせのことなど、どうでもよくなり、女の前へと足を進めていた。




—— 導く手——


「……おい」


低く、冷たい声が雨音の中に響いた。


ゆっくりと顔を上げる。

そこには、黒いコートを羽織った男がいた。


雨に濡れた黒髪が額に張り付き、その奥の瞳が鋭くこちらを見据えている。


「……何してんだ、お前」


その声が妙に耳に残る。

無関心なようで、どこか棘のある声音。


まるで、

″私の存在が目障りだ″と言わんばかりに。


「……別に」


私は視線を逸らし、足を動かそうとした。

でも、なぜか動けなかった。


「″別に″、ねぇ……」


男はポケットに手を突っ込み、ふっと短く笑う。

その瞬間、″背筋がぞくり″とした。


—— この人、誰?

知らない。

見たこともない。


なのに、なぜかこの人の視線が妙に引っかかる。


「行くとこねぇんだろ?」


言葉を失った。

図星だった。


何も言えないまま立ち尽くしていると、男がため息混じりに言った。


「……ほら、歩け」


「は?」


意味が分からなかった。

何が″歩け″なの? どこへ?


私が困惑していると、男の手が私の腕を掴んだ。


「……っ!」


逃げようとしたわけじゃない。

けれど、その手が思ったよりも″熱くて″、思わず息を呑んだ。


「……あんた、誰……?」


男は何も答えず、ただ静かに言った。


「黙ってついてこい」


その瞬間、私はもう、何も考えられなくなった。


ただ、言われるままに歩き出していた。



第1章に続く⸻


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