9月29日④

 視聴覚室は真っ暗だった。私は後ろ手で扉を注意深く閉め、部屋全体を見渡して息を呑んだ。ほとんど何も見えなかったので、私は数十秒間その場でじっと静止した。次第に目が慣れてくると部屋内の備品の輪郭が闇の中にじんわりと浮かび上がり、私はそれらとの距離感を理解しつつあった。


 締め切った遮光しゃこうカーテンが、窓際一面に重苦しい漆黒の膜を広げている。部屋いっぱいにずらりと並んだ無個性な長机や正面の巨大なスクリーンは、まるで匿名の群衆のような冷めた目つきで私を見つめているようだった。おまけに何故かは分からないが、室内は廊下より肌寒かった。

 私は小さく身震いして、左手に握りしめたセフィロスのアミーボを握る力をぎゅっと強めた。電気を付けたかったが侵入がバレるかもと考え、万一に備えてそのまま続行することにした。


 私は教卓の上にあったテープカッターを手に取り、部屋の中央に移動した。天井を見上げると、プロジェクターが丈夫そうな足を突き出してついている。長机がちょうどその真下に位置していたので、私はセロハンテープをアミーボの台座に数枚貼り付けてから、おっかなびっくり卓上に乗って手を伸ばした。

 おぼつかない手つきでようやくプロジェクターに固定されるセフィロス。宙吊りに高く掲げられたそれは、誰に見せるでもなく、虚空に向かって不敵な笑みを浮かべ続けている。

 だった。超現実的、超自然的な光景。非日常や違和感の象徴。決まり事や習慣をあざ笑う偶像。あるいは街頭に吊るされた死体。あるいは、今の私。

 私は教室の真ん中の椅子に座って、スマホを取り出した。暗闇に鋭い明かりが広がった。その容赦の無さに少したじろぎながら細目ほそめで通知を確認すると、ケイからも連絡が来ていた――サキちゃんのと同じく、内容も見ずにスライドして消した。

 時計を見ると、12時40分だった。先程から吹奏楽の音色が聞こえなかった。多分、お昼休み。私は例の七不思議の手順にしたがって、頭の中で12秒数えた。

 ――12秒待ったが何も起こらなかった。そういえば最後に何が起こるか聞いてなかった。この“バグ技”が成功しても、それを知らせる合図みたいなものは存在しない。急にプロジェクターが起動するとか効果音が鳴るとか、そういう成功の証みたいのは無いのかな。



……まあいいや。これで私は――急ごしらえの七不思議のルールに従えば――念願叶って、私の想い人と両思いになれるのだ。明日になれば、きっとなんか良い感じの人が颯爽と現れて、恋物語に私を連れて行ってくれるのだろう。明日が楽しみで仕方がない。

……何の達成感もわかなかった。その上、こうやって皮肉を考えるのも疲れてきた。私は机に突っ伏して大きく息を吸い込んで、ゆっくり吐き出した。ため息とは少し違う、徒労に対する自分へのねぎらいのあいさつ。これで本当に終わり、お疲れ様。そんな気分がした。

 考えてみれば当たり前のことだった。既に何もかもは終わったのだ。もっと正確に言えば“終わっていた”のだ。それを無理やり叩き起こして、気まぐれに蘇らせてみせたに過ぎない。今までの事は全て私の記憶に、執念深く姑息こそくな空想が入り込んで実体を得ようと画策した、その計画の過程で起こった副産物だった。

 私は自分の思い出が、得体のしれない“何か”に覆い尽くされていく様子を想像した。上手く出来なかったが、それでも続けてみる。楽しかったことや苦しかったこと、私が持っているあらゆる過去が黒く濁っていく光景。記憶の中で微笑みかける両親や友達たち、柔らかい陽光の中に広がる町並み、意地の悪い同級生や先生。それらがひとつひとつ黒く塗りつぶされ、やがて最後には自分しか残らなかった。


 とても悲しかった。そしてその諸悪の根源を呪った……仮にそんなものが存在するとしたら。

 私は、いもしないに思いを馳せる。どうしてそんなひどい事をするのだろう。深く考えてはみたが答えは出なかった。そのかわりに、もうひとつの感情を抱く自分がいる事に気がついた。

 それは喜びにも似た感情だった。形あるものが“何か”に壊されていく快感。自分と自分の生きてきた道筋をいともたやすく引きちぎり、ねじ曲げ、歪ませ、誤って繋げようとする“何か”。その“何か”は無防備な彼らを簡単にだまし、もっともらしい事を言って説得する。そうして懐に潜り込んだ“何か”は、理不尽な力で破壊の限りを尽くす。

 自分の内側が、自らの招いた無知によって壊される様子をどうしてか私は容易に想像できた。圧倒的な暴力だった。それが終わればあとには無秩序が広がる。

 そしてそれはしばしば起こりうる。それを引き起こす正体が何であれ――


 私は机に突っ伏して、1時間ばかりこうしていた。スマホで時間を見ると、13時50分だった。吹奏楽部のお昼休みはとっくに終わり、10分ほど前から各楽器がそれぞれのパート練習をする、雑多な音が聞こえていた。私は上体を起こして正面のスクリーンをじっと見つめた。それから、午前中に見た映画の結末を上手く思い出せない事にやきもきした。やっぱり男の子が戻ってきてハッピーエンドだよね? と思ったがあまり確信は持てなかった。

 部屋内が相変わらず肌寒い。私はパーカーのフードをかぶってジッパーを一番上まで上げた。その時、窓を開けていないのにカーテンが少しだけふわりと動いた。吹奏楽部の音色が先程から聞こえなくなった。

 そういえば、あの二人にはなんて説明しよう。悪いことをした。この埋め合わせは後日きちんとしようと思った。

 何が良いだろうか少し考える。しばらく考えてparadisoのケーキセットが頭に浮かんできたので、ぴったりだと思った。それで許してくれるかは分からなかった。『用事』という事で離脱してきたけど、明らかに二人には“心配”されていた。私は心のなかで謝って、明日言うべき言葉を、心のなかで何度か繰り返した。


 そんな事を考えていると、背後に気配を感じた。私は振り返らなかった。

 現れたのは、ナナミだった。

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